第8話

「とりあえずいいかな」

 と、マスターが言ったのは、店からだいぶ離れたビルの屋上だった。立ち止まったマスターから、そろそろと降りる。手にしっかりと、そのごわごわした毛の感触が残っている。

 力が抜けて座り込みながら、自分の右手を庇うように左手で握ると、

「……マスター?」

 恐る恐る声をかける。

「ごめんね、理恵ちゃん」

 狼からはやっぱりマスターの声がして、そして小さく吠えたあと、ぱっと気づくと、いつもの見慣れた人間の姿のマスターになっていた。あの黒男と同じように。

「……マスタぁ」

 半分泣きそうな声で呼ぶと、

「本当に、ごめん」

 マスターもなんだか泣きそうな顔で答えた。

「今更なんだって思うかもしれないけれども、理恵ちゃんを巻き込むつもりはなかったんだ、本当にだけど。だけど、ごめん」

 マスターが頭を下げる。

「大事なことを、言っていなかった」

 顔をあげる。

 まっすぐに、マスターが私を見つめる。

「俺には半分、狼男の血が流れているんだ」

 ああっと溜息のような声が自分から漏れた。だってまさかほんとうに、そんなこと言うなんて。

 普通だったら、そんなこと信じられないと笑うだろう。だけれども、今、この状況下でそんなこと言えない。もう、こんなに非現実的な目にあっているんだから。

 夢だったらいいのに、とは思っているけれども。

 手が求めるように、気づいたら胸元に伸びていた。指先の感覚だけで、ネックレスをひっぱりだすと握りしめる。ピラマ、パペポ、マタカフシャー。唇だけで呟く。

「狼男は人を喰うから」

 いつだったかの、英輔さんの言葉が蘇る。ああ、不死者だと名乗っていて、本当に不死者だった彼は、このことを知っていたのだろう。

「……説明してください。何が、どうなっているのかを」

 マスターの顔を正面から捉えて頼むと、マスターは少しだけ躊躇ってから、小さく頷いた。

 マスターの話をまとめると、つまりこうだ。

 マスターのお母さんは人間だが、お父さんは狼男だったらしい。半分狼男の血が流れているマスターは、完璧な狼男と同じように狼に変身することができるらしい。能力は、半減するらしいけれども。

「……あれ、でも変身するのって満月じゃなくても、いいんですか? 映画とかだと、そうだけど」

「あれは後付けの創作だから」

「……なるほど」

 昔と比べて、多様なものを受け入れる努力をはじめた社会なのは、人間界も狼男界も代わりがないらしい。昔だったら、半分人間の血が流れている狼人間なんて、異物として即殺されるか、表立って迫害されて終わりだったらしい。

「混血人権協会っていうのがあって。狼男に限らず、妖怪、化け物と人間とのハーフの人権を守るために働きかけていて、そっちの妖し界では、混血であることを理由に差別してはいけないことになっているんだ。法律上罰せられる」

「……すみません、そもそも、その、あやかしかい? とは」

「あっちの世界とかこっちの世界とか、言うだろ、漫画とかで。そういうこと。人間が住んでいるこの世界とは、薄皮一枚だけ隔てた世界。狼男だけじゃなくて、日本古来の妖怪とか、吸血鬼とかが住んでいる。実情はもうちょっと複雑なんだけど、まあそんな感じで」

「じゃあ、その妖し界ではそこならではの法律とかあったりするんですね? それで、差別しちゃいけないって」

「そう。飲み込みはやいね」

 飲み込まざるを得ない。

 とはいえ、法律で決められたからといって、感情までは縛れない。

 表立った嫌がらせがなくなっただけで、裏ではねちねち言われることがあったらしい。どこの世界も一緒かぁ。

 妖怪や化け物の中には、人間界で生活している者も多々いるらしい。マスターはもともと、そういう人? 達のためにカフェを始めたそうだ。あっちの世界とこっちの世界の、丁度境界線上に作ったカフェ。

「理恵ちゃんと最初に会った時、今の大和撫子になる前。あれはそのタイプのカフェだったんだ」

 私が、泣きながら歩いていて出くわしたときの、あのカフェ。

「あっちとこっちの狭間にあるっていうことは、どこにでもあってどこにでもない。住所不定っていうことで」

 だから次行った時、見つからなかったのか。

「丁度、理恵ちゃんの前に常連のぬらりひょんが歩いていたしね。理恵ちゃんは迷い込んだんだと思う」

「なるほど……」

 でも、それならばその、ぬらりひょん? には感謝しなければならない。私とマスターを引き合わせてくれたのだから。

「だけど、住所が決まってないって不便じゃないんですか。二度と行けなかったし」

「あやかしなら、多少店の場所は目星がつくようになっているから。そういうタイプの店は、営業許可が降りやすいんだよ」

「……営業許可?」

「人間界で店出すにも一応届け出って必要でしょう? 妖し界では妖し界での届け出が必要なんだ」

「……なるほど? あ、でも今のお店は、ちゃんとこっちにありますよね」

「うん、それがアイツは気に入らないんだよ」

 マスターがため息をついた。

 人間界にあやかしが店を出すには、色々と細かい手続が必要らしい。単なる届け出だけではなく、細かい書類を揃えたり、資格試験があったり、色々と大変だったそうだ。それがあって、晴れて甘味処大和撫子は現在のかたちに落ち着いたそうだ。

 黒男は狼人間界ではそれなりの地位にいる人だったらしい。で、彼も人間界にお店を出したいと思っていたそうだ。が、イマイチ細かい仕事が苦手だったらしく、書類不備でつっかえされたりしているうちに、マスターの方が先に営業許可がおりたらしい。

 同じ種族で、あまりに近い場所に店を出すのは、人間界にかかる迷惑やら管理の問題やらでよろしくない。黒男が狙っていた場所は、大和撫子に近い場所であり、それも理由に黒男の申請は却下された。しかし、黒男としては、場所は譲りたくない。

 すると彼はこう思うようになったのだ。

「半分しか狼男の血が流れていない若造の癖に、俺が店を出す邪魔をするなんて生意気な!」

 と。それで、マスターがあの場所を立ち退くように、脅したり宥めたり色々していたらしい。

「って逆恨みかよっ!」

 思わず全力で突っ込んでしまった。

 そんなもの、さっさと黒男が上手いこと許可をとっていればよかっただけの話じゃないか。

「……ばかばかしくてごめんね」

 マスターがため息をつく。

「でも、これでわかりました」

「……何が?」

「マスターは、なんにも悪くないってことが」

 それがわかって少し安心する。

 私の知っているマスターは、ちっとも働かないでぐーたらしている駄目駄目な大人だけれども、それでも人から恨みを買うような人ではないのだ。

 安心して少し微笑む私を、マスターはなんだか微妙な顔で見つめている。それから、

「……だけど、巻き込んでしまった。本当に、申し訳ないと思っている」

 また頭を下げてきた。私は慌てて首を横に振る。

「マスターが大和撫子のこと、大切にしているのも知っています。黒男に屈しなかったマスターは、珍しくちゃんとしているマスターだからかっこいいと思います」

 さらに言葉を続ける。

「……珍しくって」

 マスターが小さくぼやく。

「私も大好きだから大和撫子」

 と、マスターのこと。

「だから巻き込まれたなんて思っていません」

 そりゃあ、多少は驚いたけれども。

「たった三人の従業員ですから」

 そうやって言って、精一杯笑ってみせると、

「……それもなんだけど」

 マスターが渋い顔で口を開いた。

「はい?」

「その、たった三人の従業員っていうところ」

「ああ、はい」

「結構、バイトの女の子入って来たでしょ、過去に」

 頷く。私と同期採用の子も三人ぐらいいた。何故かみんな、辞めていったけれども。

「あれ、なんでみんなが辞めていったか、理恵ちゃんマジでわかってないの?」

「なんで……?」

 私は少し悩んでから、

「あ! もしかして、黒男の嫌がらせ!?」

 逆恨みのみみっちい狼め。

 勢い込んで言う私を、

「じゃなくて」

 マスターが軽く否定する。

「じゃあ、なんでですか?」

「気味が悪いからだよ」

「何が?」

「大和撫子が」

「どこが!?」

 こじんまりしていて居心地いいじゃないか。そりゃあ、マスター働かないけれども。

「……んー、俺さ、最初人間界で暮らすあやかしのための店を作ったって言ったよね?」

「ええ、聞きました」

「その基本コンセプトは、大和撫子においても代わりがない。……まあ、今の大和撫子においては、あやかしと人間のための甘味処、というコンセプトだけれども」

「ふーん」

 なんでそんな話をしているのかわからずに、なんとなく相槌を打つ。

 相槌を打ってから、ふっと冷静になって考える。

 あやかしと、人間のための、甘味処?

「……え、お客様、人間だけじゃないんですか、もしかして」

「……うん」

 恐る恐る尋ねた私の言葉に、マスターは躊躇いがちに、それでもしっかり頷いた。

「え、え、ちなみに、誰が?」

「例えば、金曜日の夕方にいつもいらっしゃる、頭のつるっとしたおじさん」

「ああ、ケーキセットの」

 さっきもいらっしゃっていた、あの人。

「あの人は、ヴァンパイア」

「あんなハゲなのにっ!?」

「失礼だよ? それから、たまに来る大柄な人。いつもバナナジュースを飲む」

「ああ、はい」

「あの人は、見越し入道」

「何それっ!?」

「それから、いつもぜんざいを頼む、二人組のおじさんわかる。背広の」

「ああ、はい」

 英輔さんが最初に店に来た時にもいらっしゃっていた二人だ。

「え、あの人達は営業帰りのサラリーマンとかじゃないんですか?」

「その認識は正しいけど、人間じゃない。小豆洗い」

「……ああ、なるほど。ぜんざい、小豆ですもんね」

 しかし、そう、だったのか。まったく気づかず、普通の人間だと思っていた。

「……みんな言ってたよ、理恵ちゃんよく辞めないよねって。ぶっちゃけちょっと鈍いんじゃないの、って」

「え?」

 鈍い?

「あやかし達が集まることによって、ちょっとこう空気が変わるんだ。幽霊がいるところは寒いとか、淀んだ空気だとか、いうじゃん。あんな感じ」

「え、私はそんな風に感じたことは一度も……」

「うん、だから理恵ちゃん、鈍いって……。他のみんなは、なんとなく居心地が悪くなったり、気分が悪くなったりで、やめていっちゃうから。ちょっと客としてくる分には問題ないんだけど、働くとなると、やっぱりね……」

 そういえば、英輔さんにも鈍いって言われた。あれは、マスターに対する恋心とかそういう話題についての鈍いだと思ったのだが、そういう鈍いだったのか。

「そっか、鈍い……」

 鈍いと言われて嬉しいわけがない。なんとなく落ち込んでしまう。

 そんな私にマスターが慌てたように、

「いやいや、でも、感謝しているから。理恵ちゃんがやめないでいてくれたこと」

「鈍いから……」

「鈍いっていうか、血筋じゃないかな?」

「うちは普通のサラリーマン家庭ですが……」

「昔は霊的なことに関係のある職業だった、とかあるかも。そういうので、耐性がある場合もあるから」

「……だといいんですけど」

「ほら、あの、理恵ちゃんがおばあさんからもらったっていうネックレス」

「ああ、はい」

 ずっと握っていたそれを、軽く掲げる。目線の高さに。お守りの、ネックレス。

「それも多分、関係あるんだと思うよ。俺、そういうのには詳しくないんだけどさ」

 そういえば、英輔さん、この石のことを魔除けって言っていたもんな。そういうことなのかな。

「……あ、じゃあ、英輔さんの話が嘘じゃないっていうことは」

 本当に不老不死だっていうことは?

「気づいていたよ、最初から」

「あんなに反対していたのに? てっきり、電波なこと言う人だから反対しているんだと思ってました」

「いや、だけどさ、不死者だっていう話が本当だとしても、意味不明なのは間違いないじゃん。なんで甘いものだけ食べてるんだって思うし、理恵ちゃんが人間なのをわかっていてあのタイミングで暴露する理由もわからないし」

「だから警戒していたんですか?」

「そう、大事な従業員になにかあったら困るからね」

 マスターがさらっと言って、その言葉にちょっと心が弾む。ああそれって、私のことを気にしてくれたのだと思って、何が悪いの。

「あの、マスター」

 言いかけた私を、どこかから聞こえてきた犬の鳴き声が遮った。

 違う。

「英輔のやつ、逃がすなよ」

 マスターが舌打ちする。

 少しずつ近づいて来る鳴き声は、間違いない。

 あの、黒男の狼だ。

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