第3章 追憶@フェイスレス


◆ 第3章 追憶@フェイスレス



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 実家では、私は毎日のように地獄絵図を見せられていた。

 父と母の両方が家にいれば、子供の前であろうとお構いなしに夫婦喧嘩が発生していた。そして片方しかいないときには、両親は私で日々の鬱憤を晴らしていた。自身の中の濁った感情を、それぞれ相手がいないときに娘に撒き散らしていたのだ。

 そのくせ二人して外面だけはよく、家の外では仲睦まじい夫婦を演じていたからタチが悪い。そんなふうに都合よく偽ろうとするから余計にストレスが溜まっていくんじゃないの、と私は冷めた目で見ていた。

 こんなふうにはなりたくない、と子供心に思うようになった。どうして言い争いをするんだろう。どうして我を押し通そうとするんだろう。どうして険悪な空気を漂わせてまで、一緒にいることを選ぶんだろう。

 揉めるくらいならこっちから先に引く。そうすればすべて丸く収まる。衝突なんて避けて、穏便に事を済ませるべき。それが世の中を渡っていく、賢いやり方なんじゃないの? そんな意識が、いつからか私の心には芽生えていた。

 彼らの話は、家のことや仕事のことから始まる場合が多かった。だけど熱が入ってくると、決まって母は父の、父は母の愚痴を語った。中でも気になったのは、父は母のことを「好き」と言っていて、母は父のことを「嫌い」と言っていたことだ。

 結婚は人生の墓場、という言葉はそのとおりだと確信したし、恋愛ってのは泥沼に足を突っ込むような行為でしかないんだな、と思った。

 娘が二十歳を過ぎてもなお妻のことを好きだと言っている父は、私が物心つく頃から家庭のことや自身の見た目はまったく顧みない。

 私が物心つく頃には夫が嫌いだと言っていた母は、娘が二十歳を過ぎてもなお愛人を作っては密かに会っている。

 父が家事や育児に無頓着だったからか、母は私に干渉してくることも多かった。顔に痣のある娘を産んでしまったことは少なからず気にしていたようで、「こんな顔に産んでごめんね」と口癖のように言っていた。

 まあそれについても、私への罪悪感より自身の世間体を気にしているような態度が透けて見えたけど、私は気づかないふりをしていた。

 小さい頃から、母はいろんな病院に私を連れて行った。母は、「生まれつきのものだからって放棄しないでよ!」とか「あんたが匙を投げたら誰がこの子の顔を治すのよ!」とか「あの薬効かないんだけどどういうこと!?」とか、病院の先生に向かって喚き散らしたこともあった。

 対して私は、やめてくれ、といつも思っていた。正直なところ、私はある程度の年齢になってからは痣が治ることなど諦めていた。

 どうせ原因はわからないし消える見込みもないから、マスクで隠すことができればそれでよかった。

 両親はどうしようもない人たちだった。父も母も、子供より自分優先という人だった。

 だから私は、手のかかる子にならないようにふるまうべきなのだと、いつからか当然のように受け入れていた。

 私は今、大学に行かせてもらえて東京で一人暮らしをさせてもらえて、朝陽とも一緒にいることができている。これはひとえに、私が「いい子」でいたからだと思っている。

 親との仲は決して良好ではなかったけど、衝突することもなかった。

 衝突を繰り返していたら、今みたいな環境にはいられなかったよね。


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 高校時代、私はどの科目も平均して点をとれるタイプだった。強いて言うなら数学が得意で、だけど理科は苦手。なので文系なのか理系なのか、自分でもよくわからなかった。とりあえず、つぶしが利くという理由だけで理系を選んでいた。

 大学受験で、私は第一志望だった東京の大学に落ちてしまった。進学先は、同じく東京ではあるけど、滑り止めで受けた私立大学だった。入学してから知ったけど、第一志望の大学とは偏差値にして10以上の差があったらしい。

 入学してすぐの頃は、住めば都ともいうし、なんて思っていたけど、すぐ耐えられなくなった。

 そこは数学科という学科で、私は数学は得意ではあったけど、学問として突き詰めたいとはまったく思わなかった。教科書には小難しいことが書いてあるわりにテストは難しくなかった。周囲の学生のレベルも正直言って低かった。授業は平気でサボるし、数学を極めたいと言いながら高校レベルの数学ができなかったりするし、県下有数の進学校に通っていた私はちょっとカルチャーショックを受けた気分になった。

 そんなわけで私は、ゴールデンウィークに入る頃には大学を受け直すことを決意していた。

 親からは最初は反対されたけど、最終的には許してもらえた。学費と家賃は、前の大学に通っていた頃から今も出してもらっている。いい子にしていた甲斐があったというものだ。

 学科の同期の女子数人とはそこそこ交流していたけど、深い友好関係は作らなかった。付き合いが悪いと思われたかもしれないけど、どうせ1年限りの仲だと割り切った。後期に入った頃からは仮面浪人していることも打ち明けた。

 家賃と学費は親に出してもらっていたので、必要最低限の生活費を稼げるバイトをするだけでよかった。極力楽に単位をとれる授業を選んで、サークルにも入らなければ意外と時間はあった。

 そうして翌年の春、第一志望としていた、つまり今通っている大学に、私は再び1年生として入学した。

 いわゆるリベラルアーツを売りにしている大学だった。文理の垣根を越えた幅広い分野の学問を学べるというものだ。始めはコンピュータの画像処理を学ぼうかな、なんて考えていた私だけど、ある授業がきっかけでコンピュータによる言語の処理にも興味が出てきた。そうこうしているうちに人間と機械の言語の認識方法の違いとか、そもそも人間はどうやって文章を理解しているのかとかも気になってきた。

 理系だったはずが気づいたら文系分野にも足を突っ込んでいて、研究室配属を考える頃になってもなかなか方向性が定まらなかった。

 聞こえのいい言葉に騙されていた。自由とは、曖昧の裏返しなのだ。

 よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば優柔不断。要するに私は、専攻分野一つとっても、一貫性がなかった。


 そんなところも朝陽とは対照的だった。

 朝陽は、国語と英語が得意で理科と数学が苦手で、高校時代の進路選択の際も迷わず文系を選んでいた。

 そして高校に上がる頃にはすでに臨床心理士になるという夢をもっていた。今でもそれは変わっていない。その資格を得るには大学院を修了することが必須らしく、現在朝陽が大学院に通っているのもこういった明確な理由があるのだ。

 対照的といえば、生まれ育った環境についてもそうだ。

 朝陽の家は、私にとって理想ともいえる家庭だった。

 朝陽のお母さんはいつも自然体で、それでいて朝陽に負けず劣らず整った目鼻立ちと明るい性格をしていた。お父さんはそんな奥さんと娘に振り回されつつも優しく受け止めていた。父親が家事に協力的なのは、私には衝撃的ですらあった。朝陽は毎年誕生日を祝ってもらっていたし、夏休みには家族旅行にも出かけていた。

 朝陽の両親は、私のことも実の娘のように面倒を見てくれた。朝陽の家に遊びに行けばいつもよくしてくれたし、顔の痣について嫌な反応をされたこともない。うちの両親には口が裂けても言えないけど、朝陽の家のほうが居心地がよかった。

 ほかの家庭を知らなかったら、私の両親はいわゆる普通の親で、自分の家は標準的なものだったと信じていたに違いない。

 私が自分の家庭を、ひいては自分自身をちょっとおかしいと思うようになったのは、たぶん幼い頃から朝陽の家も知ってしまっていたからだ。


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