犬を抱きて

「い、犬だ~!!」


「うおおお! き、危険だぞ!」


「先生たちが何とかするから教室に入ってなさい!」


 一匹のコーギーが学校の中に入ってきて、校内が騒ぎになった。笑ってるみたいな大きな口、ピンと張った三角の耳、短い手足、ふりふりのお尻。非常に愛らしい生き物だ。そこにたまたま通り掛かった私は思わず立ち止まった。すると犬はすごい勢いでこちらに走って来た。


「危ない! 亜弓あゆみさん!!」


 そう言って飛び出してきたのは西崎だ。私の前に立ちふさがり、両手を大きく広げて仁王立ちしている。果たして西崎は犬の突進により大きく転倒し、犬に顔面をしこたま舐められてべちょべちょになっている。犬の頭を撫でているとふわふわの毛に埋もれて首輪が見える。


「あれ、この犬、首輪に名札付いてる。えっと、太陽のタマゴちゃん」


「な、なんでそんなマンゴーみたいな名前を……。マンゴーちゃんじゃ駄目だったのか?」


「飼い主が高級嗜好なんでしょ。あ、先生、この子多分知ってる子なんで飼い主のところに届けてきます。授業はサボります」


鴻巣こうのすさんね、成績良いからって、何度も早退してると評価下がるわよ」


「俺もサボります!」


「西崎くん、あなたは成績悪いんだからちゃんと授業に出なさい」


 太陽のタマゴちゃんを抱いて私は学校を出る。晴天、暑さも鳴りを潜め、ブラウスにカーディガンという服装が一番合う気候。午前中、学校や会社が始まって道は静かで人通りも少ない。夜の散歩とは違う、この時間独特の孤独感が私は好きだ。眠りではなく、誰かが何かを営んでいる間の静寂というものは、守られているようで安心する。


「あの、鴻巣さん、その犬、重かったら持つの代わるよ!」


 そうやって声を掛けて来たのは曽根くんだった。その後ろから遅れて西崎が走ってきている、結局サボったのか。


「曽根くん、何でここに? 授業は?」


「鴻巣さんだってサボってるじゃないか。本音を言うとちょっと二人で話したくて付いてきたんだけど……」


「亜弓さーん! 俺も授業逃げてきた! 犬は凶暴で危険だ! 俺に任せて!」


「何か変なのも付いて来ちゃって」


「はあ、まあ付いてきたら?」


 こうして3人で並んで飼い主の家に向かう。太陽のタマゴちゃんは曽根くんが持っても、西崎が持っても暴れるので、結局私が抱えることになった。のんびりとした時間とは裏腹に、修羅場の空気を孕んだ道行きに既にウンザリしていた。それでいて曽根くんも西崎も何も言う気配がない。


「着いた、ここだよ」


 チャイムを鳴らすと程なく30代半ばくらいの女性が出てくる。


「はーい、あら亜弓ちゃんいらっしゃい。あ、旦那に用かしら」


「いえ、この子、確か吉上さんのところのですよね。脱走して学校まで来てました」


 吉上さんが私の腕に抱かれている犬を見て、彼女はびっくりしたように庭の小屋を確認しに行く。そして太陽のタマゴちゃんが居なくなっていることを今気づいたようだった。


「本当だ! ありがとう~! この子今日はちょっと家に入れておきましょうかしら。良かったらあがってお茶でもどう?」


「え、僕らまだ学校があって」


「じゃあお言葉に甘えて上がらさせてもらいますね!」


 私はそう言って吉上さんの家に上がり込む。後ろについて来ている男たちも一緒に入って来た。先に学校に戻ってくれても良いものを。


 吉上さんの家は少し古い造りの一軒家だ。建て付けは悪いが、奥さんの趣味なのか、様々な小物や家具でモダンな雰囲気にまとまっている。少し斜めになった和室に案内されると旦那さんと奥さんがジュースとお菓子を持って部屋に入ってくる。


「亜弓ちゃん久しぶり。うちの子届けてくれたんだって? ありがとうね」


「お久しぶりですテンプテーションさん、最近はクランの通話にも参加できずすみません」


「そちらのお二人は?」


「今カレの西崎と元カレの曽根くんです」


「へえ……」


 そう言うとテンプテーションさんは二人の男子を交互に眺める。明らかに修羅場を持ち込んで来ていることに引いている様子だが、難色を示さないのは大人の余裕というやつだろうか。私も好きでこの状況にいるわけではない。が、もとを正せば全て私の気紛れに起因しているので、責任がないとは言えない。曽根くんが口を開く。


「あの、鴻巣さんと、えっとテンプテーションさん? はどういったご関係で?」


「あー、そうだよね、僕みたいな歳の男と亜弓ちゃんみたいな女子高生が知り合いだと先ず犯罪を疑うよね。気持ちはわかるよ。僕と亜弓ちゃんはレッドリトルサイファイっていうソーシャルゲームの同じクランで、その集団オフ会で知り合ったんだ」


「その紹介だと結局犯罪臭は消えてないですが……」


「奥さんも同じゲームやってるのよ。それで、まあゲームの話で盛り上がってたまにお家にお邪魔してるの」


 西崎は明らかに人見知りをしている様子で家の中をキョロキョロと挙動不審に眺めている。それに対し、曽根くんの態度は堂々としており、同時に客人として饗されているという謙虚さも備え、非常に好感が持てる。


「それで彼氏と元カレくんは一体何故一緒に……」


 テンプテーションさんのデリカシーのなさは折り紙付きなので、どうせこういう質問をすることは判っていた。逆にこういう呼び水がなければ、この男たちが話をするきっかけは来ないだろうと思っていたので、今その空気の読めなさはとても助かるのだ。


「僕は、鴻巣さんに話があって」


「お、俺? 俺はその、なんとなく、一緒にいたくて、です」


「元カレくんはなんか理由が曖昧なんだね」


「あ、違います。逆ですよ。私の彼氏はこっち。こっちは元カレです」


 そう言って西崎と曽根くんを指で示すと、テンプテーションさんと奥さんは目を合わせて「えー!?」と叫びながら後ろに転倒するなどという昭和的なリアクションで驚きを全身で表現してくれた。テンプテーションさんが起き上がり小法師のように再び姿勢を戻すと考え込むように言う。


「え、つまりこの爽やかイケメンくんを袖にして、こっちのナポレオン・ダイナマイトみたいな子と付き合い始めたの?」


「誰がバス男だよ!」


「私自身も迷盲たるを疑義せんとする次第ですが、はい、そうです」


「あら~、亜弓ちゃんかわいいからモテるのねぇ。お二人は亜弓ちゃんの何処が好きなの?」


 この奥さん、修羅場を楽しむ気満々だ。


「僕は彼女の美しいことも勿論ですが、芯の通っているところが好きです。学校では様々な同調圧力が働いていますが、彼女はそれらに頓着せず、自分が納得の行く選択をする、そんなところに惹かれました」


「お、俺は前に助けてもらって、あと、意地の悪いところが好き、です」


「何の面接だよこれ


「うーん、僕はやっぱり元カレくんの方がいい男に見えるんだけどなぁ」


「あら、私はなんとなくわかるわよ! 今の彼氏さんと亜弓ちゃんは春琴抄みたいな関係なの! 主従関係に近く、恋愛としては互いに求め合う感じではないけれど、態度とは別の精神の深い部分での信頼関係があるのよ」


「いや、私、春琴ほど性格悪くないと思うんですが……」


「ええ、わっかんないなぁ。だってこっちは完全にコミュ障のオタクくんじゃん。そんな子に亜弓ちゃんが取られるのは納得がいかないなぁ」


「あなたご自分のお顔を鏡で確認してみたら? 人のこと言えないでしょう?」


「鴻巣さん!!」


 曽根くんが急に大きな声で私を呼び、一同はしんと静まり返る。振り子時計のカコカコという音が部屋に響き渡り、その一定のリズムが一層沈黙を浮き彫りにするようだった。私が曽根くんの方を向くと、彼もこちらを真っ直ぐに見つめている。整った顔立ち。自身の善意を疑わず、また周囲の善意を沢山に受けてすくすくと育ったような純真な瞳。ああ、そうか、私はそういうものが嫌いなんだ。


「僕はまだ諦められないんだ。僕は鴻巣さんのこと大事にできる。あなたのためなら悪漢に襲われようと助け出せる。将来のことを考えていい会社に入れるようにもする。今だけじゃないんだ、ずっと先まで大切にするように僕は考えてる。気に食わないことがあったらそれも正す。だから、お願いだ、チャンスをくれ!」


「元カレくん、振られた男の典型みたいなことを」


「シッ!」


「曽根くん、私ね、曽根くんのそういう真っ直ぐなところ、純真で正しくて、キラキラしているところが……、嫌いみたい」


「え!?」


「あなたが私の為にそう言った人間的美徳を捻じ曲げる必要は勿論ないし、すべきではない。でも私は根本的にそういう人間が嫌いなの。悪いことを考える人間が好きだとかそういう意味ではない。そうではなくて、環境や人、そういったものに苦汁をなめさせられている人特有の泥臭さ、人間臭さというのが好きみたい」


「僕はそんなひねくれたところが好きなんだ」


「曽根くんのそれは認知的不協和だと思うわ。あなたは私の恋愛感情に於けるこの感覚を理解していない。あなたのヒマワリのような笑顔は多くの人を元気にすると思う、それはあなたの環境と自身の努力によるもの、誇ると良いと思う、実際それを多くの人は称賛すると思うわ、私も称賛する。でも私は踏みつけられても咲く野芥子ノゲシのような人が好き。いや、この西崎のツラで野芥子ってのがアレならぺんぺん草でも良いんだけれど、兎に角、私はこいつの身を守るように音楽や映画を愛する偏屈さが美しいと思ったの」


「それこそ認知的不協和じゃないか! 西崎が優れていると自身が思い込む為の詭弁だ」


「亜弓さん、そ、そんな風に俺のことを……、か、感激だぁあッ!」


 西崎はわんわんと泣き出して、曽根くんは理解しかねると言った顔をしている。まるで私に宇宙人を見ているような、そういう顔だ。曽根くんの反応は正しくて、きっと私の選択や好みはあまり正解ではない。けれど、多分私の気持ちというのはこういうことだ。


「私は二人の何が優れているという話はしていない。そこに合理性がないことも理解している。けれどこれは私と言う人間を理解する上で必要な要素なの。曽根くんや私、それに西崎も、私たちの言う恋愛というのは同じ名前の全く別のもの。それでも重なり合うことがあるとすれば、それは自分の性質と共鳴する部分。同じものである必要はなく、不足している部分でも良い。それが相互依存であっても、主従的関係であってもいい、ただ共振するその要素が大事なの。それが私の恋愛であって、美なのよ」


「承服しかねるけれど、理解ができないという点で僕はキミを好きでいられる自信がなくなった」


「俺は良くわかんないけど、俺のことを好きでいてくれるってことで良いんだよな! やったー!」


「よし! いい話聞けたしお昼に皆でピザでも食べようか。」


「あの、僕たちまだ学校があって」


「いいですね! お言葉に甘えさせてもらいます!」


* * *


 何の予定もない日曜日の朝、カーテンの隙間から柔らかい日光が差し込んで来て、それが私の目に眩しかった。目を開けるのが難しくて眉毛ばかりが動く。体を起こすと私はサイドテーブルに置いてある水を飲んだ。グラスの水がみるみる体に吸収される快さを楽しむ。すると見計らったように西崎から電話がかかってきた。


「もしもし、おはよう亜弓さん。夢に見たから電話してみた」


「夢で見た人に翌朝必ず電話をするなら、人生はもっと単純ね」


「……カラックス観てくれたんだね」


「うん、良かった」


「俺はアレックスみたいには生きられないけど」


「うん」


「キミのことを考えたらいてもたってもいられなくて、深夜に全力疾走した」


「不審者じゃん」


「俺は、亜弓さんみたいにしっかりしてないから、自己同一性が曖昧で、自分が何なのか不安になる。いつか自分で自分を見失って、キミとすれ違っても気付かずに通り過ぎてしまうような気がして、怖い」


「寝起きにする話かよ~、頭回らねえよ~」


「う、ごめん。俺、あまり眠れなくてほぼ徹夜」


「深夜テンションか~。いい、同一性っていうのはね、自分自身の中にあるのではなくて、観測する者の視線の中、その不変を信じる錯視の中にあるの。大丈夫よ、私が付き合ってる間はあんたの同一性を私が保証してあげる。もしすれ違ってもその手を握ってあげる。その握った手を軸に勢いづいた二人の体は遠心力でくるりと回って抱き合う。どう?」


 朝の曖昧な思考だからだろうか。我ながら恥ずかしいセリフが湧いてくる。でもそれはすごく自然なことのように思われた。私は西崎が好き。彼は自分の感情がどんなものなのかとか、論理的な思考がなくても、音楽や映画、美術でその赤裸々な感情を投げつけてくる。センチメンタルで美化されているかも知れないそれは、私にとってもキラキラしていた。


「セックスしてぇ~!」


「死ね」


 私は電話を切った。

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