第二章 混乱

第二章-1 横暴と混乱

 内藤昌豊により武田勝頼が幽閉された翌日、勝頼の取り巻きである跡部勝資が昌豊に迫っていた。


「いくらなんでも殿なしで戦に勝てるとお思いですか!」

「織田に勝てるとは言っていない、徳川ぐらいなら勝てると言っているのだ」

「それは修理殿が殿に提案した作戦であり、殿が修理殿の提案を聞き入れた、と言う事でよろしいのですな!?」

「ああ」

「では殿に会わせていただきたい!」

「おやおや、何をそんなに必死になっている?」



 昌豊の発した必死と言う単語に、勝資の目が吊り上がった。昌豊はむやみやたらにすがすがしいほどの笑顔をしている。


「必死とは何です!」

「殿の信頼を一番得ているはずのそなたが、殿が了解した作戦を信じられぬと?」

「なっ…………」



 勝資に対しての二人称がこの前は貴公だったのに、今はそなたになっている。そしてそれに続くように浴びせられた昌豊の痛烈な皮肉に、勝資は言葉を失った。


「直に会わねば殿が我が策に了解した事を承知できないと?わしは殿とそなたの信頼関係がそんな弱い物とは思えんのだが」

「……で、私にどうせよと言うんですか!」


 勝頼に阿り続けているのだから、勝頼が何をするかなどわかりきっているだろうと言わんばかりの昌豊の物言いに、勝資は開き直ったように声を上げた。


「家康の神経を逆撫でする、全てはその為。やり方を変えろなどとは申していない。家康の陣に向かって思いっきり罵声を上げてもらいたい」

「それはその…………」

「はっきり申し上げて、わしには挑発を成功させる自信がない。そなたの方がよっぽど有効であろうと殿も申し上げていた」

「それは自慢ですか」

「いいえ、重要な徳川本隊に向き合う役目を殿はそなたに命じたのだ。正直言って羨ましい役目だ、できるものならばわしがやりたい。よろしく頼むぞ。こちらは長篠を適当に攻めながら家康が出てくるのを待つ」

「承りました、それでは!」



 勝頼の命だとばかり言って自分の言葉にまともに耳を傾けようとしない昌豊に頬を膨らませながら、勝資は昌豊の元を去った。


(どこだ……どこに殿をやったのだ……!修理め……足元を見おって!)


 勝頼が昌豊に会ってくると言ってそれっきり姿を見せなくなったという、かなり決定的な状況証拠を持っている勝資にとって昌豊が勝頼を拉致監禁して幽閉していると言う思い込みは完全な既定事実だった。

 勝頼を拘束して、全て勝頼の指示として将兵に言えば誰も文句は言えない。そうしておいていつかどこかで勝頼の口を完全に封じて、病死したとでも発表して信勝を正式に武田家の当主に立ててしまえば完全に武田家を手中に収める事ができる。勝資の思い込みはすぐにそこまで到達した。



 一瞬昌豊が勝頼を幽閉した犯人であると言い触らしてやろうかと思った勝資だが、それをここでやればどうなるかぐらいはわかっている。仮にも相手は武田の宿老、それが謀叛を起こしたと世間に露見すれば武田家そのものの死活問題になる。そうなれば自分の身も危うい。さらに、決定的な証拠をつかんでいるとは言っても所詮は状況証拠であり、他者にうまく説明することは困難である。

 仮にうまく説明できたとして勝頼を取り戻す事ができたとしても、それで元の状態に戻る訳ではない。昌豊には確実に死の刑を下さなければならないだろうし、もし昌豊の単独犯ではなければ共犯者たちにも重罪を加えなければならない。でなければ、武田家の秩序などあったものではない。

 そしてその共犯者はおそらく昌豊と親しい宿老の馬場信房や山県昌景だろう。昌豊を失うだけでも大損害なのに、信房や昌景を失ったら武田家の威は地に落ちるだろう。ましてやこれから大戦が起ころうとしている最中にそんな内輪揉めをやっていてはその大戦に勝てる道理など一個もない。


「徳川の連中を挑発するぞ!」



 勝資はとりあえず昌豊の言葉に従い、そして腹心に秘かに勝頼を捜索するように命じてわずかに溜飲を下げた。だがその腹の中には、昌豊に対する憎悪が醜く渦巻いていた。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




「勝頼が本陣に不在!?」

「間違いございませぬ」

「どうなっとるんじゃ、どうして本陣に大将がおらんのじゃ……」


 岐阜城へ向かう織田軍の中で、勝頼不在の情報を真っ先につかんだのは羽柴秀吉だった。


「上様にお伝えしますか?」

「そうしてくれ」


 秀吉の心の中に、信長によって消されていたはずの危機感が復活した。


「半兵衛、正直わしにはようわからんわ。武田は何がどうなっとるんじゃ?」

「さあ……としか言えませぬ」


 三河の地侍や農民たちを通じて勝頼不在の情報を秀吉に届けて来た、秀吉の忠臣にして優秀な軍師である竹中半兵衛でさえも首を捻っていた。


「お前さんでもわからんのか……」

「何もわからない訳でもございませんが」

「というと?」

「勝頼がいないのに武田軍がさほど混乱している様子がないとのことなのです」


 秀吉はさらにまた訳がわからなくなった。大将不在の軍勢がまともに動くなどあり得ない。信玄が勝頼でなく信勝に家督を継がせるように遺言した事は秀吉も知っている。その信勝を大将に据えればと考えるのは理論的にはもっともだがその信勝はまだ八歳であり、戦場に出てくる年齢ではない。では一体誰が武田軍一万五千の総大将をやっているのだろうか。信玄の弟である信廉か、信玄の弟の信繁の子である信豊だろうか。


「訳が分からぬわ…お前ら如き総大将が出てくるまでもないって事じゃろうか?」

「普通に考えればそうでしょうが…もう少し様子を見るより他ありますまい」



 秀吉も半兵衛も、ついぞ納得できるような答えを見出す事ができないまま長篠への行軍を続けていた。



「勝頼が本陣におらぬ?」

「はい、我が主が掴んだ情報です」

「それで、筑前の見識は?」

「それが何も……」

「わかった。筑前には、何も惑う事はないと伝えておけ。下がってよい」


 勝頼不在の報を秀吉からの使者で知った信長は、鷹揚な言葉で使者を下がらせると顎に手を当てた。


(本人の意思ではあるまい……誰か仕掛け人がおる。誰だ……?)


 信長は勝頼が信玄を越えようと焦燥に駆られている事、そして自分の騎馬隊の強さを絶対視している事をよく知っている。その勝頼がいくら勝つためとは言え、自分の姿を隠して武田が織田や徳川を舐めきっている事を見せつけこちらを誘い出すと言う、どちらかと言えば消極的な手段を取るだろうか。


(今の勝頼に諫言してその意思を通す事ができる人物……)


 信長は勝頼の側近を思い浮かべた。跡部勝資か、長坂釣閑斎か。しかしどちらも勝頼に阿りへつらう事だけが能の小者であると信長は見ている。無論、織田や徳川を挑発する事だけが此度の策の目的であるのならば、その両名でも思い付くだろう。


 だが、信長にはそれだけの意図でこんな手を繰り出したようには思えない。仕掛け人には通すべき何か大きな意志があり、そのためにこんな仕掛けを施したのだ、それが信長の読みだった。信長には勝資や釣閑斎にここまでやって通すべき意志があるようには思えなかった。


 もし勝頼が単に挑発の為だけに姿を消したのであれば、これまで通り長篠城に本腰を入れてかかってくるとは思えない。それならばこれまで通り進軍すればいいだけである。だが、勝頼がそんな消極的な手段を自ら取るとは思えないし、勝資や釣閑斎が勝頼から不興を買う真似をするようにも思えない。そして今の武田家にその両名以外に勝頼に言う事を聞かせられる人物がいるのだろうか。


(誰だ……誰がいったい武田を動かしている?)


 信長をして、今武田軍がどうなっているのかよくわからなくなった。いろいろ考えた結果勝頼が武田軍の実権を握っているようには思えないのだが、それにしても今誰が武田軍の中心に立っているのかわからなかった。信長も秀吉も、相手が自分の予測を上回る策を立てて来るかもしれないとは思っている。いや、信長や秀吉に限らず優れた将と言うのは大方そういう物である。が、相手が自分の予測の「下」を行くとはなかなか考えられない。相手の最善手を予測して考えればそれより劣る手にはこちらの最善手を打てば大方大丈夫だろうから、それ以上考える必要もないという理屈である。



 信長も秀吉も、この時勝頼が昌豊に謀叛を起こされて小寺に幽閉されているとは考えもしていなかったのである。

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