感動の交換
西崎と勢いで付き合い始めたのは私は、誰にも気付かれたくなくて学校ではなるべく一緒にいないようにしてしまった。私の恋心はいつの間にこんなやつに首を
彼と同じクラスになったのは1年生の頃からだ。去年の冬、帰り道で一人河川敷を歩いていたときに、風が一筋ごうと吹いて、止まっていた鳩が一斉に飛び立ち、その下で沢山の色とりどりの紙が川の方に飛んで行ったのが見えた。それが酔っ払った雪みたいでとても綺麗だったのを覚えている。それは西崎の大切な映画やイベントのフライヤーの数々だった。髪の毛とマフラーから覗いている私の顔が、寒さで中央に集まってしまいそうな気温だったのに、彼は一目散に川の中に入って行った。たったそれだけのことだけれど、今でも覚えている。もし私も溺れたらそうやって助けてくれるのだろうか。
いい話をしたが、それはそれ、これはこれとして、私は西崎と付き合っていることが恥ずかしいので、秘密にしようと決めた。下校も別々。放課後どっかで待ち合わせるとか、土日に出かけるとかなら良いけれど、極力学校に関わるところでは他人のふりをしよう。
「俺、
「え、マジ? 可愛いけど、性格ゴミっしょあいつ。大丈夫なん?」
「え、西崎くんと鴻巣さんって付き合ってるの?」
「あいつ曽根くんと別れたばっかりだってのに尻軽かよ」
「西崎とかなくない? 寂しすぎておかしくなっちゃったのかな?」
学校に登校すると教室中が既に私たちの関係を知っていて、みんなして好き勝手なことを言っていた。そしてその噂の元凶が西崎本人からと来た。どうやら私にとっては恥ずかしくても、西崎にとっては自慢したいことだったようだ。
「いや、待ってみんな、こんなイレイザー・ヘッドみたいな髪型してるやつと私が付き合うと思う!?」
「いやぁ、
「自分でも自分の琴線ってやつの在り処が行方不明なのは確かなんだけど、マジかぁ、この話みんなすんなりと受け入れちゃうのか!」
「鴻巣さん、俺、鴻巣さんのこと大事にするから!」
「てめえは何嬉しそうに吹聴して回ってやがるんだよ、童貞かよこの野郎!」
「いや、童貞じゃないけど……」
その言葉に教室中が凍りついた。誰もが彼のことを童貞だと思って疑っていなかったし、クラスの童貞の代名詞のような扱いをしていたのに、実は多くの同級生にとって先輩であることがわかったのだ。中には悔しくぎて泣いてしまう男子生徒もいた。
「は? え? あんたほど30歳超えるまで童貞って姿が容易に想像できる男を見たことないんだけど、マジで言ってるの?」
「鴻巣さんが初めてじゃなくてごめん。でももう過去のことだから」
「雌イルカとしたことを言ってるわけじゃないの?」
「違うよ! あんた自分の彼氏を何だと思ってるんだよ、マルドロールの歌じゃあるまいし」
「それは鮫でしょ。知ったかぶりやめろ」
「ぎゃあああああ、西崎が非童貞なのに、俺は俺は……!」
「西崎の初めての相手だった女の子、かわいそう……」
「ハイ、お前ら座れ~、ホームルーム始めるぞ~」
阿鼻叫喚となった教室を沈めたのはホームルームだった。とは言えこれは結局一時的な静寂に過ぎない。波の引き潮のようなもので、昼休みにはまた高波となって揺り返して来るのは間違いがなかった。私はホームルームが終わると腹痛を理由に早退することにした。
「で、何で西崎も一緒に来てるわけ?」
「自分の彼女が心配だったんでばあちゃんが死んだことにして早退しました」
「もっと老人を労れよ」
「因みにうちのばあちゃんは未だにママさんバレーを続けてるくらい元気」
「
私たちは学校から二駅行ったちょっと大きめの駅で降りて、私のお気に入りの名曲喫茶に入る。ここなら同級生はまず来ないので、一人で読書をしたり、勉強をするときによく利用している。このご時世で未だに店内で煙草を吸える珍しいお店だ。レンガとコンクリートの壁に絵画がいくつか並び、小さな音でクラシックが流れている。西崎と私は座るとお尻が深く沈む少しくすんだ赤いソファに向かい合わせで腰掛ける。
「何か、意外なお店だ。鴻巣さんってもっとおしゃれなカフェとかに行くと思ってた」
「そういうのも行くけど、こういうのもいいでしょ。何頼む?」
「あ、俺はアイスコーヒーとたまごサンド。お腹すいちゃった」
「私はクリームソーダ。ここに来たらこれにしてるの」
飲み物が運ばれてきても私たちはお互いに会話もほぼなく、私は携帯をいじり、西崎も例のノートを読み返しているだけだった。結局沈黙に辛抱ができなくなったのは私の方だった。
「西崎は音楽とか美術とか映画とかアニメが好きなのね」
「え、俺アニメ見ないよ。オタクだからアニメが好きだと思ったんだろ。残念だけど、俺はアニメにあんまり感心がないから、他のオタク達と友達にもなれなくて、それで孤立してるんだよ」
「孤立している自覚はあったんだ」
「あったよ。でも気にしてなかった。俺はいっつもこのノートのことで頭がいっぱいだから、友達がいなくても。いや、ごめんめっちゃ寂しかった。けど、音楽とかが楽しいってのは別。これは一人でも楽しめる」
「ふーん、でも音楽とかも一緒に聴く人がいたほうが楽しいんじゃない?」
「それって、今度からは私がいるよ! って意味ですか! 亜弓さん!」
「いきなり名前で呼ぶなよ! そういう意味でもなかったけど、まあそれでもいいや。今度オススメの音楽聴かせてよ」
寒空の下、川に飛び込んでしまうほどの愛おしい音楽を。
「う、うん、もちろん!」
西崎は心の底から嬉しそうに笑う。それを見ると私もちょっと嬉しい気持ちになる。私たちは思い出したように連絡先を交換する。こいつ相手に恋人の連絡を待っているときの、あの親密でソワソワした時間を感じることになるのだろうか。私たちは、"相手が自分をどう思っているかわからず、その甘い関係を続けるか、終わらせるかわからない、告白までのドキドキの駆け引き時期"をすっ飛ばしている。だからなのか、私はこいつに甘い感情を抱いていない気がする。
「あの、亜弓さんはなんで俺なんかと付き合ってくれるって言ってくれたの? 俺はその、あんまり見た目も良くないし、学校のカーストは最下層だし」
「うーん。私もわかんないんだ。でもあんたが去年フライヤーを川に飛ばしたの思い出したよ」
「ああ、あれは最悪の日だった。見てたんだね。殆どのフライヤーは流されちゃうし、拾えたのもグニャグニャになっちゃったし。何であの日を?」
「別に。何でだろうね」
* * *
家に帰ると運が悪いことに父親がいた。どうやら風邪をひいて早退してきたらしい。私も腹痛(の仮病)で早退したことを告げると、すぐさま嘘と決めつけて叱責してきた。
「お前がそうやってサボってる学校の金を払ってるのは誰だと思ってるんだ?学生ならちゃんと学校に行って勉強しろ。いいか、父さんはお前のことを思って言ってるんだぞ」
「はいはい。判った判った。明日はちゃんと行くよ。今日は休ませて」
そう言って私は部屋に戻る。なるべく父親と話したくないという気持ちが強すぎて、彼が正論を言っているのかそうでないのかはもはや問題ではなかった。ただ単に私は父が嫌いなだけかもしれない。と、考えるのは思考の放棄だろうか。
夜、西崎から今度お姉さんと行くライブに一緒にどうかという誘いのメッセージが来ていた。余り興味はなかったけれど、せっかくだから行くことにした。お金は西崎のお姉さんが持ってくれるらしい。とても優しいお姉さんなのだろう。一人っ子の私は少しだけ羨ましく感じた。
* * *
日曜日の午後、西崎と一緒に美術館に来た。ドイツの写真家の個展で、アクチュアルな風景や群衆の写真が特徴的だった。構造物、
「これスゲー、なんか良くわかんねえけどすげえパワーだ」
「あんたの感想の語彙力のなさに私は驚いているよ」
西崎はこういう感動をその体に沢山蓄えているのだ。そしてそれがあのノートなんだ。私の知らない色々な感動を知っている。そう思うと少し羨ましくなる。
「来てよかったよ」
「マジ? 俺もそう思う! 良かった~、勇気出して誘って」
「勇気出したの?」
「勇気出したよ。俺、誘うメッセージ送るまで二時間位内容を書いたり消したりしてたんだ。送信するときはすごい緊張した。俺さ、亜弓さんのこと好きなんだ」
「そういうセリフは言うのに躊躇はないのね」
そんなわけで初めてのデートは成功だと思う。私は実際にいい感じに心を動かされたし、彼がどういうものを好んでいたのかとか、そういうのを知ることができた。まだできていないことは、何故私はこいつを好ましく思ってしまったのか、その確たる理由の発見だ。
「楽しかったなら良かったんじゃない?」
「そう思う? いや、そうなんだけど、私もっと面食いだと思ってたんだよね。キレイなツラを食わないと生きられないくらいだと信じていたんだけれど、どうやらそうでもなかったみたい」
「でも西崎も髪型と眉毛整えて、いつも開いてる口をキュッと閉じたら韓流アイドルみたいな見た目にならない?」
「しこたま殴って粥状にした顔面を韓流アイドルの型に流し込んだら似てるとは思う」
「怖ッ、ピエール・リヴィエールかよ」
「教養(?)あるね、鞠子さん……」
「少なくともさ、亜弓は西崎のこと、意識はしてると思うよ。ツラを摂取しない恋愛を始めたって感じのスイートさは少なくとも私は感じるな」
「そういうものかな、私は自分の感情がよくわからないや」
鞠子との電話を切って、ベッドに入る。写真のことを思い出す。私はパワーと言うよりも冷徹で鋭い視線を見たような気持ちになった。そしてその感受性が流れ込んでくるような説得力に気圧された。美学的リテラシーを持っていない私のような者の感受性を目覚めさせる圧倒的な画面。ああいう風に沢山揺さぶられるのは、疲れるけれど心地が良い。また明日から西崎にもっと教えてもらおう。
* * *
木々の緑が少しずつ黄色く色あせていく間、私たちは色々な映画や美術、音楽を楽しんだ。西崎はそのノートに沢山の感想と、私との思い出を書き留めていった。
「それにしても服がダサい。西崎、あんた少しは服にもお金使ったら?」
「俺、一応選んで買ってるつもりなんだけど」
「マジで言ってるの? メガネだけしか良いのないじゃん」
「これは姉貴のお下がり」
「やっぱりかよ!」
「じゃあ亜弓さん、俺の服選んでよ」
「嫌だよ。面白くなさそうだもん。まずはサイズを合わせろよ。動きやすいからって大きめの買うな」
「それ姉貴にも言われたわ。それ重要なん?」
「重要」
「じゃあ今度からそうしてみます」
「そういえばお姉さんと一緒に行くライブ、来週だっけ」
「うん、来週。楽しみだなぁ。古いバンドなんだけどさ。ライブは本当に最高。らしい。俺も初めてだから。ライブ映像は何度か観てるんだけど」
「へえ、じゃあ私も楽しみにしておく。確かに西崎に勧められた音楽や映画は良いの多いし。もっとわけわかんないのが多いかと思ってたけど」
「一応入りやすいのからお勧めしてるから。何かを楽しむってさ、実は練習や知識が必要で、色んなものに触れて、知ることで、受け皿と言うか、それを楽しむための器官が形成されて、もっと色んなものをもっと深く楽しめるようになると思うんだ。だから亜弓さんが色々楽しんでいるうちにもっと知りたくなったら、また小難しいのとかもお勧めするようになると思うよ」
「あー、なるほどね、確かに私も人に本を勧める時にいきなりヌーヴォーロマンとか勧めないしなぁ。そうか、そうだよね、何かを楽しむ為の修行って、あるよね」
「そっか、亜弓さんは読書が好きなんだっけ、それって結構意外なんだよな。文化的なものへの興味とか、ゴールデンタイムのドラマや、大手出版社の少年少女漫画くらいしかないと思ってた」
「やー、まあその辺も好きだけどね〜」
私たちは徐々にお互いのことを知って行く。その人がどんな音楽が好きなのか知ることは、とても豊かな感情の交換だと思う。少なくとも、私は人に本を貸してあげる時、自分のその時の感情を思い出している。音楽もきっとそうだ。私たちは感動を交換している。それは思ったよりも楽しい時間だった。
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