第10話
しばらくそうしていると、
「おのれっ、半血と人間の分際でっ!」
地獄の底から這い出るような、低い、怨嗟の声がした。
マスターが慌てたように振り返る。
黒男がよろけながらも、ゆっくりと立ち上がろうとしているところだった。
ひっ、と喉の奥で悲鳴をあげる。
「あの勢いで叩き付けられて、まだ動けんのかよ」
マスターが舌打ちする。
叩き付けられたって、私が見ていない間に何があったのだろう。
マスターが威嚇するように唸る。
黒男もだいぶふらついているけれども、マスターだって傷だらけだ。
「マスターっ」
このまま、また戦ったら、マスターが死んでしまうかもしれない。
すがるような私の悲鳴に、マスターは一度、困ったように私に視線を向けたものの、またすぐ黒男に視線をなおした。
どうしよう。
一触即発。睨み合う二人を見ながら、私はただ動けないでいた。
息をするのも躊躇うほどの沈黙。
どちらが先に動くのかと、伺うような空気を、
「あーもーうぜーな、いい加減諦めろよ、犬畜生めが」
場違いな程、気怠げな声が遮った。
そして同時に、黒男が右にふっとんでいった。
「っ! 英輔さんっ!」
どこから現れたのか、英輔さんが黒男を蹴り飛ばした。
「英輔!」
マスターが叫ぶと、
「遅くなってごめん」
彼は片手をあげた。何事もなかったかのように、ひょうひょうと。
っていうか、
「腕は? 足は? ついてますか!?」
慌てて彼に問うと、
「なにそれ? ついてるよ。あんな獣ごときにやられるわけないじゃん。数が多いから手間取ったけど」
あっけらかんと笑って言われる。その割には、体中血まみれだけれども……。
でも、黒男をぶっとばして、しっかりと立っているということは、それなりに大丈夫ということなのだろう。ひとまず安堵する。
英輔さんはずかずかと倒れたままの黒男に近づくと、がしっとその頭の上に右足を置いた。押さえつける。
「ったく、手間掛けさせやがって。感謝しろよ、半殺しにとどめといてやったんだからな。殺しちまえば、もっとはやかったのに」
いつもと同じ、どこか気の抜けた言い方で、物騒なことを言い出す。
ぐりぐりと、右足が小さな円を描くように動き、黒男を押さえつける。
黒男が呻いた。
そんなことを英輔さんは、顔色を変えずにやっている。
「英輔、もうやめろ」
マスターがたしなめるように言うと、英輔さんは足を離した。それから、黒男からは目を離さないまま、いつもと同じトーンでマスターに話しかける。
「ねぇ、沢村さん。沢村さんが、殺すなって言っていたから、俺はちゃんとそれを守ったよ?」
「ああ、感謝している。それに悪い、巻き込んで」
「それはいいんだけどさ。沢村さんいなくなったら餡蜜食べられなくなるし、手伝うことは吝かじゃないけどさ」
なんでいまこのタイミングで餡蜜の話がでてくるの……。
「だけど、本当に生かしておく必要がある? こいつらを」
とんっと、軽い感じで英輔さんの足が、黒男の腹にめりこんだ。
「ぐっ」
「英輔っ」
黒男のうめき声と、マスターの叱るような声。
「これぐらいじゃ死なないよ」
「もうそいつ立ち上がれないんだからいいだろうがっ」
「よくないよ。なんでいいと思うわけ? 沢村さんは」
呆れたように英輔さんは言うと、こちらに目を向けた。おいたをした子ども叱るような顔をしていた。
「つきまとって迷惑だしさ、店をあんなにめちゃめちゃにしてさ、卑怯にも理恵ちゃん狙うしさ。ホールにおいてあったケーキショーケース、あいつらが蹴飛ばすからケーキもおしゃかになるしさ。沢村さんにも理恵ちゃんにも怪我させるしさ」
なんでいま、ケーキが同列に並べられたの……。
「そんなことしたやつらを、どうして生かしておくわけ?」
「あとは、司法の手に委ねるべき問題だろうが」
「ああ、妖し界の? でも、それでこいつが反省すると思うの? また、狙って来たらどうするの?」
聞き分けのない子に、言い聞かせるような声色で英輔さんは続ける。
「俺はね、沢村さん。年長者として忠告してあげてるんだよ? 百年以上、物の怪として生きてきた俺が、二十そこそこの若造に、アドバイスしてあげているんだ」
ああ、そうか。英輔さんの話が本当ならば、本当に不老不死だというのならば、百年生きているという話も本当なのか。
ぐっとマスターが言葉につまったように呻いた。
それから察するに、マスターの実年齢と見た目の年齢は、一緒らしい。
「大事なものを守りたいのならば、手段を選んではいけない。情けをかけるべきではない。危険の種は排除できるときに排除しておくべきだ。化け物であることを最大限利用しておくべきだ。じゃないと、いつか後悔することになるよ」
いつものへらへらした英輔さんからは考えられないぐらい、しっかりとマスターを見据えた上で、はっきりと告げた。そのままの口調で続けた。
「俺は、甘いもののためならば、世界を敵にまわすことも厭わない。そういうつもりで生きている」
な、なんだそれ。
真面目な空気の中で言われた、とんちんかんな言葉に脱力する。
でも、マスターは違ったらしい。英輔さんの言葉に何を思ったのか、
「……それでも、俺は」
沈黙の後、震える声で、小さな声で言葉を紡ぎ出す。
英輔さんが、子どもを見守るような、優しくてどこか厳しい目でマスターを見つめている。ただ、黙ってマスターの言葉を待っている。
「俺はっ」
「お待たせしました!」
言いかけたマスターを、はきはきとした男性の声が遮った。
声の方を見ると、英輔さんの近く、空中から紺色の服を着た男性がでてきた。空中に、亀裂が入っている。例えば、子どもの頃漫画で見たタイムマシーンの表現のような、亀裂が。
出て来た男性はびしっと敬礼する。その後ろから、もう二、三人でてきた。
彼らはお揃いの紺色の服を着ていた。なんとなく見たことがあるような。なんていうか、そう、警察官みたい。
彼らは倒れている黒男に近づく。英輔さんがひょいっとそこから避けた。さっきまでの真面目な顔は消えて、いつものへらへらした顔をしている。
「狼人間、ジャン・二宮」
黒男の顔が、僅かに動いた。不愉快そうに、低く唸る。
「妖し界の警察官だよ」
いつの間にか、私の隣にきた英輔さんが教えてくれる。そんな気は、していたんだけれども。
「ジャン・二宮。人間に対する殺人未遂罪、ならびに同族に対する同罪の罪で現行犯逮捕する」
……あの人、ジャン・二宮っていう名前なんだ。あっけにとられる私の前で、人型に戻されたジャン・二宮が手錠をかけられる。
警察官が一人、こちらにやってくる。あ、この人は女の人っぽい。と、思っていたら、
「友哉」
彼女が口を開いた。艶っぽい声色には聞き覚えがある。
「三恵子」
人間に戻ったマスターが、軽く肩をすくめた。
ああ、そうだ。店に来ていて、マスターと喋っていた、あの女性だ。
地味な制服姿だということと、化粧が薄いから最初わからなかったけれども。
自然に顔が強張る。
「りーえちゃん」
隣で英輔さんが、揶揄するような声で名前を呼んできた。顔に出ているのは、わかっているってば。
「怪我を……」
「俺はいいから、理恵ちゃんのこと、先に頼む」
彼女はマスターの言葉に頷くと、私の前に跪いた。突然のことに驚いたけれども、これは多分、視線を合わせるための意味しかない。背が高いからって!
「ご挨拶が遅れました。妖し警察第三支部人間界犯罪対策課の大鎌三恵子です」
言って柔らかく微笑む。最初のちゃらちゃらしたイメージとは違う、しっかりとした対応だった。
「あ、あの」
「大崎理恵さんですね?」
「あ、はい」
「怪我の治療、させていただきますね」
私の戸惑いを無視して、流れるように彼女はそういうと、
「失礼します」
ポケットから出した小さな瓶の中身を、怪我した頬とやけどした手にそっと塗り込んでくれる。
ひんやりと、冷たい感覚。
どうしたらいいのかわからず、されるがままになっている私に、
「この人はあれだよ、カマイタチの最後の人」
英輔さんが、やっぱりイマイチ緊張感のない声で教えてくれる。
「最後?」
「カマイタチは三人一組で、一人目が転ばして、二人目が斬りつけて、三人目が薬を塗るわけ」
え、なにそのマッチポンプ。
「カマイタチの薬はよく効くらしいよ、俺には必要ないからわかんないけど」
言われて見てみると、確かに傷痕が消えている。
「よかった、女の子ですからね」
大鎌さんはにっこり微笑んだ。
ところで、大鎌ってカマイタチだから大鎌なんだろうか。
マスターはマスターで、向こうの方で警察官となにか話をしている。あっちこっち怪我をしていて、見ていて心臓が痛い。
「あ、あの、マスターにも……」
大鎌さんに言うと、大鎌さんはそうですね、と柔らかく微笑み、マスターの方に向かっていく。
「友哉」
「理恵ちゃんは?」
「大丈夫。それより、さっさとっとと怪我したとこだして」
「……おまえなんでそんな乱暴なんだよ」
「あんた相手に気ぃ使ってもしかたないでしょ、はやくして」
「はいはい」
そんな会話が聞こえて、マスターが着ていたシャツを脱いだ。脱ぐのか……。そりゃあ、傷の治療ってそうじゃなければ出来ないだろうけれども。
そうして大鎌さんが、その綺麗な指でマスターの肩やら腕やら足やらの怪我に薬を塗っていく。
これはなんていうか……。
すっかり黙り込んだ私に、
「なんか、やらしいね」
私が、思ったまんまのことを英輔さんが言ってきた。
「治療ですからね!」
強く言い返す。こんなときに不謹慎なんだから、私はっ。
などとやっている間に、怪我が治ったマスターが警官達と一緒にやってくる。
怪我は治ったものの、流れた血は元には戻らないし、疲れているのだろう。どこかふらふらしている。
「理恵ちゃん、ごめんね、大丈夫?」
問われた言葉に素直に頷く。よかったと、マスターが息を吐く。
「英輔も」
「平気平気」
なんでもないように英輔さんが片手をひらひら振った。
二人ともさっきの真剣な空気がなかったかのように、いつものテンションだ。
「警察、呼んでくれてありがとう」
「いや、厳密には、呼んだのは常連ののっぺらさん。俺、ほら、後天的に作られた不死者だから、妖し界には属してなくて、連絡とれないからさ」
あー、そういえば、戦争のための生物兵器なんだっけ……。と、いつか聞いた設定を思い出す。
っていうか、のっぺらさんってのっぺらぼう? みんな顔があった気がするけれども、のっぺらぼうも居るの?
「そうか、今度お礼しとかないと」
マスターが呟いた。
「それじゃあ、ジャン・二宮は連行しますので」
マスターの後ろから警官が言う。
「お願いします」
「とりあえず、あとで警察署来てください。ああ、あと」
そう言って私の方を見る。首を傾げる。
「そちらの人間のお嬢さんの記憶はどうしますか? こっちに関わったわけですし、記憶を消すことも出来ますが」
警官は私を見ていたが、尋ねたのはマスターにだった。
消す? 記憶を?
マスターがなにか返事をするよりも早く、
「やめてくださいっ」
叫んだ。考えると同時に、思わず口にでた。
驚いたように警官が私を見る。
「消さないで。誰にも言わないから」
お願いします、と頭を下げる。
せっかくマスターのことを知ることが出来たのに、忘れたくなんてない。わけわからないことはたくさんあったけれども、怖いこともあったけれども、忘れたくない。
警官はどうしますか? というようにマスターを見て、
「……今日のところは」
マスターは、押し殺したような声でそう言った。
「ああ、わかりました」
警官は頷くと、他の警官達と一緒に、ジャン・二宮を連れて、消えた。どこへともなく。
大鎌さんが立ち去る寸前、ひらりとセクシーに片手をふっていた。なにあれ……。
それにしても、ああ、よかった。よくわからないけれども、全部片付いた。
ほっと安堵の息を吐き、マスターを見る。
「マスター?」
マスターは困ったような顔をしていた。全部終わったのに。
「あっ、そうだ。エプロン燃やしちゃってすみません!」
お店のものなのに。
「弁償します!」
「いいよ」
マスターがゆっくり首を横に振った。
「もう使わないから」
「……へ?」
マスターは私に視線を合わせることなく、淡々と言った。
「もう明日から来なくていいよ。今までありがとう」
そこで少し視線が合う。
「本当にありがとう、理恵ちゃん」
マスターは少しだけ微笑むと、今度は英輔さんに、
「理恵ちゃん、送って行ってあげて」
「わかった」
英輔さんは淡々と頷く。
え、ちょっと待って。今の、何?
「じゃあ、俺、警察署行くから」
そういってマスターが歩き出すのを、
「マスター!」
慌てて声をかける。マスターの歩みはとまらない。
「え、来なくていいって、私、クビなんですか!?」
「そっちの方が、いいでしょ」
マスターはそれだけ言うと、私の返事も待たずに消えた。
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