第二章-2 幽閉と間者

 その勝頼は、昌豊に押し込められた小寺の中で吠えていた。






「修理め!その首叩き落としてやる!」

「もう少々お待ちください」

「ふざけるな!」

「ふざけてなどおりませぬ。それが我が主の言葉故」


 昌豊への怒りを吐き出した勝頼に対し、傍らの兵士は場違いなほど穏やかに答えた。内藤家の古参の古強者であるその男は、全身から怒気を発する勝頼にも怯むことなく、それでいて落ち着いて物を言う。


「すると何か!修理はその時が来たら自分の首をわしに差し出すというのか!」

「はい」

「だったらなぜこんな事をする必要がある!」

「下っ端のそれがしには何とも」


 兵士の淡々とした返答に、勝頼はいら立ちを覚えると同時に混乱し始めて来た。


「とにかく、我が主から聞いたのは織田や徳川如き殿がお出になるまでもないと言う事と、目的が成就した暁には我が主自らの首を遠慮なく殿に差し出すというその二つだけでございます」


 勝頼を取り囲む他の兵士たちも同調するようにうなずいた。そのあまりに淡々とした振る舞いに勝頼はとうとう発言する気すら失い、ふんと鼻を鳴らして寝転んでしまった。





「何ですと?」

「間違いありませぬ、殿からはっきりと聞き申した!」


 その夜、勝頼のもう一人の側近である長坂釣閑斎は勝資から思いも寄らぬ事実を聞かされて目を丸くしていた。


「内藤修理め!調子の良い事を言って殿を誘き出したのだな!」

「そうです、間違いございませぬ!」

「まさか既に殿は泉下の住人に!?」

「いや、さすがにそこまでやるほど気が触れていないとは思いますが…」

「万が一と言う事もある!」

「一応我が手勢に殿を捜索するように申し付けておきました。そこで釣閑斎殿にも…」

「おおわかった!なんとしても殿を早くお救い申し上げねばならん!」


 さすがに二人して勝頼の腰巾着よろしく動き回っているだけに、釣閑斎と勝資の意見はすぐ一致を見た。


「ですが悔しき事に修理の犯行である事を証明する決定的な証拠がございませぬ」

「だからこそ早く殿をお救いいたさねば!」

「それが少しまずいのです」

「何がだ!」

「これから我らは織田と徳川との大戦を始めようとしている所。そんな時にこんな内紛をやっている事が織田と徳川に露見したらどうなります」

「ぐっ……」

「ここで殿を救出すれば殿の個人的感情からしても立場からしても修理にここで厳罰を下さない訳には行かないでしょう。そうなれば我が軍きっての精鋭である内藤軍が機能不全に陥ってしまいます。さらに修理の単独犯ならまだともかく、他に協力者がいる可能性は否定できません」



 その通りなのだ。日ごろから昌豊を老害呼ばわりしている二人もまた、内藤軍の力そのものは当てにしている。それがなくなれば、武田が負けるかもしれない事もわかっている。


「山県殿や馬場殿……」

「ええ。彼らが関与しているとなれば何らかの罰を加えない訳には行きますまい。ですがここでそれを持ち出せば」

「ますます戦どころではなくなるな!」

「はい、そうです!」

「ぐぅ、あの老いぼれめ!」

「全く、昌豊めいい歳をして何を血迷っているのか!」


 昌豊は五十三歳と当時としては結構な高齢だが、六十二歳の釣閑斎に老いぼれ呼ばわりされる筋合いはない。勝資もその釣閑斎に引きずられるように興奮し始め、修理が昌豊になっていた。


「ですがとりあえず今は黙って昌豊に従うしかありません。我らはその間に殿を見つけ出し、戦に勝利した暁に」

「殿を表に出し昌豊を断罪してやると言うわけか」

「ええ、その時を待ちましょう!」


 二人は勝手に二人きりで盛り上がり、二人きりで満足していた。しかし、そこまで言った所で興奮していた釣閑斎の顔から赤みが消え、変わって嫌らしげな笑みが現れた。


「ところで、もう一人殿に断罪してもらうべき人間がいるのを忘れてはいまいか?」

「山県殿ですか?」

「そもそも最初何者かが殿に謀叛を企んでいると言う噂が流れた際、その噂の首謀者は昌景。彼には殿も不信を抱いているはず」

「しかも昌豊と昌景は仲が良い…」

「そう、すなわち昌景が昌豊の謀叛に加担している可能性は大きい。いや、私が殿なら噂などなくとも昌景の関与を疑う」


 勝資が山県昌景の名前を出すと釣閑斎の嫌らしい笑みがさらに醜く歪んだ。つまり、勝頼は昌景が共犯であると思い込んでいるだろう。当然、昌景にも不信の目は向かっているはずだ。釣閑斎はこの事態を利用して、昌豊ついでに昌景が排除されてしまえばいいと考えたのである。


「そうなれば馬場美濃ももはや孤立無援の老人」

「いよいよ、武田の新たなる時代が来ると言う物」





 二人は、自分たちの描いた筋書きに酔い始め、やがて笑い出した。二人にとって昌豊も昌景も信房も、自分たちがやろうとしている新しい時代の武田を作るための政策の邪魔をする固陋な連中に過ぎない。もちろん二人とも狡猾なやり方で勝頼を幽閉して武田軍の実権を握った昌豊に対して憤りを持っていたが、同時に感謝の念を抱き始めていた。自分たちの主張を認めさせるなど到底不可能であろう、それでいて大きな権力を持っていた厄介な男が、何を思ったか自滅への道をたどってくれたのである。


 もっとも、昌豊が何を考えてこんな真似をしたのだろうと言う発想は勝資にも釣閑斎にも存在していない。自分たちが中核に立って動かして来た武田家を奪われるのが嫌なのだろう、ぐらいにしか考えていなかった。







 そんな事など露知らぬまま押し込められた小寺で天正三年の五月一日を迎えた勝頼の目の前に、黒い布で包まれた物体が置かれた。

 そして物体を包んでいた布がほどかれるや、勝頼の形相が変わった。


「これは何だ?」

「生首ですが」

「それはわかっている」

「では何か」

「どこの誰なのかと聞いているのだ!」

「徳川の忍です」


 内藤軍の兵士によって目の前に置かれた生首の顔をまじまじと見つめた勝頼は首を持って来た兵士に問い詰めたが、兵士はこれまでと同じように淡々とした反応しかしなかった。


「わしにはどうも見覚えのある顔なのだがな」

「おやおや、徳川め忍びを行商人に変装させて殿の所に出入りさせていたのですか」

「わしは忙しいのだ!たかが行商人如きの顔など知らん」


 身寄りのない孤児を忍びに育て上げて、行商人に成り済まさせて各地を放浪させ情報を収集させると言うのは武田の得意手段である。服部半蔵率いる優秀な忍者集団を抱える家康が同じ事をやって来ないと言う保証はどこにもない。兵士の口からそういう意味で発された言葉を、勝頼はきっぱりと否定した。


「ではどちらに」

「釣閑斎の配下にこんな顔の奴がいたような気がするのだ」

「長坂殿のですか?まさか」


 兵士の握られていた右手が開いて金属音が鳴り響き、一本の刃物が床に転がった。


「なんだこの小刀は」

「こやつが懐に忍ばせていた代物です。おそらくは殿の胸を一突きにするために」

「何だと」

「長坂殿の配下がどうしてそんな事をする必要があるのでしょうか。おそらくは徳川めが長坂殿の配下にそっくりな間者を選んだのではないでしょうか。もちろん、他人の空似と言う可能性もございますが。それから」

「それから何だ」

「もう一人殿のお命を狙わんとする痴れ者がおりましてな、その男も無事我らの手によって仕留めました。今頃我が主の手によって長篠に向けてさらされている頃と思われます。どうぞご安心のほどを」

「ほざくな!わしの命を狙っているのは貴様の主の修理であろう!」

「我が主は殿が思っているより損得に目ざといお方。武田の損になるような事を行う方ではございませぬ。ご安心を」

「わかった、早くその首を片付けろ!」



 どんなに吠えたり問い詰めたりしても、目の前の兵士からは平板な調子での平板な答えしか返ってこない。自分の怒気が全部かわされているのを察した勝頼は完全に会話する気を失ってしまい、匙を投げたように寝転がってしまった。そんな様子を見てなお、兵士たちはやはり顔色も声色も全く変える事なく、淡々と目の前の首を片付けた。




 ちょうどその頃、昌豊は本陣にて一つの生首を指さしながら将兵たちに向かって声を上げていた。


「昨日夜、徳川の間者めが殿の逗留先に忍び込み、殿のお命を縮めんとした!それがこの首だ!」


 昌豊の叫び声と共に、将兵たちの目が昌豊の指の先にある生首に集まった。いかにも無念などないと言わんばかりの従容とした故人の首は、何かを訴えるかのように武田軍の将兵をにらみつけていた。


「徳川はここまでしなければならないほどに我ら武田を恐れている!斯様な卑劣な手段を使わざるを得ないほどに追い込まれた徳川をまず葬り、続いて余勢を駆って織田を討つ!」


 一同がその力強い言葉に釣られるようにおおっと歓声を上げる中、勝資だけは両手をぶるぶる振るわせていた。


(おのれぇ…!!)


 昌豊が「徳川の間者の首」と言いのけていた物、それは勝頼捜索のために勝資が送り出した自らの側近の首だったのである。

 そして勝頼に届けられた首は、やはり勝頼捜索のために釣閑斎に送り出された釣閑斎の側近の首だった。


 もしこんな所でそれは自分の側近の首だ、なんて言えばその瞬間勝資は勝頼の命を狙った謀叛人と化す。武田家はともかく、跡部家は確実に終いだろう。それだけはどうにも許せなかった。昌豊は明らかにそれを承知の上でこんな事をやっているのだ。

 ましてや、この宣言によって昌豊は勝頼の命を狙う間者を葬った勝頼の守護者になり、もはや昌豊に逆らう者は武田に逆らう者になっていた。


(昌豊め…いつかその首刎ねてやるからな!!)


 この時、勝資の心の中で昌豊に対する憎しみが急激に増大していた。そして本人も気が付かぬ内に、勝資の中での「武田」の存在が薄れ始めていた。

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