第二章-3 不在と混迷

「徳川の間者の首?」

「ええ、武田の重臣内藤昌豊が勝頼の命を狙った徳川の間者の首を本陣に晒したとの事」

「内藤昌豊がそんな事がわからない愚将でもないだろう」

「ええ、何が狙いなのかそれがしにもさっぱり」

「しかし、なぜ内藤昌豊にそんな事ができるのだ?」


 五月三日、家康は吉田城で本多正信から思わぬ報告を受けていた。

 確かに間者は放ったが、それは山県昌景謀叛の噂を流すために放ったもので勝頼の暗殺など考えて放った物ではない。もっとも、死人に口なしであり武田に何を言われようが知った事ではないのだが、それにしてもいささかおかしい。たかが間者の首を取ったぐらいでそこまで誇示する必要があるのだろうか。



 間者など基本的に使い捨ての存在であり、勲功としての価値は足軽にも見劣りする。勝頼を暗殺しようとしたと言っても、確たる証拠をどうやって示すと言うのだろうか。徳川に威を見せる効果より、侮られる損の方が大きいはずである。家康の重臣である酒井忠次も首を捻らずにいられなかった。それに昌豊は武田の重臣であっても武田の大将ではない。そこまで強引に己が策を通す力は持ってないはずだ。


「これは先ほど聞いたばかりの話でございますが」

「ん?」

「勝頼が本陣に不在と言う話があり申す」

「お前は一体何を言っているのだ」


 家康は相手が心を許せる重臣と言う事もあってか、正信の突拍子もない発言に対し思わず失礼な言い方で聞き返してしまった。


「驚かれる気持ちはわかります」

「どこから聞いたのだ」

「それがなんとも不可解ですが、筑前守殿の使いからです」



 家康はよけいに訳が分からなくなった。織田の家臣である秀吉が何かを家康に伝えたいのならば信長を通すのが筋だろう。信長を無視して家康に何かを伝えに行くなど、下手をすれば謀叛さえ疑われる行為である。なぜ秀吉がそんな危険なことまでしてこちらにそんな情報を伝えようと言うのか。


「筑前殿はそんなに焦っているのか?」


 家康にはどうにも秀吉の意図がわからなかった。確かに風雲急を告げるようなよほど重大な報告ならば信長を無視して家康に伝言しても許されるだろうが、秀吉が伝えて来た情報に重大さは感じられない、いや確かに重大ではあるがどちらか言えば吉報の部類に入る。これから戦う相手の大将が急に姿を消したとあれば、その軍勢の士気は上がりようがないのだから。


「しかしいったいいつの話だ?」

「確認の取れていない話ですが、四月中には本陣から姿を消していたとか」

「すると今武田軍の指揮を執っているのは」

「内藤昌豊のようです」


 家康はさらに言葉を失った。今日はもう五月の三日、大将がいなくなって少なくとも三日経つと言うのに、武田軍が動揺している様子がまるでないのを家康は知っている。

 確かに昌豊なら一万五千と言われる武田軍を率いる器量があるし、その事は家康もわかっている。だが昌豊が勝頼と不仲であり、勝頼が昌豊に全軍の指揮権を投げてよこすような真似をする訳がない事も家康は知っている。


「まさか、謀反を起こしたのは山県昌景ではなく内藤昌豊だと言うのか!?」


 家康の考えがそこにたどりついたのも無理はなかった。何らかの方法を使って勝頼を幽閉し、勝頼が昌豊を指揮官に命じたと宣言すれば誰も何も言えない。

 不仲な昌豊に全権をよこすわけがないだろうという疑問もそんなに自分の作戦にケチをつけるのならばいっぺんお前がやってみろ、ただし失敗したら全部お前の責任だと勝頼が開き直った、そう言いふらせば筋は通る。


「いやまさか、確かにそう考えればつじつまは合います………確かに合いますが」

「合いますが、何だ?」

「それでどれだけの人間が納得しますか?何だかんだ言っても武田の総大将は勝頼。それを幽閉して許可を取り付けたと称して実権を握るなどと言う事などまかり通る物ではなし。特に、勝頼に近しい連中ははたして昌豊の言う事を素直に聞くでしょうか」


 勝資や釣閑斎と言った勝頼の取り巻き、いや腰巾着の様な連中は昌豊を憎んでいるに決まっている。そんな連中が昌豊の言う事を素直に聞くとは思えないのも家康は長年武田家と対峙して来て知っている。


「というか、わしにはどうも昌豊の狙いがわからんのだ」

「それがしも……確かに最近昌豊は勝頼に疎外されていますが、だからと言ってこんな無謀な真似をする人間ではないはず」

「信虎とはわけが違うだろうに」



 こんな強引なやり方で武田の実権を握った所で、どれだけの人間がついてきてくれるのだろうか。信玄はかつて実父信虎を追放して武田の実権を握る事に成功したものの、それは権力を笠に着て横暴な振る舞いをしていた人間を、次代の武田の当主の座に着く事が確約されている現当主の長男が、多くの家臣たちの協力を得て成し遂げた事である。今回の場合素質はともかくそれほど横暴な振る舞いをしている訳でもない勝頼を、一族でも何でもないただの家臣が、たった一人でやった事である。仮に昌景や昌豊が協力していたとしても権力の地盤としては余りに脆弱である。

 信勝を担ぎ出せば一応名目はできるが、それならば最初から信勝を中心に据えて行動を起こすべきであり、今ここで信勝を持ち出した所で取って付けたと言う印象しか残らない。さらに言えば信玄が信虎を追放した時は大した戦もない平穏な時だったのだが、今は織田・徳川軍との大戦が起きる直前、いや前哨戦の真っ最中である。こんな事をしている暇がどこにあると言うのだろうか。


「織田様に相談なさいますか」

「やめておけ。落ち着いて考えれば武田家で起こっているのは内紛だ。我らにとって敵の内乱が不利益なのか?」

「ええ……ですが」

「そうなのだ。なぜそれを筑前殿が我らに伝えて来たかだ。織田様が我らに勝頼不在の報を伝えて来ない理由はわかるのだが」


 信長と秀吉がそうであったように、家康も相手が自分の予測を上回る策を立てて来るかもしれないと考えている。ましてや忍の一文字が行動原理の家康にとって、どんな悪い状況を予測してもしすぎると言う事はない。

 その悪い状況にはもちろん、相手が自分の予測以上に強い、または自分の予期しない策を立てて来ると言う事態も含まれている。だが家康もまた信長や秀吉と同じように、相手が自分の予測の下を行くとは考えていなかった。


「長篠城はどんな状況だ」

「間者の首をさらしたその日から本格的な攻撃が開始されておりますが、いまだ陥落はしておりません」


 昌豊が徳川の送り込んだ勝頼暗殺未遂犯と称して勝資の側近の首を本陣に晒した五月一日より、武田軍は本格的に長篠城の攻撃を開始している。無論、二人ともその事は知っているが、今の徳川の戦力では救援に行く事はできない。とりあえず信長の援軍が来るのを待つしかない。


「仮に、内藤昌豊が全権を把握しているとして、どうすべきだと考える」

「従前の計画通りで行くしかないでしょう」

「おぬしもそう思うか」

「それでまずいのならば織田様から使者が来るはず」

「そうだな、では従来通りの策で行くぞ」



 結局、家康と忠次は信長と打ち合わせていた通りの計画で武田軍に立ち向かう事に決めた。なんで秀吉がわざわざ使者をよこしたのかと言う疑問は未だ残っているが、それについては二人とも事実上棚上げすることとした。

 実際問題、秀吉本人さえ家康に使者を送った理由が何なのかわかってないのである。うますぎる話には注意せよとよく言うが、多分それが不安なのだろうと言われても秀吉は納得しなかっただろう。誰よりも信長を尊敬しているはずの男が、その信長から安心するようにと言われてもなお消せない不安を抱えていたのである。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 一方、その信長は秀吉が家康に対し勝手に使者を送った事をとうの昔に知っていた。


「猿め……それほどまでに焦っておるのか。まあ余が猿ならば同じ事をしなかった保証もあるまいがな」


 しかし信長も秀吉も、昌豊が謀叛を起こして勝頼を幽閉し、武田軍の実権を握っている事は知らない。知っているのは武田の本陣に勝頼が不在であり、その割に武田軍の統制が取れていると言う事だけである。

 そして、誰が武田軍の実権を握っているのかも二人とも知らない。

 もし勝頼より有能な人物が武田軍の全権を把握しているとなると厄介である。確かに信長の策は精巧だったが武田軍の全権が勝頼にあると判断して組まれた策である事は覆しがたい事実であり、武田軍の全権を握る人間が勝頼でないとなると話は違ってくる。


「ふ……勝頼め。小手先の策を施すだけの知恵はあったようだな。だがしょせんそなたの望みはわかっている……そしてそなたはそれを投げ出せる男ではあるまい…………」


 信長も秀吉も、勝頼が姿を隠したのは見せかけだけであり、実際の指揮権は勝頼が握って離していないと考えていた。そして、誰かが勝頼の口の役目を担って表に立っており、それはおそらく勝資か釣閑斎であろう。だとすれば恐るるに足らない相手だ、策を変更する必要はどこにもあるまいと信長は考えたのである。



「明日、岐阜城から出陣する」


 とにかくとばかりに五月七日、信長は明日岐阜城より出陣する旨を皆の前で述べた。


「徳川殿からの救援要請はまだ届いておりませんが」

「いずれ家康殿は救援要請を出してくる。早いに越した事はあるまい」


 昔から早い事を好む信長らしいとも言えるが、それにしても突然であった。この場に列席していた織田の宿老の一人である滝川一益は信長の言葉を聞くやちらりと秀吉の方を見た。



 実は、この滝川一益も秀吉と同じように勝頼の姿が武田本陣にない事を知っていた。甲賀忍びの一族である一益の配下には、世に名高き鉄砲衆だけでなく忍びも多数いた。その忍びを使い、勝頼不在の情報を掴み、秀吉と同じように信長に報告していたのである。

 この時、織田軍の中で武田本陣に勝頼不在という情報を知っているのは信長と秀吉を除けば一益一人であった。一益も秀吉と同じように信長に報告したが、その際に秀吉と同じように信長から心配無用との言葉を聞かされるや、秀吉と違ってそれ以降何もしていなかったのだが。


 もちろん、秀吉が独断で家康に使者を送った事など一益は知らない。秀吉は勝手に使者を送った事がばれたのかと心の中で冷や汗を垂らしたが、秀吉が性急な性分である事を知っている一益は秀吉が信長に出兵を催促したのだろうと思っただけである。


「ですがその、出陣となると、徳川殿に連絡を取らねば……それに、合流箇所は……」

「筑前、慌てる事はない。我らは明日岐阜城を出発し、とりあえず熱田に逗留する。そして明後日岡崎にて徳川軍と合流する。そういう手はずになっており、すでに徳川殿も存じているはず。筑前、忘れたか?」

「い、いえ……」

「わかっておる。伝令は既に送っている、気にする事はない」


 何かにせっつかれているように意見を述べる秀吉を信長は柔らかく受け止めていたが、一益は秀吉を不穏な物を見る目で見始めた。


(筑前、何を焦っておる?もしや勝頼不在に気付いておるのか?しかし、だとしてもそんなに焦る気にはならないはずなのだが)


「どうした筑前、武田が恐ろしいか?」

「あ、いえ、ですが、その…」

「左近(一益)、武田が強い事は皆骨身に染みてわかっておる。正直、武田はこれまででもっとも手強い相手となろう。筑前が不安がるのも無理からぬことよ」

「これは失礼……実際わしも恐ろしくないと言えば大嘘吐きになるからな」

「それはどうも」


 信長は秀吉の不安を指摘した一益に柔らかに語りかけ、秀吉も顔の汗をぬぐいながら一益に会釈をした。


「では各々出陣の準備を整えておけ」


 そしてその言葉が終了の合図だと言わんばかりに信長は立ち上り、広間を後にした。だが一益ら他の宿老がとっとと部屋を去る中、秀吉だけは二拍ほど遅れて腰を上げた。


(こりゃ絶対誰か仕掛け人がおる……誰なんじゃ!?そして、何がしたいんじゃ!?)


 秀吉の頭の中には、その疑問が嫌になるぐらい渦巻いていた。神や仏に聞いても答えの出なさそうな、そのとてつもない難問が。

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