第3話

 強烈な衝撃を私たちに与えた神坂英輔だが、仕事の腕は悪くなかった。

 まあ、元々がアットホームなお店だし、メニューの数もそう多くはない。三日目には大体こなせるようになっていた。私の余計なことをしたのではないか、という後悔を払拭させる程度には。

 というか、正直、メニューに関しては私以上に詳しい。甘味のことだけ、は。

 例えば、みつ豆と餡蜜の違いとお客様に問われたとする。

「みつ豆はゆでた赤エンドウ豆に、寒天、フルーツの載せたものです。餡蜜は、みつ豆にプラスして餡子をのせたものです。なので、餡蜜の方がより甘くて美味しいです。お勧めはやっぱり、クリーム餡蜜ですね。白玉の有無はお好みで。ここのバニアアイスは、それ単体だと甘さ控えめでイマイチですが、餡蜜という器に置いては最高です。黒蜜とのバランスがとてもいい。お互いを引き立て合う、素晴らしいバランスです。なので、蜜は黒蜜をお勧めします。白蜜もまあ、悪くはないですが、選ぶとしたら黒蜜です。ちなみに、駅前のデパートに入っている喫茶店は白蜜の方がお勧めですよ。あそこの白蜜は自家製なんで」

 とまあ、そこまで聞いてないけどな、という情報をつらつら語ってくれる。二つの違いとか説明したことはないので、元々、有していた知識なのだろう。いずれにしても、他のお店の情報いらないだろ……。

 これがコーヒーになると、

「コーヒー豆のお勧めですか? ブルーマウンテンが一番高いから一番なんじゃないですかね。ちなみに生クリーム載っているのは、ウィンナーコーヒーです」

 と接客業にあるまじき推薦文句にプラスして、聞かれてもいない情報を答えるようになる。

 出会いのときからわかっていたことだが、そんなに甘いものが、好きか、好きなのか。脳味噌の代わりに餡子でもつまっているんじゃないだろうか、としばしば思っている。

 それでも、まあ、普通にオーダー受けて、運ぶぐらいのことはなんの問題も出来ている。

 なので、

「ですから、たまにはマスター休んでください」

「いや、そうは言ってもさ」

「大丈夫、私、閉店作業も出来ますから」

「それは知ってるけど」

「寧ろいつもマスターいるだけで、ほぼ一人でやってますから」

「……返す言葉が見つからない」

 などと言って、私がシフトに入る夕方にはマスターを家に帰した。半ば強引に。

 こんな狭いキッチンではなく、家でちゃんと寝て欲しい。

「理恵ちゃんは」

 仕事がなくてカウンターに寄りかかるようにして立ちながら、神坂英輔が言う。

「はい?」

 キッチンからその顔を見上げると、

「沢村さんの事が好きなの?」

 さらっと言われた。

 神坂英輔の言葉を理解するのに時間がかかった。沢村さんって、誰……。

 しばらく悩んで、それがマスターの名字だということを思い出した。下の名前が友哉なのは覚えていたけれども、名字は忘れていた……。

「ちょっ」

 思い出すと同時に、顔が赤くなる。

「違いますっ! 何言ってるんですかっ!」

「そっかそっか」

 私の否定の言葉を聞いていないかのように、神坂英輔は笑う。

「ちょっと神坂さん」

「英輔でいいよー」

「っ! 英輔さんっ。私は別にマスターのことなんて」

 にこにこ顔に言葉が急速に力を失う。

「……別に、マスターなんて」

 ただごにょごにょと呟くだけ。

 英輔さんが楽しそうに笑いながら、

「だって理恵ちゃん、沢村さんのことはいっつも心配してるじゃん。こんな怪しい俺を雇ってまで、沢村さんのこと休ませてあげたかったんでしょう?」

「それはっ! そうですけど……」

 だって、マスターは私が居ない時は一人でこの店を切り盛りしていて。私が学校の時間も、用事がある日も、マスターはずっと一人で。

「マスターに負担がかかってることは事実だから。だから別に好きとかそういうんじゃっ」

「だから、俺をいれたんだ」

 私の言葉に、英輔さんが呟く。

「……利用してごめんなさい」

 一度頭を下げた私に、英輔さんは、

「優しいんだー。好きだから?」

 懲りずにまたそう言って、

「あ、いらっしゃいませー」

 私の訂正の言葉もきかずに、接客に向かってしまった。残された私は、やり場のない感情を持て余し、いつもマスターが座っている椅子を睨む。

 指先が自然に胸元に向かい、服の上からいつもつけているペンダントに触れる。

「ピラマ、パペポ、マタカフシャー」

 そうして小さく言葉が唇からこぼれ落ちる。

「なにしているの?」

 急に声をかけられて、慌ててカウンターの方を向く。

「オーダー、いい?」

 英輔さんの言葉に、慌てて頷く。

 まったく無意識の行動だった。

 餡蜜を作り終えると、英輔さんに託す。それを運んだ英輔さんは、

「で、なにしてたの?」

 話を元に戻してきた。

「……おまじないです」

 少し悩んで、そう答えた。別に、秘密にすることでもないし。

 それから、ペンダントを引っ張り出す。銀色のチェーンに、小さな赤い石のペンダントトップがついた、とってもシンプルなもの。その赤い石がなんなのかはわからない。透明度は低く、紅色というべき赤い石。硝子玉でないのだけは確かだ。

「これ、祖母の形見なんです」

 小学生のころに亡くなった母方の祖母は、いつもこのペンダントを持っていた。それを、亡くなる少し前、私にくれたのだ。「これからは理恵が持っていなさい」と。

「困ったことや辛いことがあったときに、おまじないの呪文を唱えると、いいことがあるからって」

 その呪文が、ピラマ、パペポ、マタカフシャーだ。多分、意味なんてないんだろうな、と思っている。

「意味がなくても、これをやるとなんとなく落ち着くんです。実際、偶然かもしれないけど、いいことがあったし。私の一種のジンクスですね」

 そういって微笑む。

「へー。ちょっといい?」

 英輔さんはカウンターに身を乗り出して、ペンダントを眺める。

「……あの、外しましょうか?」

 気になるんだったら、そっちの方がいいだろうに。っていうか、気まずい。

「ううん。へーき」

 言いながらも、ペンダントを一通り眺めると、

「なるほどねー」

 何かに納得しながら、カウンターから離れた。なんだっていうんだろうか。

 内心首を捻りながら、ペンダントをまた服の中にしまう。

「それ、大事にした方がいいよ」

「あ、はい」

 祖母の形見だもの。それに、

「マスターにも昔、同じこと言われました」

 ここでバイトはじめたばかりのころは、一応、毎回外していた。けれども、途中で、見えないようにしているのならばつけていてもいい、と言われたのだ。ヘタに外して無くされても困るから、と。そのお言葉に甘えている。

 そのとき、マスターもなんだか意味深な顔で大事にするように言っていたのだ。

「あー、だろうね」

 だろうね、って何。

「これ、実際のところなんだか知らないんですけど、英輔さんわかるんですか?」

「んー。お守りの一種だね。魔除けの石」

「へー?」

 魔除けねー。だから祖母は大事にしていたのだろうか。

「いらっしゃいませー」

 英輔さんの言葉に、

「いらっしやいませ」

 慌てて復唱した。

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