第74話 帰投

 雲一つない夜の海に、バラバラと雨が降っていた。

 藤崎マドカが引き起こした爆発が吸い上げ撒き散らした海水が、元の場所へと帰っていく大粒の雨が。


 僕は静かな海に漂いながら、星の光を纏って落下する液体が身体に入らないように口を閉じ、腕で目をふさいでじっとしていた。


 海洋性ファージの子供の体液が混じっているかもしれないから。それが、どれ位の影響を人体に与えるかわからないから。


 ……あの日の僕も、こうやって海に浮かんでいたのだろうか。

 墜落した飛行機から、たった一人生き残った海の上で。


 そんなわけない。と僕の中の誰かが言う。分かっている。それは。偶然、僕だけが助かるなんてありえないと。

 だから、そうであってほしいと思う誰かを、僕は否定する。


 自分の中の甘い願望や奇跡に縋りたくなる気持ちを、斬り捨てる。

 僕は、魔法使いなのだから。アンチバイラスの人間だから。このフロンティアで、生きて行くのだから。


 それでもきっと、この島のごくごく一部。目に映る中の、ほんのいくつか。それ位しか守れない。その程度しか、自分の手に負える物なんて無い。


 ファージを殺しつくして、魔海を消せば、チャムはきっと笑ってくれる。素敵な夢を見つけてくれる。

 そうなれば、きっと藤崎も本土に戻って家族と一緒に生きていける。

 そういう日々。その先もずっと続くそれぞれの毎日。僕は、それを放さない。いつかそれを手に入れる。


 だから、あの子を殺した。あの、『海洋性』と呼ばれた子供を。

 分かってる、彼は何もしていない。


 でも、この世に現れた。

 彼にとって、それが罪。


 分かってる。彼は、僕を信じてくれていた。

 分かってる。あの海洋性に攻撃の意志なんて微塵も無かった。


 でも、彼だけじゃ無い。僕は殺した。数匹のファージを。その前にも殺したしこれからだって殺していく。あの子だけが特別だなんて、許されはしない。

 そう。今までもこれからも、僕は殺す。存在したと言う理由だけで。脅威があるというだけで、あの化物達を。


 人は自分より弱いものを受け入れて、強すぎるものは受け入れられない生物だから。

 奴らは、『私達の世界』を脅かす外来種なのだから。

 人間が守る『世界』なんて、この綺麗な星空じゃなく、それを綺麗と呼びあえる仲間だけなのだから。

 そう、同じ。同じなんだ。ファージと僕らは同じ。だから僕達も――魔法使いも、きっとそうなる。

 魔海が消えてファージの脅威が消えてしまえば、アンチバイラスも、チャムも、星月亭のミュージシャン達も、ルーガの人も、この島に生きている魔法使い達は、きっと。


 だから、僕は。本当は、僕が。できることなら――みんなを。


「生きてますか、先輩」


 水に沈んだ腰の辺りから、有沢カナの吐息のような声がした。それで僕は、小さな波が自分の耳を濡らしているのに気が付いた。


「……っ」


 声を出そうとすると、びりびりと身体中の神経に痛痒が走った。指先から頭の中まで、身体中の皮膚の内側が電気を浴びたみたいに痛くて痒い。

 衝動的に掻きむしりたくなるのを堪えて、僕は目に蓋をしたままいつものように苦笑した。


「せんぱぁーい、生きてますかぁ~?」


 一転して、ちょっとふざけてからかうようなカナの声。


「生きてるよ。なんとかね」


 声を出した途端首筋から脳天まで走った鈍痛に歪む顔を見せない様に、ギリギリの苦笑を馬鹿みたいな星空に向けたまま、ぷかぷかと仰向けのまま海を漂って。


「……そうですか。それはカナちゃん残念です」


 同じ様に空に向かって吐き出されたカナの声に、僕は笑う。


「悪いね。まだ生きてて――」

「嘘です」

「?」


 思わず横顔を探してしまう様な彼女の呟きに、僕は片耳を海に浸した。その瞬間、ふいに柔らかさと固さが混じり合ったアンチバイラスの少女の反対向きの手が、きゅっと僕の手首を掴んでいた。


 暗い海を照らす月明かり。波に揺れながら、静かに呼吸するカナの胸。反対向きの空のどこかを見つめている鼻の形。


 ――無言。


 無言のまま、カナは僕を探していた。

 真横に伸ばした右手で僕の右腕を掴んだまま、空を見たまま、他人を探し求める彼女の心の欠落に、僕は空いている左腕を両目に被せて黙っていた。


「……先輩が、やったんですよね? 先輩が、海洋性を、マドカさんに向けてジャンプさせたんですよね?」


 静かに響いたカナの声に、僕は出来るだけ軽く笑って。


「そうだけど、違うよ。なんとかしてあいつを海中で殺そうとしたんだけど、コントロールしきれなくてさ。OSPRの船の方に突っ込んでくのを止められなかったんだ」


 少しだけ、そう思った。どうせ殺されてしまうなら、あの子をって。

 お前達が言ったんだろうって。あの寂しがりの子供がチャムの船に突っ込んだなんて作り話を。だったら、それを。デッドラインの向こうで、安全な場所で、強い兵器に乗って笑っている様な人間共に思い知らせてやろうかって。

 でも、やめた。浮かんだ瞬間に、そんな気は無くなった。

 デッドラインの向こうの船にファージが突っ込むなんてあってはならないことだし、あんな奴らにあの子を殺されたくは無かった。最初から最後まで人間の玩具にされたあの海洋性を助ける事が出来ないのなら、せめて、命懸けで殺されて欲しかった。


「OSPRの人達に被害が出ない様にって必死になったら、頭の上に藤崎が見えてさ」


 誰かのために命を掛ける小さな英雄の伝説の中で殺されて欲しかった。

 だから。僕の魔法ではカナまで殺してしまうと思った瞬間、藤崎を探した。いてくれると信じていた。いるだろうとも思っていた。あの隊長なら、あの上層部なら。もしも僕が彼等ならきっとその場所に最高戦力を配置しておくはずだって。万が一の場合、僕達もろともファージを消し去る為に。


 そう思って、藤崎を探して、藤崎に頼った。

 この『化物』を殺してくれって。いつものように、苦しむ間もなく、あっという間にバラバラにしてやってくれって。


 もっとうまいやり方があったのかもしれない。あったんだと思う。僕じゃ無ければ、もっとうまく。

 でも、それがあの瞬間の僕に出来る全てだった。許された時間の全てを使って、出来る事をすべてやって、僕はあの子を殺すことを選んだ。それが最善だったかは分からないけれど、こうする事に決めたんだ。

 藤崎マドカが殺したのは子供達の船を沈めた凶悪な化物で、藤崎にあの子を殺させたのは、決して有沢カナが土壇場で努力を放棄したせいじゃない。

 すべては僕の無能さが招いた結末で、僕の失敗以外の何物でも無い。


「咄嗟だったけど、上手く行ってよかったよ。本当に。運が良かったと思う」


 静かな海。穏やかな波。お互いの身体すら溶けて行きそうな深い夜と、月灯り。


 あの海洋性が本当は何なのかを知りたかった。上層部やOSPRが、隠している事を暴いてやろうと思った。僕なら出来ると思った。僕には、知りたいことを全て知って、正しい事を行う力があるんだって。

 結果、僕は無垢で無邪気な子供を殺した。

 僕のせいで、藤崎に言えない事が出来た。僕のせいで、カナに心配そうな顔をさせた。僕は、僕のせいで、僕を。


 頭の中には、小型の蟲に命を貪られた空の上の恐怖、無力だった僕、生への渇望とそれを塗りつぶして行く逆三角形の無数の頭。

 戦士の一員としてファージを殺すやり方を覚えた今でも、この穏やかな海を漂う無力感や、自分自身と他人への擦り切れそうな怒りとか、心の底にある諦観は変わらなくて。


 あの飛行機の中でファージに道を譲った瞬間と同じくらいに、分かり合えたかもしれない友人を殺害した今夜の事を、僕は忘れない。きっと、ずっと。


「――本当に、藤崎があそこにいてくれて……あのを殺してくれて助かったよ。OSPRに突っ込んでたら面倒なことになってたかも」

「……嘘」

「嘘じゃないさ。得体の知れない凶悪な化物を、藤崎マドカがあっという間に殺してくれた。僕が本土にいた頃から何も変わらない、いつも通りの任務だよ」


 僕がここに来ても決して変わらない事実。魔法使いは――少なくとも藤崎マドカは、人類のために闘う戦士なんだ。だから、要らない。殺されていく『人では無いもの』に、生きる意味も死ぬ理由も同情も共感も――まやかしの理解者も。


 カナは、はあっと深く息を漏らして。


「……来ましたよ、マドカさん。良かったですね、先輩が大好きな空気を読めないおせっかいさんが来ちゃいましたよぉ」

「おお。目が良いね、カナは」

「……そりゃぁA型ですし。カナちゃん訓練してますから。なにしろスピードが売りなんでぇ」


 優しい声。何もかもから解放された爽やかさと心地よさ。からかう様で、微笑む様で、それでいてどうしようもなく切ない有沢カナと言う少女の声が、僕に聞こえる。


 もう片方のカナの手が、真っ直ぐに空に向けられた。


「撃ちましょうか。ここにいるぞって合図。それとももうちょっと漂います? カナちゃんと二人で秘密のアバンチュールなんて」


 僕は笑った。苦笑だった。


「撃ってくれ」

「はーい」


 可愛らしいお返事と共に、カシュンカシュンと軽い射出音が響き渡り、二つ三つと赤い光弾が空へと伸びていった。


 何を考えただろうか。何か言葉にならない様な物を頭の中で思いながら、僕はその夜空にきらめいた光の玉が掠れていくのを眺めていた。


『セイ! カナ!』


 遠く頭の上に彼女の気配と空耳の様な声がした。

 瞬間。

「あはっ」

「っ!?」


 小さく聞こえたカナの笑い声と共に、僕の身体はグイッと彼女の腕に引き寄せられた。そのまま無理矢理に抱き着かれると同時、カナは海の中へと倒れ込みながら大きく腕を振り回して。


「キャー! マドカさーん! 助けてぇ~! 先輩が、先輩がカナを無理矢理ぃっ!」


『はあっ!? ちょっとバカ、何やってんのよセイ!?』


「いや、僕じゃなrrr○×※っっ!?」

「あんっ、先輩、だめですよ~!」


 言葉の途中、僕の頭は無理矢理に海に沈められた。

 海中で目を開ける事も出来ずに慌ててもがいた僕の頬に、カナの両手がそっと触れて来て――。


「っ――」


 優しく。僕の頭の中に何かをそっと伝える様に。温かくて優しくて、擦り切れそうな感情を必死に訴えようとするように。


 まるで、僕を憐れむ様に。いたわるように。ねぎらうように。

 まるで、欠けているのは僕の方だと言うように。

 そんなに怖がらなくていいですよ、と。大丈夫ですよ、とでも言いたげに。

 私には分かってますから、なんて。

 とても優しく。優しく触れて。


「っ!!!!」


「……ったくもう! ふざけてる元気があるなら大丈夫なんでしょうねっ!?」


 カナを突き放すようにして浮上した後頭部に、藤崎の声。


「ふざけてませんよぉ。きっと濡れたカナちゃんがセクシーすぎたからぁ、先輩が狼さんになっちゃったんですぅ」


「はいはい良かったわね、あんたは無駄にエロくって」


 目の前でぶりっこをするカナの声。それを頭の後ろで適当に流す藤崎の声。


 僕は、音を立てて血を吐き出す心臓をぎゅっと押さえた。

 無性に気持ちが悪かった。

 まるで自分の見られたくない部分を見られたような、触れられたくないモノに触れられたような。

 それで勝手に分かったような顔をされたような気分の悪さ。勝手に、許しを与えようとでも言われたような不快感。ほんの一瞬、それで全てを終りにしてもらいそうになったおぞましさが身体中を駆け巡る。


 ……一秒、二秒。二人のじゃれ合いが頭の上を飛び越えていく間に、なんとか呼吸を整えて。


「――ったく、いいからほら、飛べないんならさっさと掴まりなさいよね」

「ああ、うん。ありがとう」


 いつものように笑いながら、目の前に差し出された真っ白な手にそっと自分の掌を重ねた。


「はいはい! カナも! カナちゃんもお願いしまぁす」

「わっ! ちょっ、バカ! 分かったから引っ張んな馬鹿カナっ! 危ないでしょ!」 


 戦闘の昂揚感の残り火と、緊張がほどけた解放感。

 テンション高く言い合う二人に合わせて会話をしながら、ちょっと大変そうに飛ぶ藤崎の手につかまって、僕は住み慣れた島へと帰ってきた。


「ふふ。気を付けた方が良いですよ。先輩が他人を覗く時ってぇ、先輩もまた覗かれているんですから」


 シャワールームの入り口で海水塗れの髪にタオルを被せたカナが、振り返りざまにニヤリと笑う。相変わらずおちゃらけた女の子の瞳の中に、とても穏やかなお花畑の中で楽しげに笑っている少女が見えた気がして。


「どういう意味か分からないな」


 僕は、反射的に彼女が僕の中に見ている誰かをはぐらかして、


「う~ん、そうですねぇ。多分、カナを使ってマドカさんのシャワーを覗くなよって意味です」

「はあ? 何バカな事言ってんの……って、ちょっとセイ、『その手があったか』みたいな顔しないでよ」

「はは。うそうそ。冗談だよ。さすがにそれは」

「…………だったらさっさとそっちに入りなさいよ。何を待ってんのよ?」

「ああ、いや。別に。ただ、笘篠隊の人達にも挨拶をしておくべきだと急に思ったんだ」

「ふふふ、そうですよねぇ。マドカさんだけじゃ損しちゃいますもんねっ」

「損っ!? 損ってどういうことよ!? んぬぁっ、コラ待て馬鹿カナ! あんたマジ排水溝に流れるレベルまで吹っ飛ばすわよ!」


 絶縁液の柔らかな感触を男性用シャワールームの扉に預けた背中に感じながら、この頭の中の何もかもを消し去って、こんな勝利の一時を心から楽しませる魔法があればいいのになんて思って笑っていた。

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