第9話

 屋根の上を飛ぶようにして走り、私達のいる屋上まで、あっという間にあの狼がやってきた。黒い毛並みが多少は乱れているが、怪我を負ったようすはない。

「探したぞ、半血」

 黒男が言う。

「探すなよ、全血。諦めろよ。ちゃんと許可とってるんだから文句があるなら役所に言えよ」

「言ったさ。言ってままならないから、こうしているんじゃないか」

「ままならなかったら諦めろよ!」

 うんざりしたようにマスターが怒鳴る。

 っていうか、この人と戦っていたはずの、

「……英輔さんは?」

 一体、どうしたというの。

 マスターの背中に庇われるようにしながらも、恐る恐る尋ねた私に、黒男は鼻で笑ってから、

「さぁな? 今頃狼の餌だろうな」

 淡々と告げる。

「やっ」

 悲鳴をあげかけた私を、

「大丈夫」

 マスターが、少しだけ振り返って笑いかけることで、制した。

 すぐに黒男に向き直りながらも、

「あいつはマジで死なないらしいから。例え心臓をくりぬかれようとも、頭を撃ち抜かれようとも、腕がもがれようとも、時間があれば再生するから平気って言ってたしな」

 ……再生するからいいってもんじゃ、ない気もするんだけれども。

 そんな私の心を読んだのか、マスターが嘲るように小さく笑う。

「大体、お前等が英輔をそんな目に遭わせられるわけがないだろ。お前一人が抜け出してここに来るのに、こんなに時間がかかっていたのに。澄ました顔をしているが、だいぶやられたんじゃないのか?」

 挑発するようなマスターの言い方に、不満そうに狼が牙を剥く。

「黙れ、半血」

「法律も守れない愚か者こそ黙れ」

「今日という今日は決着をつけてやる! あの店を閉めろ! 私が店をやるんだ!」

 マスターがいつになく真剣な顔で狼を睨むと、

「あの店は絶対に渡さねえよ」

 低い声で吐きすてる。

「理恵ちゃん、下がってて」

 私にそう一声かけてから、吠える。そうすると、マスターの姿は、狼になった。

 そのまま二頭の狼はぶつかり合う。

 吠えて、噛み付いて。避けて。飛びかかって。

 私は邪魔にならないように、給水塔の影に隠れるようにしながら、それを見守ることしかできない。

 マスターの方が、小さい。体格差があるから、追いつめられている。

 それに、能力だって半分だって言っていたじゃないか。

 ネックレスをぎゅっと握りしめる。

 黒男の牙が、マスターの右前脚を軽く裂く。ぱっと血が飛んで、小さな悲鳴があがる。

 どうしようどうしようどうしよう。

 このままじゃ、マスターが死んでしまう。

 なにか私に出来ることはないだろうか。このままここで、祈っていたところで、なにもかわらない。

 必死に頭を働かせる。

 ここで私が飛び出していったところで、なにもできないし、マスターの邪魔になるだけだ。

 だけどなにか、なにか、出来ることはないだろうか。

 狼人間の弱点とか、何かなかっただろうか。映画とかでなんかこう、なかっただろうか。ええっと、ニンニクと十字架? 違う違うそれは吸血鬼だ。

 あ、銀の銃弾が効くって見たな! ってそんなもの持ってないし。

 ああ、っていうかさっき、満月を見て変身するのは創作だって言われたばっかりじゃないか。映画をヒントにするんじゃきっと駄目だ。

 ええっと、じゃああとは、狼の弱点? 狼の弱点って何……。

「……火?」

 動物って火が怖いって言わないっけ? 言うよね?

 試してみる価値はあるかもしれない。

 だけど火をつけられるようなものなんて、何も持ってない。

 エプロンのポケットを叩いたところで、出て来るのはオーダーを取るメモ帳と、ボールペンと、

「あれ?」

 それとは違う別の感触。

 引っぱりだすと、それはライターだった。

 そういえば、さっきお客様の忘れ物をポケットに入れたままだった。

 これならもしかしたら。

 エプロンを外すと、それを左手に、ライターを右手に握りしめる。

 給水塔の影に隠れたまま、少し二人の方に近づく。

 給水塔に隠れるようにしながら、ライターに火をつける。手が震えてなかなか上手く行かない。ようやく火がつくと、それをエプロンの裾に近づける。

 ぼっとエプロンに火がついた。しばるリボンの部分を握って、やけどしないように気をつけながら、狼の様子をうかがう。

 だけどどうしよう。二頭の狼は近づいたままで離れる気配がない。このままじゃ、マスターまで巻き添えにしてしまう。

 もたもたしている間にもエプロンは燃えてしまうし、それに、

「ぐっ」

 どさっと黒男にはねとばされて、マスターが地面に体を打ち付ける。

「マスター!」

 悲鳴があがる。血が広がっている。

 どうしよう。

「ん?」

 黒男が視線を宙に向けた。

「焦げ臭いな」

 呟く。

 ああそうか、狼も鼻がいいのか。

 こっちを見る。目が合う。

「……ああ、小娘」

 狼が、笑う。にたっと。鋭い歯を見せて。

「っ、理恵ちゃんっ!」

 マスターが声をあげる。

 よろよろと体を起こす。

「逃げろっ」

 黒男がこちらにゆっくりと近づいてくる。じらすように。

 マスターもこちらに来ようとしているけれども、ふらふらしていて進めそうもない。

 駄目だ。このまま続けても、マスターが負けるに決まっている。

 だったら。

「あたってくだけろっ!」

 叫ぶと、ポケットに入っていたメモ帳とボールペンを黒男に向かって投げる。勿論、すんなり交わされる。

「理恵ちゃんっ!」

 黒男の姿は殆ど目の前だ。

 もうほとんどが火に包まれたエプロンを、黒男に向けて投げた。

 あっさり避けられた。

「ふん、火が怖いとでも思ったか」

 あざけるように黒男が言う。

 顔が舐められそうなぐらい近くにある。

 マスターがこちらに一生懸命近づいてくるのが視界の端にうつる。だけど、ぽたぽたと血が落ちている。

 マスターがなにかを言っているけれども聞こえない。

 聞こえるのは狼の息づかいと、私の心臓の音。

 大丈夫、ここまで近くなったら、はずさない。

 深呼吸を一つしてから、袂に隠していたライターで火をつけた。

 黒男の毛並みに。

 熱い。だけど、手を離すわけにはいかない。

「っ!」

 黒男が弾かれたように、私から距離をとる、そのぎりぎりまでライターを押し付けていた。

 ちりちりと焼け焦げた匂い。

 毛が燃えている。

 黒男が、火を消そうと躍起になって転がった。

 マスターが驚いたようにこちらを見ている。気がする。狼だから表情とかよくわかんないけど。

 軽く火を消し終わった黒男は、

「おのれっ、小娘っ!」

 叫びながら再び私に近づいてくる。

「っ!」

 腰が抜けていた私は、咄嗟のことに動けず目をつぶる。

 獣臭い息が頬にかかり、肌が粟立つ。

 ただただ、ネックレスを握りしめた。ただの習慣で。

 恐怖でもう声はでないけれども、ピラマ、パペポ、マタカフシャー。唇が自然にそう唱える。

 冷たくて固い何かが頬に軽くあたり、

「理恵っ」

 マスターの声がいやにはっきり聞こえた。

 最期に聞いたのがマスターの声なら、それはそれでいいかなーなんてこともちらっと思った。なんか、呼び捨てだったし。

 そのあとのことは、よくわからない。

 頬にあたっている、牙なんだか爪なんだかに力を加えられ、ああもういよいよだめなんだと、ネックレスを強く握ったその瞬間、

「ぐっ!」

 ばんっと弾けるようにして、黒男が離れたのがわかった。

 同時に、目をつぶっていてもわかるぐらい、明るい光が自分の周りに発生したことも。それは本当に一瞬で消えたけれども。

 どんっと、何かが落ちたような音がする。

 ゆっくりと目を開けると、黒男が、三メートルぐらい遠いところに、背中から倒れ込んでいた。低く呻いて、動かない。

 え、なにごと?

 マスターからも困惑した空気が感じられたが、一番はやく気を取り直したのはマスターだった。

「理恵ちゃん!」

 右足をひきずるようにして、マスターが私の前までやってくる。

「……マスター」

 何が起きたのかがわからない。

 頬を何かが伝う。あれ、私もしかして泣いている? 慌てて片手で押さえたら、ぺっとりと赤かった。気づいたら、じくじくと痛みだす。

 さっきので怪我したのか。

「理恵ちゃん、ごめん」

 私の前に来たマスターはそう呟くと、顔を近づけて来た。狼のまま。

 体が固まって動かなかったのは、狼が恐かったのか、マスターだったからなのか。

 マスターは一度、ぺろりと私の頬を舐めた。犬がするみたいに。

 あたたかい舌が、触れて、離れた。

 マスターはすぐ、顔を離す。

 それになんだか、涙が浮かんできた。視界が滲む。

 かたかたと、両手が震える。それを抑え込むように、両手を握り合わせる。

 怖かった。

 怖かったんだ、それはもう、間違いなく。

 死ぬかと思った。

「……ごめんね、理恵ちゃん、ごめん」

 マスターの言葉に、何も返せず、ただ首を横に振った。

 マスターの声が、あまりにも沈んでいるから、私は大丈夫ですよ、って言葉をかけて、笑った方がいいんだと思った。それでも、上手く笑えそうも無くて、ただ黙って首を横に振った。

「ごめん」

 マスターは、もう一度呟いた。

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