第一章-4 謀叛と酒杯

「どうなっておるのだ!」


 長篠城の包囲を開始してから七日が経った四月二十八日、服部半蔵が撒いていた「山県昌景謀叛」の噂が勝頼の耳に到達した。


「落ち着いてください、大方徳川の間者が流した世迷言です」

「そんな事はわかっておる、にしても全く忌々しい!」

「全く、未だに我らとやり合う兆候すら見えない徳川軍などを当てにして無駄な抵抗を続ける奥平勢は面倒ですな」

「大炊介、そちはわざと言ってるのか?」

「いえ、実際問題面倒くさい連中です」

「ああ、そのせいで家康を討ち損ねたのだな、我が父は」


 わざと話を逸らしにかかっている勝資に応えるように勝頼も話を逸らしたが、内心では貞昌より昌景に対しての憎悪の方が強く渦巻いていた。


「では城兵たちを思いっきり馬鹿にしてみますか」

「とりあえずやってくれ」


 その後の勝資の提案に勝頼があっさりうなずいたのは勝資を信頼していたからと言うより、昌景への憎悪と苛立ちによって勝頼の心がささくれ立っており、正直誰とも顔を合わせたくなかったからである。




「お前たち、そんなに石垣が愛しいのか!」

「お前らの嫁さんは俺がもらってやるから、お前らは堀とでも祝言を上げろ!」

「おいおい……あいつら叫ぶだけで城を落とせると本気で思ってるのかね」

「ってか、お前らこんな所に叫びに来たのか?暇な奴らだこと」


 勝資の命を受けさっそく武田方の将兵は長篠城に向けて罵声を放ったが、長篠城からは矢弾の一発も返って来ず、返って来たのはだらけた台詞だけであった。



 大体、この勝資の作戦は戦いの流れからしてもおかしかった。普通籠城している相手を誘き出すために挑発を行うのなら攻城戦の開始時から行うものであり、七日も経ってから挑発を行うのは不自然である。

ましてや、武田軍はこれまで七日間長篠城を包囲しているのにこれと言った戦果を挙げられていない。そんな情勢で挑発を行った所で向かって来てくれる軍隊がどこにいるのだろうか。むしろ敵は焦っていると思われてなめられ、かえって士気を高めるだけだろう。仮に出てきてくれたとして、それは怒り狂って暴走している軍隊ではなく、こちらを呑んでかかって自信をつけて出てくる軍隊であり、なお面倒なだけである。


「修理殿にでも聞いてみるか…」


 勝資はなぜうまくいかなかったのかまるでわからず、普段勝頼と共に軽視している昌豊をまるで便利屋のような感覚で頼ろうとしていた。



「ふむなるほど…」

「それでどうすべきかと」

「心配するな、手はある故」


 勝資の愚策とそれを施した顛末を聞かされた昌豊はなんでそんな馬鹿をやったと怒鳴り付けるでも、自分たちを無視してやった結果だから勝手にどうぞと投げ槍に追い返すでもなく、予想外に穏やかに反応した。


「それはありがたき事、それで具体的にどうせよと」

「できることなら殿に直に伝えたいのだが…」

「なればそれがしが取りはからいますが」

「いや、貴公も噂を耳にしているであろう?」

「ああ…あの山県殿が云々とか言う世迷言ですか?」

「おそらく徳川が流した虚報であろうがな。山県とわしは親しい」


 まさかそんな事、と言いかけて勝資は口を噤んだ。勝頼の苛立ちようを見ると昌豊すら疑ってあらぬ罪を吹っ掛けると言う展開もありえない事でもないなと言う気になったからである。


「そ、それでは修理殿の策をお聞かせくだされ。それがしの口から…」

「心遣いはありがたいがその必要はない。これはわしの策ゆえわしの口から殿に申し上げたい。わしの策で貴公に責任を背負わせたくはないゆえ」

「ですが…」

「失敗したらわしが責任を取る、成功すれば貴公の功績だ、それでも駄目か?」

「わ、わかりました…」


 昌豊の大盤振る舞いと言うより大安売りと言うべき言葉に、勝資をして言葉に詰まりかかってしまった。




「自らお聞きに行くのですか?」

「ああ、それぐらいはしてやらねばならんだろう」


 昌豊の返事を勝頼の元に持って帰った勝資は、それに対しての勝頼の自ら昌豊の元に赴くと言う言葉に驚いていた。


「せっかくどうしても聞いて欲しいと言う事があるのだから、聞いてやらない訳にも行くまい」

「しかし」

「修理は言ったのだろう?自分の策でおぬしに責を負わせたくないと」

「はい、確かに」

「なればおぬしが間に立つ必要はない。単にわしと修理の問題だ」

「それで、聞いてどうなさるのです?」

「当たり前だが内容次第だ。良策を出して来たら取り上げて、そうでないなら却下するだけの話だ。わしと修理らが仲違いしているなどと言う噂もこれで完全に世迷言になるしな」


 この時、勝頼の心のささくれは収まっていたが、代わりに自尊心が強く頭をもたげていた。昌豊の事を勝頼が嫌っているのは、昌豊らが常にどことなく上から物を言っているように思えているからでもある。主人である自分に対して、言葉面だけは丁寧だがその中身はどこか自分を未熟者扱いしている節が感じられるのだ。その内藤が自分に必死に頭を下げて何とか意見を聞いてもらおうとしている、その結果勝頼の自尊心は充足され、その事実だけで勝頼の機嫌はよくなっていた。





 昌豊は自ら陣を出て、我先にとばかりに勝頼を迎えていた。勝頼はますます自分を認めてくれたのだと高揚していた。


「おぬしとした事が随分へりくだっているな……」

「いえ、折角それがしの言葉を聞いていただけるのですから」

「まあ、楽にするがよい。頭を上げよ」

「はい……」

「恐れながらこの話は奥の方で……」

「わかっている」


 勝頼も昌豊も、上機嫌そうにお互いの顔を見つめながら昌豊の陣に入った。蜜月の仲とも言えそうなこの主従を、昌豊の配下たちは真顔で見つめていた。


「誰か、殿に酒を」

「戦中にか?」

「これも策の一環と言う事で」

「長篠城の連中にこんな余裕はあるまい」


 まもなく、徳利と二つの酒杯が運ばれて来た。昌豊はうやうやしく徳利を手に取ると、金でできた豪華な酒杯に酒を注いで勝頼に渡した。


「おい、それで飲むのか?」

「ええ」


 一方昌豊とは粗末と言うにも粗末すぎる、まるで場末の町の薄汚い酒場に置いてありそうな小汚い酒杯を手に取っていた。


「うまいぞ」

「ありがたきお言葉」

「さて、早速策を聞きたいのだが」

「腹を割って話してもよろしゅうございますか」

「ああ、遠慮なく言うがよい」


 昌豊の言葉から笑みが消え、真剣な表情に変わった。一方で勝頼の顔は、だらしなく笑み崩れた。


「では、はっきり申し上げます。山県殿に謀叛などあり得ませぬ」

「そうであろう、そうであろう」

「何せ拙者と山県殿は戦友。山県殿が謀叛を企むのならばこの拙者に声をかけないはずはない、ですが拙者は何も聞いておりません。そして聞いておるのならば殿に申し上げております」

「ふむ、ふむ」

「ですがそれを利用してみるのも一興かと」

「なるほど、偽の裏切りをさせる訳か」

「ええ、何せ武田の中核の山県殿ですから、その影響は大きいはず。敵もたやすくは信じてくれないでしょうが、その辺りはこれからじっくりと……おやどうしました?」

「いや、何でもない……」

「もう一度おっしゃいますが、山県殿が殿に対し謀叛を企んでいない事は拙者が一番よく知っております、先に述べたように拙者と山県殿は戦友なのですから」


 だが酒を飲むたびに、勝頼がおかしくなって来た。頷く回数がやたらと増え、ろれつが回らなくなってきている。


 そして片目が完全に閉じ、もう片目も半分閉じ出していた。



 一方、その勝頼に念を押すように昌景の謀叛などあり得ないと断言する昌豊の目付きもどことなく細く、怪しくなってきた。


「修理、そなた……」


 昌豊の怪しい目の光に勝頼も気が付いたようだが、まぶただけでなく体全体が妙に重い。まだそんな時刻でもないし酒も一杯しか飲んでいないのに、眠くて仕方がないのである。




「謀叛を企んでいるのは拙者だけですからな」

「な…………」




 そんな昌豊の衝撃的な言葉にも、勝頼は立ち上がる事はおろか大声を上げる事もできず、か細い声を上げる事しかできない。まだ意識そのものははっきりしていたのだが、体が全く言う事を聞かない。




「いいですな、殿に謀叛を企んでいるのはこの内藤昌豊のみです。よろしいですな!」




 勝頼の頭にその言葉を届かせるように、昌豊はもはや立つ事すらできない勝頼の耳元でそう声を張り上げた。










 勝頼も昌豊も、同じ器から酌まれた同じ酒を飲んでいた。


 だが金の酒杯には、あらかじめ眠り薬がべったりと塗られていたのである。



 非常に安定した金属である金は、その安定さゆえに珍重されてきた。だが、それは逆説的に言えば多少不純物が付着していてもなかなか気が付ける物ではないと言う事も意味していた。もしこれが銅や鉄の器だったら眠り薬と反応し、器が変色して気が付かれていたかもしれない。




「殿は徳川如き自分が出るまでもないとおっしゃられた。その殿のお心意気を徳川方に喧伝し、徳川の愚か者を誘き出すのだ。それが殿の言葉である、では皆様方励まれよ」




 爆睡した勝頼を地元の小寺に押し込めた昌豊は、武田の将兵の前で一方的にそう宣言して全ての質問を封じ込め、武田軍の指揮権を事実上その手に握ったのである。

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