第18話

 大学時代、藤島は一つの研究論文を書き上げた。

 藤島にとってその論文はかなりの自信作だったようで、大学の教授クラスの学者たちによって実施される複数の学会に、その論文を持ち込んでは発表させろと触れ回っていた。

 学会の学者たちも、活きの良い学者の卵がやってきたと喜び、そこまで嫌な顔もせず、ところによっては発表の時間を与えてやったりもしていた。

 しかし、藤島にとって自信作だった論文は、荒唐無稽な妄想の羅列としか思われず、評価などしてもらえるような代物ではなかった。それどころか、頭のおかしい大学生が居ると、学会から大学へ連絡が入ってしまうほどであった。

 そんな暴れん坊ぶりを晒す藤島は、大学内でもそれなりに有名人であった。そして、その問題の論文は学生たちの間で出回っており、藤島の一年後輩だった小薗江のもとにも当然のように、周りめぐっていた。

 さて、それを初めて読んだ小薗江はどんな印象を抱いたのだろうか。

 それは、恐怖だった。

 宇宙的規模から見た世界の仕組みと終末の過程。論文の内容はそんなものだった。確かに妄想の羅列だった。しかし恐ろしいほどに理路整然としていて、説得力があった。小薗江にとってこの説得力は無視できるものではなかった。逆にこれほどの説得力がありながら、適切な評価をしない学者が不思議でならなかった。

 今となっては、小薗江もその論文を学者が評価しなかった理由を理解している。当時の小薗江は、ただ単に、研究論文の読み方というもの知らなかっただけなのだ。

 研究論文というものは、基本的に、信用のおける様々な文献からの引用によって成り立ち、それらの引用から、自分が新たに発見した結論を導き出すものだ。

 では、引用した文献が、信用できるできない以前に、この世のどこにも存在しない文献だったらどうだろうか。それはもう論文として成立しているとはいえないだろう。しかし、藤島の作成した論文を構成している文献はそのようなものばかりであった。極めつけは、およそ人語とは思えないような言語で書かれたタイトルの参考文献までも記載されていた。

 だが、先にも述べたとおり、当時の小薗江はまだ高校を卒業して間もない、まともに研究論文など読んだことのない学生だった。引用した文献の重要性などそこまで認識しているわけもなく、ただ論文本文の字面だけで評価していたのだ。

 ただ、勘違いしないで欲しい。小薗江は、主席で大学を卒業し、若くして警察庁の重要なポストに就いている今に至っても、あの藤島の論文が本物であったと確信している。

 それはなぜか。

 小薗江が研究論文というものの読み方を学ぶより前に、藤島の論文が真実であると確信させる出来事が起きたからだった。

 大学での講義を終え、帰宅途中だった小薗江は、道沿いに敷かれた鉄道の線路上に、なにやら大きな物体を発見した。鉄道会社に連絡して一時運行を停止してもらう必要があったが、頻繁に列車の行き交うその線路上において、次の列車がここを通過してしまうのと、運行の一時停止が間に合うか、判断が難しい状況だった。

 小薗江はなんとかして自力でその物体を線路上から移動することにし、意を決して柵を乗り越え、物体へと近づいた。

 その物体は、麻袋に包まれ、太い針金で線路に頑丈に固定されていた。それがわかった時点で速やかに鉄道会社に連絡すべきであった。しかし、その時の小薗江は何を思ったのか、麻袋の中身を確認することを優先した。

 リュックから筆箱を取り出し、その中に入れていた金属製の定規で麻袋を裂く。


 顔だった。


 かなり腫れ上がっていたが、間違いなく藤島の顔だった。

 あまりの衝撃で身動きがとれないでいる小薗江の耳に、汽笛の音が響く。

 がたんごとんという音が徐々に接近しているのがわかる。

 小薗江は聞いたこともない悲鳴と共に、鬼気迫る勢いで線路上から離脱した。

 小薗江が柵を乗り越え、転げ落ちるように線路沿いの道に飛び出たのと同時に、絶大な音量の、不快なほどに鈍い音が小薗江の耳に響いた。

 そして、その場にある筈のない、飛び散った肉片が視界の隅に入った時にはもう、小薗江は逃げ出していた。


 そんなことがあった次の日にも小薗江は大学へ通った。いや、そこに小薗江の明確な意思はなかった。ただ、染みついた習慣が、完全に意気を消沈した体を、半自動的に動かしただけだった。

 いつもの講義が行われる講堂へ、思考がまとまりきらない状態で入室する。

 自分の精神状態とは裏腹に、そこには一片の変化もない日常が広がっていた。

 不真面目そうな学生は後方にたむろし、真面目そうな学生は壇上に近い位置の椅子に着席している。根暗な学生は端の方に座り、いつも藤島が座っていた、講堂の中心に位置する座席には、いつも通り、藤島が座っていた。


 いつも通り、藤島が座っていた。


 それは日常であって非日常の光景だった。

 藤島は生きていた。そんなはずはない藤島は確実に死んだ。昨日の出来事は小薗江の見間違いだったのだろうか。

「あなたは列車にひかれて死んだはずだ!なぜここに居る!?」

 気がつくと小薗江は藤島にそんな言葉を掛けていた。講堂内の喧噪に紛れ、この会話はまるで、小薗江と藤島だけの空間で行われているような状態であった。

「・・・僕はね。偏在するんだ」

 小薗江は藤島が何を言っているのかわからなかった。

 しかし、そこで小薗江は確信した。この世界には、自分の常識では計り知れないようなものがあるのだと。そしてそんなものを確信してしまった以上、小薗江は多少なりとも説得力を感じていた藤島の論文も、本物であると揺るぎなく確信することになった。ましてや、当の藤島本人が書いた論文なのだ。これは小薗江にとって、当然の帰結であった

 藤島と小薗江が大学時代に交わした言葉は、それが最初で最後だった。藤島がその後すぐ行方不明になったからだ。

 行方不明になった後も小薗江は藤島のことが頭から離れなかった。だから、小薗江が藤島の身辺を調べに調べ尽くす行動に走るのも、なんら不思議なことではなかった。


 藤島はとにかく金がなかった。学費や自身の研究費のためにかなり危険な組織からも金を借りていたようである。もちろん一円たりとも、返済したという記録はなかった。

 金を稼がず借りていたのは、もちろん自身の研究を進めるのに使える時間を少しでも増やすためであった。

 その結果、怪文書といっていいような論文が数多く執筆され、完成されていた。

 それらの論文は一貫して世界の終末について特化した内容であった。そしてその全ての論文が終末の発生を大いに肯定していた。


 死んでも死なない男が世界の終末を望んでいる。


 こんなにおぞましいことがあって良いのだろうか。

 今となっては、このおぞましいと思う気持ちが小薗江の人生の方向性を、今のものへと決定付けたのかもしれない。


 国家安全委員会直轄警察庁国防庁共同研究所統括所長


 それは大いなる力を発見し、調べ、保全する組織を束ねる者。神秘の最前線。

 そんな立場に身を置く小薗江が、間接的であれ藤島との再会を果たすのは、必然だったのかもしれない。

 それは思いがけないタイミングだった。共同研究所の某支部から、一体の被験体が盗まれるという事件が発生した。その被験体はNo.43、通称「無存在」と呼ばれていた蝋人形のような老人だった。

 その盗難の一部始終を捕らえた監視カメラにはハッキリと、藤島の姿が映し出されていた。

 ついに本格的に動き出した。

 小薗江は、武者震いをした。藤島の終末思想を叩き潰すためにここまでやってきた。きっかけは些細なもの。大学時代のたったあの程度の出来事をきっかけに小薗江の信念は形成されたのだ。

 これは今の宇宙が成立したときには、既に確定していた運命なのかもしれない。

 もしかしたら、小薗江が勝つか、藤島が勝つか、それすらも既に決まっているのかもしれない。

 ならば運命に身をまかせ、この信念を貫き通そう。

 それが小薗江の曇り無き真意だった。



***



「藤島が終末を望んでいるというのであれば、なぜ真菜を殺そうとしなかったんだ?」

 小薗江の話を一通り聞いて、俺は疑問を口にする。

「この世界には終末に至れるだけの神秘がいくつかあるが、どれも条件が不明瞭でな。自身を鬼であると自覚していない鬼を殺して、完璧に終末機構が発生するか不安があったんじゃないか」

 封印の解かれた真菜が鬼としての記憶を失っていたのは、封印術式の一効果だったのか、術者の意図しないものだったのか。これに関しては確認のしようがない。藤島としても終末機構の発生を少しでも確実にしたかったということか。

「しかし、それほどの男であれば、警察組織全体を上げて捕らえにかかった方が良かったのではないでしょうか。統括所長の権限であれば十分に可能であったと」

「神秘の話をおおっぴらにして、警察組織に混乱をもたらすのは私の意図することではない。それに警察組織を上げて捜索するということに関しては、すでに手は回してあった。君も含めてな」

 綾瀬さんは少しの間、理解ができていなような様子を見せた後、

「もしかして、私と先輩で追っていた、例の男って」

「そうだ。捜査に必要な情報だけを最低限提示して、何人かの刑事には藤島を追わせていた」

 結局、俺たちは皆、藤島という人物の存在を繋がりとして動き回り、こうして集ったって訳か。

「追わせてはいたが、実際に藤島をどう処理するのが適切なのかは、正直わかっていない」

 悔しそうな表情の小薗江。

「殺しても殺しても次の藤島が現れる。捕らえても同じだった。いつの間にか檻から消失し、また次の藤島がどこかで暗躍していた」

 まさに、偏在するという表現がふさわしい男。

「だから我々としても、外木真菜を保護するのが先か、藤島を見つけ次第殺していくのを優先すべきか、現在も明確な方針を選べていない。だが、」

 そして小薗江は俺と目をあわせる。

「だが、君がいれば、どちらも平行して進めることができる」

「俺がいれば・・・」

 力強くうなずく小薗江。

「当初、純粋な鬼でない君のような不確定要素は排除すべきだと考えていたが、君の鬼を守るために与えられた力、それは貴重だ。そして、こうして会ってみてわかったが君は人間的にも誠実だ人物だ。信用に値すると判断できた」

 他を寄せ付けないようなエリート然とした男から、このような思いがけない言葉を掛けられるのは、正直かなりうれしかった。例えそれが、俺を殺そうとした人物であろうとも。

 この男が若くしてここまでの地位に上がってこれたのも、この人心掌握術があってこそのことだろうと納得してしまった。

「真菜を保護するという目的のための協力であれば、俺だって力を惜しむ気は無い。そして、生きているだろう藤島を倒すこともその協力の一貫になるのであれば・・・」

 そこで俺は恐ろしい事実に気がつき絶句した。

「佐藤君どうしたの?」

 綾瀬さんが俺の異変に声を掛ける。

「真菜はもう自分が鬼であると自認している。だから今、真菜が殺されるなんてことは絶対に避けなければならない。でないと、世界が終わる」

 俺の、誰に言うでもない独り言のようなつぶやきを、小薗江は真剣な表情で聞いている。

「そして真菜は藤島に殺される危険にさらされている」

 そこで俺と同じことに気がついたのか、ハッと息をのむ綾瀬さん。

「いま、真菜は、藤島の息のかかった人間がいる場所で、一人だ」

 俺はとんでもな油断をしてしまっていた。

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