第75話 脈打つ島
翌日、いつものように目が覚めると頭痛がした。夕べからずっと続いている鈍い頭痛だった。夢の中で惨劇の開幕ベルを務めてくれた音を辿ると、受話器の向こうの無機質な声に『あの部屋』へ来るようにと指示を受けた。
ただそれだけを告げて勝手に切れた古臭い黒電話の受話器を置き、中庭を見下ろす窓に額を付ける。仄かな冷たさが心地よく、しばらくの間そうしていた。何も考えず、何も感じず、お互いにただ冷たい建物となってぼんやりと。ひたすらに頭の奥から目の裏側を通って首筋へと拡散する痛みに耐えていた。
ふいに、トントン、と。
小さく控えめなノックの音で我に返る。ベリベリと音がしそうなくらいに気怠い身体を窓から剥がして、すぐに気が付いた。
藤崎だ。
「……セイ、起きてる? もうバスの時間なんだけど……」
探る様な優しい声、なんとなく恥ずかしくて宙を彷徨う視線。扉の向こう側が、そこにいる彼女の姿が手に取るように分かった。
それはきっと僕の成長とかではなく、きっと僕がたくさん藤崎の姿を見て来たからだと思う。
「……ああ、ごめん。今起きたよ」
扉の前に立ち、頭痛に顔を歪めながら、辛そうな声を絞り出すようにして。
「あ、うん。えっと……大丈夫? なんなら私が医務局に――」
「大丈夫。でもごめん。さすがに今日は休むよ。エリー先生にもそう言っといて」
笑った所、怒った所、こう言う場面で藤崎マドカがどんなリアクションをするのか。くるくると変わる気まぐれな表情の内側で、どんな気持ちを揺らしているのか。
多分、僕にはそれが分かる。例え全てがただの思い込みだったとしても、僕には藤崎の気持ちが分かるし、そうありたいと思っている。僕がどうのこうのだからじゃなくて、単純に彼女が僕の友達で、とても特別な女の子だから。
だから。
「――っ」
きっと同じように僕を理解しようとしてくれている君の言葉を。
「ごめん。藤崎。また明日」
僕は、明確な意志で拒絶した。
「…………うん」
扉の向こうできゅっと唇を噛んだ藤崎が、ぐいっと真っ白な顔を上げて偉そうに。
「わかったわよ! じゃあ、明日! 明日は絶対そっちが迎えに来てよね! それで色々と洗いざらい話してもらうから! 今日は勘弁してあげる!」
バネみたいにキンキン響く声を男子寮の廊下に響かせて、制靴の足音高く胸を張って立ち去っていった。
「……ごめん」
一人部屋の中に残った僕は溜息交じりに苦笑して、ベッドの上から薬のケースを手に取った。
アニーに貰った減退剤だった。言われた通り、僕の身体は一晩寝ても通常には戻らないみたいだと参りながら、その一粒を口にする。そのままシャワーを浴び、痛む頭に鞭を打って思考する。僕がどうしたいのか。そのためにどうするべきか。そのために、誰をどう使うのか。
この島に来てから、あるいはもっと前でも。全ての経験と知識を使って考える。誰が何を言って、何を隠したのか。ロビ霧島に教わった通り、僕が僕の理想に辿り着くためにどうするべきかを考える。何が必要なのかを。一体あとどれ位、時間が残されているのかを。考えて考えていくつかの推測や可能性を手に入れて、僕はそれを信じる事を止めた。
鏡張りの動く床に乗った頃には、頭痛はかなり弱まっていた。
「大丈夫」
悪く無い。さすがアニーだ、これ位をキープできるなら問題は無い。鏡の中の自分に向かって笑いかける。これなら僕は、敬礼したままでも闘える。
相変わらず空席のままの研究局局長の席以外を埋めたお偉方の前に立つ。目を付けていたのは、三人。以前ここへ来た時の反応からして多かれ少なかれ反元帥派だと思われる三人だ。
彼らが喋る言葉、それ以外への対応を耳で捉え、同時に全員の前に掲げられた立場を示す小さな肩書きを目に焼き付ける。
外部からは独裁者と見なされる人物が存在するこの島で、一体誰が何に対してどれ位の権力を持ち、その決定を行っているのかを。
僕は、それを知るつもりでこの場に来た。僕は、ここに闘いに来た。
だから僕はまるでいっぱしのスパイにでもなった気分で、あの海の中で起きた事を、有沢カナに伝えたのと同じ様に答えていく。するとやがて僕に対する審議は終り、前節でやらかした通信室破壊に対する最終処分を言い渡された。
『無報酬による夜間警備補助を七日間』
官房らしき人が無機質に読み上げたその瞬間の人間の表情、空気、その全ての動きを、集中しきった僕の感覚は確実に捉えていた。
予定調和の様に進んだ会議の半ば、警備局局長の札を立てた壮年男性がゆっくりと口を開くまでは。
「……先日、OSPRの関係者がルーガにて襲撃を受け、殺害されるという事件があった。彼らはこの事実を『OSPRの職員が西フロンティア島で暴漢の手によって殺害された』と発表し、我々西側への圧力を強めている」
落ち着いた彼の口調に、その言葉に、僕の心臓が小さく跳ねた。
殺害? 死んだ、という事か? ルーガで? ……あの男が?
血だらけの男を思い出す。脇腹を刺されたまま白い大地に倒れていた彼と、意識を失ったヘルメットの男。
僕が――いや。違う。それは事実じゃ無い。
――会ってみるか? そーかい。なら――
警備局長の声に重ねるように、間延びした独特なアクセントの声を記憶の中から響かせる。
彼は、死んだとは一言も言っていなかった。むしろその男は生きているような口ぶりで――まるで、それを自分で確かめに来いとでも言う様な。
「一方で、奴らはルーガという在り方そのものを批判している。曰く、西側独裁体制においては不当な人種差別が存在しているのだと。その差別や弾圧を生み出してしまう社会制度が犯罪につながっているというのが彼らの主張だ」
身体に蘇るあの時の感覚、確かな感触、映像。頭の中まで真っ赤に染まった様な、闘いの記憶。
――そーかい。なら、きっとボーイは悪くないままさ――
また、僕の首筋に不都合な事実が突きつけられた。頷けば喉を刺し、首を振る度に血肉が削られる様な言葉のナイフが。
俯き気味に唇を噛んで心臓の脈を数え始めた僕の頭上で、警備局長の言葉が途切れる。
そして、すぐに情報長官が後を引き継いだ。
「その件に関して、特にオセアニア諸国が強い懸念を示しています。彼らの後ろ盾であるユーロは変わらず我々への援助凍結などを主張し、英・仏を中心にOSPRを通じてこの島への政治的介入を求める動きもあるようです」
苛立ちと嘲笑が混じった様な彼の声に、また別のしわがれた声が反応した。
「なにを白々しい! 連中こそがルーガの反体制派を支援している事は分かっているのだ! しかもその男――有沢の孫娘が処分したのは、奴らと接触していた諜報員ではなかったのか! それをいけしゃあしゃあとっ!! どれだけ我々を愚弄すれば気が済むのか!?」
禿げあがった頭、耳の脇から首へと垂れる長く白い髭。やや直情的なその人は、濁った眼を見開き頬を震わせながら、腹の底からの大声でどなり散らす。
「源十郎! それからお前達もわかっているだろう!? OSPRなどに指揮をゆだねてどうなる!? 奴らなど蟲共の餌にすらならず、結局命を掛けるのは我々だろう! ここは魔法使いの国だ! 我々がそれを勝ち取ったのだ! 二度と奴らに命令されるつもりは無い! OSPR等ゴキブリと同じ! 侵入すら断じて許しがたい!」
演説を重ねるごとにヒートアップした老人は、立ち上がりながら強く拳を振り払った。
「この島に置ける問題は奴等の方だ! OSPRさえ排除すれば、ルーガの若僧などすぐにでも壊滅してやろう!」
力と意志を誇示する様に拳の裏側を見せつける彼と、静かに頷く数人の賛同者。しかし、全体的な雰囲気は冷ややかなままで。
「待ってください、井上殿。当局はOSPRにもルーガにも攻撃的な行動に出る事は許されません」
情報を司る男のあやすような声。
「なぜだ!! 侵略者の船など、二度とこの島に近づかぬように潰してしまえばいいではないか!!」
立ち尽くす僕の身体の少し上の方で、老人による確実で滅茶苦茶な提案を部屋の重鎮たちが冷ややかに笑っている。
「彼らに攻撃を加えれば、世界と奴らにこの島への軍事的介入を許す大きな口実を与える事になる。我々が行うのは、あくまで対処、そういうことです」
「バカを言うな! 貴様、源十郎の力を信じないと言うのか!?」
目を剥き細かく頬を震わせながら怒鳴り散らす痩せた老人の姿は、胸が苦しくなる程に空虚で、笑えない位に滑稽だった。
「まさか。違いますよ。ただ――」
真面目な顔の下に冷笑を隠した情報長官が、すっと人差し指を天井に向けて突き立てる。
「ご存知無いのかもしませんが、最早時代が違うのですよ、幕僚長。我々は常に監視されている。宇宙を飛ぶ衛星によって、です。しかもその監視映像は、OSPRだけではなく、世界中のマスメディア、あるいは一般人にすらある程度公開されているのです」
彼は憐れみさえ滲む様な優しい口調で。
「もしもアンチバイラスが奴らの巣に乗り込めば、そこに映るのは――いえ、世界に向けて発信されるのは、強者が|ルーガ(弱者)を虐殺する映像や|無力な人間(OSPR)に一方的に攻め入る場面の写真でしょう。それが多くの人間の目にどう映るかなど、元帥でなくともお分かりかと」
そこで言葉を切って、お偉方を見渡す情報長官の瞳にぎらりと強い光が宿るのを感じた。
「火を付けるな、という事です。人間にも、OSPRにも、それからルーガにも。幕僚長、あなた方の世代がルーガの処理に手をこまねいた事実を忘れないでいただきたい。彼らもまた、魔法使い。チャムやグエン以外にも、危険な存在は眠っている――」
ドンッと。
冷静な長官の台詞を遮るように、机を叩く打撃音が部屋に響いた。
「……お考えを頂戴したい物ですな、元帥」
音を立てた人間の方を見れば『有沢警備局長』が薄い笑みを湛えながら、じっと主のいない椅子を見つめていた。
「ルーガの反体制派を生きながらえさせ増長すら許しているのは、間違いなくあなたの息子にして我が無能なる弟――有沢ヨウスケの会社とのつながりです。奴が手掛けている輸入品の中にルーガへと流れている武器と資源がある」
じっと。彼は、決して姿を見せない己の父親の影を見つめたまま。
「元帥。有体に言って、すでに港を含む商業区はヨウスケの巣です。もしもあなたが奴に――ろくに魔法も使えないペテン師にこの島を任せるおつもりなら、我々はそれを受け入れる事は出来ないと言っておきましょう。先程井上幕僚長がおっしゃったとおり、それではOSPRが指揮を執るのと同じ事。我々は、命を掛ける事が無いものに命を預ける事は出来ませんからな」
薄くぼやけた様な息子の笑みに、闇の中の父親は無言を貫いた。
すると、有沢警備局長はくすくすと笑いながら僕の方を振り向いて。
「どうだろう、小田島伍長。我が父、有沢元帥は一体何をお考えだろうか? もしも君にわかるならこの私に教えてくれないか?」
胸に残る動揺を隠すように唇で息を吐き、つばを飲み込む。視線を上げると、微笑の男性と目が合った。四十歳過ぎ位か。ロビ霧島よりは少し上で、上田隊長よりは若い気がする。
僕は出来るだけ不敵に笑って、何も気取られないようにした。
――と。
『…………諸君。この島に『人種』などというものは存在しない。肌の色も、瞳の色の違いもファージの前では無意味だからだ』
唐突な声。誰もが声の主を振り返る。誰も座っていない『元帥』の札がたてられた席を。
『僕達が持つ境界線はただ一つ。闘う者と闘わない者、それだけだよ』
静かな声だ。波一つ立てない湖の様な、とても落ち着いた老人の声。聞く者の頭に浮かぶのは、ぞっとするほど冷たい、生物の気配すら感じさせない強酸の湖。
神経をひり付かせる程の緊張感の中で、誰一人として彼の意図を問うことすら出来ないまま独裁者の言葉だけが部屋を震わせていく。
『しかしながら、かつてこの島の大多数を占めていた本土の人間とそれ以外の間にあった壁は深刻だった。化物どもとの殺し合いの日々の中で、その違いは致命的だったのだ。だが――』
元帥が言葉に溜めを作った瞬間、自然と誰かと誰かの目が合っていく。
部屋のあちこちで複雑に交差した細い糸がパチンと触れあい、かすかに頷き、彼らは視線を思い思いの方向へ。
『だが――、東南アジア諸国を中心に雑多に『ルーガ』と分類された彼らは、やがて混じり合い、意志の疎通を可能とし、今や一つの集団として機能するまでになった』
耳から頭の中に押し寄せる独裁者の声の波。心を構えていなければあっという間に呑まれてしまいそうなその空間で、部屋の入り口を背負った僕に注意を向けている人間はいなかった。
だから僕は、彼らをじっと観察した。頭の上で交差する微かな仲間同士の絆の様な物を。誰と誰の間に、どれくらいの強さでそれが存在したのかを見たいと思って。
『彼らは学び、我々は学ばなかった。同じ籠の中に住みながら、彼らが我々に歩み寄ろうとする間に僕達は東側の言葉を学んで来た。彼らを仲間として見なしてこなかった歴史がある』
自らの島の在り方を批判するような彼の言葉に感情を逆なでされる者や、今すぐにでも反論しようとイメージを抱く者、あるいはそんな事を言い出した元帥への疑念や、心のどこかにうずく賛同など。
『諸君も、もう気付いているだろう。彼らと僕達の間に壁など無く、そんなものが存在すると言う事自体がこの島にとって恥ずべき状況なんだ。現に、本土出身である小田島伍長や他の若い世代の中にはルーガと交流を持っている者もいる』
彼の声に合わせて全員が一斉に僕を振り返ったのに感嘆しつつ、僕は彼らの視線をアンチバイラス式の『気を付け』の姿勢のままで受け流す。
そして姿すら見せない独裁者は、かすかな呼吸の音だけでまた彼らの首をゆっくりと動かして。
『……彼ら――『ルーガ』は今や共に闘う同朋であり、同じ未来へと向かう仲間なんだよ――だけど』
まるで部屋を見渡すように静かに語られていた有沢元帥の次の言葉は、ルーガを毛嫌いする井上さんの膨れ上がった感情を突き刺すような鋭さをもって放たれた。
『だが、だ。だがしかし、今、僕達が反省し変えていくべきその壁を利用しようとするものが居る。仲間同士を分断し、対立させ、それを理由に魔法使い――いや、この西フロンティアを野蛮な存在に仕立て上げようとする連中だ。そうだろう、小田島セイ?』
水を向けられても、僕は無言を貫いた。少しでも集中を削がれない様に、じっと彼を見つめたまま、軽く目を閉じて。
『今回は奴らの面子を立てて『海洋性』と言う茶番に乗ったが、奴らが撃ったのは『ルーガの至宝』であった少女だ。彼女は命を取り留めたものの、僕と同じになれたはずの彼女の魔法は永遠に失われた。そして、僕には聞こえ始めた。ルーガの中から、この僕や君達を疑う声が流れているのをね』
彼は、声の中に少し笑う様な素振りを混ぜて。
『つまり、チャムを将来の脅威と見なした人間が意図的にあの船をOSPRに攻撃させた、という情報が流されている』
ほんの少し胃が収縮し、心臓が嫌な形に捩じれた途端――目が合った。
『彼』と『僕』と。互いの存在すら無い意識の奥、無言のまま彼――有沢源十郎という魔法使いは、僕の中心を真っ直ぐに見据えて。
『そう。君だよ、小田島伍長。彼らの中に、君がこの島の後継者の座を得るために邪魔となるチャムを排除しようとしたんじゃないかという疑いが広まり始めている』
こめかみに血が流れる音を二つ聞いた後、再び視線が集まっている事に気が付いた僕は、僕を見ていた人間の顔を眺め返す。
その瞳の中に見える彼らの野心や対抗心に、呆れた様な顔で首を振って見せながら。
「……もしも本当に僕が彼らに恨まれていたとしても、ここで何かを言う事に意味があるとは思えませんが」
動揺だとか、怒りとか、あれは本当に事故だったはずだとか、それでもその噂をチャムに知られたくないという気持ちだとか、あの子なら僕を信じてくれるはずだとか、だけど今のあの子はもうたいちょの事を信じてくれないかもしれない――なんて考えてしまう罪悪感とか。胃の上辺りでどろりと蠢いた感情を顔に出さない様に、ばれない様にと務めながら。
だから、彼はそんな僕に同情の笑みを込めて。
『そうだろうね。それでも君が――僕の代用品がこの島に現れたという事が、あの子の価値に影響を与えたのは事実だ』
僕は『そうですか』と頷いた。
例えばそれは新しい玩具を手に入れた独裁者が、古い方を手放したという事だろうか。
あるいは誰かが、その隙を付いてルーガとコンニェの間の隔たりを広げようとしているのか。
ぼやけた頭を必死に穴埋めするかのように、僕はいくつもの可能性や甘い嘘を結んではほどきを繰り返した。
そうやって自問自答を続ける『もう一人の自分』の心の縁で、大切な宝物を撫でる様に僕に向かって微笑んでいる老人の影を感じながら。
『迷う事は無いよ、小田島セイ。誰の思惑にも、揺れる事さえ必要が無い。奴らが情報や世論を操るように、君はただ、現実を君が望む真実に合わせてしまえばいい。そうすれば誰もが君を選ぶはずだ。次の魔王としてね』
瞳に映る暗い部屋と、そこに並んで僕と誰もいない空間を見ている凍り付いたような顔や驚きの目。
その目には決して映らない場所。目の前の人達よりもずっと近い場所に、彼は座っている様な気がした。
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