第73話 短い夢
暗い、真っ暗な世界。ときどき何かの間違いみたいにどこかで一瞬だけ輝く光の中を、有沢カナは真っ直ぐに飛んでいた。
思うのは、速く。とにかく速く。もっと速く。
速く、速く、もっともっと速く。世界中の何よりも。
――速く!
真紅の煌めきを撒き散らした流線型が飛沫一つ立てることなく水面から飛び出して、飛び魚の様に低く鋭い弧を描く。
それまで数回繰り返した補給よりも長い滞空時間。それでも景色のすべてがあっという間に吹き飛ぶ位のその一瞬に、カナは最後の酸素補給を行った。
飛び出した刹那に思いっきり息を吸い込んで、肺の中に酸素を溜める。
――そして。
真っ赤な軍靴の踵が激しく空間を蹴りつけた次の瞬間、暖めたナイフがケーキを切り裂くよりも滑らかに海面に突入したアンチバイラス最速を誇る魔法使いの視界が、獲物の気配を補足する。
真っ暗な海に、真っ黒な影。
一目見て狂ってると分かる様な滅茶苦茶な軌道でぎゅるぎゅるとあてもなく暴れ回る、甲殻を纏った不気味で巨大な海洋生物。泣き叫ぶように魔力を辺りに撒き散らしながら、止まる事すら出来ずにただ猛然と泳ぎ続ける一匹の化物――哀れなるファージ。
例え夜の海だろうと空の上だろうと、有沢カナにとって敵影を視認するのと目前に接近するのは、ほぼ同じ事を意味していた。
何よりも速く。有沢カナは、それを願った魔法使いだったから。それを叶えた戦士だから。
祖父の声よりも、父の手よりも、誰かの視線よりも、ずっと速く。誰にも追いつかれない様に。たったそれだけを願った少女のただそれだけを叶えてはくれなかった魔法が、対象を上回る速度を彼女の身体に与えてくれるから。
だから、彼女から逃げ切れるものはこの世のどこにも存在しない。
所々尖ったファージの外骨格が乱す水流を胸の下に眺めながら、カナは頭の中でくすくすと笑った。
――ふふ、馬鹿みたい。ねぇ、どこにいくんですかぁ? そんなに急いで、誰から逃げてるんです? どこまで? ねぇ、どこまで行けば逃げられるんですか? あはは、無理無理。無理ですよぉ。
うん、ムリ。無理ダヨ。ダッテぇ、あなたは、もう。
――
次の瞬間、少女は何のためらいも無く敵の外骨格に密着させた銃の魔力を炸裂させる。
鈍い手ごたえと同時に、悲鳴。
こちらの胸まで痛くなるような強烈な悲鳴が耳の奥に響き渡った途端、有沢カナはふと目を覚ました。
あれれ? カナちゃん、何をしてたんだっけ??? なんかすごく楽しい事をしてて、とっても嬉しかった気がするのに。
――あ、そうそう。こいつだ。こいつを追いかけてたんだった。てへっ。そうそう、カナちゃんは、こいつにジャジャンと追いついてぇ。
追いついて――?
リアクションに比べて、生命力に与えたダメージはかなり浅い様子。しかし確かに傷をつけた背中から、真っ黒な血が海水の中を筋になって流れているのが見えた。
追いついて、どうするんだったっけ?
なにか、そう。なにか、私は――。
あ。と思った。違う。血じゃ無い。何か生えてる。
敵の背中に、たった今自分が
うわ、と思った。気持ちの悪いその光景と、もう一つ。いつもなら二丁の拳銃を持っているはずの自分の両手に。
自分の片方の手が、敵に向かって勝手に思いっきり伸びて行くのが視界に見えたから。
同時に、それが自分の手では無い事をはっきりと思い出したから。
ああ、そうだった。自分は、この人に。この人を、ここまで。
途端、鼻の奥にごっそり穴が開いたような感覚と重たい眩暈が襲ってきて、水の中でカクンと、自分の頭の重みに身体が負けた。
――その瞬間、多分くしゃみをする位の時間、有沢カナはとても短い夢を見た。
とてもとても、寂しい夢だった。
自分が凄く小さな場所にいる夢。小さくて狭くて真っ暗な場所。
ここはどこ?
周りを探っても、景色の意味が分からない。なにか、自分がおかしな場所にいる。そう思うと同時に、自分を囲っているのはとても大きな水槽で、向こうに見えるのはたくさんの装置だと思った。研究所だろうかと頭の中のどこかが思う。
なのに、全部の姿があいまいで輪郭すらはっきりしない。
それでもあちこちに立っている小さな生き物は白衣を着た人間であるという二つの異なった認識が、自分の頭の中に共存する。
なにこれ? なんか脳味噌が曲がっちゃった?
ああ、寂しい。ここはどこ? 痛い痛い痛い。苦しい苦しい苦しい。みんなはどこ? 怖いよ怖いよ。何かに攻撃されてる。どうして誰も助けてくれないの? 死んじゃう死んじゃう。死にたくない。逃げなきゃ逃げなきゃ。みんなの所に。どこどこどこ? ねえ、どこにいるの、お父さん、お母さん。
猛烈な寂しさ。恐怖。痛み。変わりばんこに叫び出す意味不明なパニック。
息が出来ない、苦しい、息をする度喉をやすりで削らている様な不安。
やがてその窮屈な空間がどこまでも広く広くなっていき、辺りを見れば、身動きを取ることに意味を見いだせなくなる程に広くて、静かで、透明で、暗い、水底の世界。
誰もいない。
誰も。
ここには、誰も。
自分に、気が付いてくれる人が。
自分と、理解し合える人が。
自分と、同じ生き物が。
だから、たった一人きり。
だから、どこにも私はいない。
水槽の中から、突然に広い場所へ解き放たれた時の解放感。戸惑いと希望。
それでも結局、どこにも誰もいない寂しさ。押し寄せる絶望。無限に広がる自由と水滴の様な孤独。
いきなり誰かに攻撃される痛み。ひたすらに寂しくて、悲しい。どうして。恐怖。良く分からない小さな生き物に襲われる恐怖。死にたくない。
ああ、と気付いた。
これは、この子の。
この幼い化物が見てきた景色なのだと。
そして、カナは気が付いた。
自分と同じ。
なんだかこの子は、自分と似ている。
だから。
自分自身の中にもあるその感情に向かって、カナが優しく語りかけようと思ったとき。
――……せ。
身体の底から湧き上がる様な、何重にも重なった恐ろしい声と共に、背中から広がった闇がカナの身体を飲み込んで。
――殺せ。
その闇から伸びてきたいくつもの手が、身体中に絡み付くように。
――殺せ。ファージを。殺してくれ。その醜い化物を。さあ、殺せよ! 魔法使い!!
『ありがとう。じゃあ――さよならだ』
そっと耳の中に流し込まれた溜息の様な声に抱かれた瞬間、身体中がびくりと硬直した。そしてそのまま、カナは頭の中の何かがすっと抜けて行くのを感じて。
『……カナ? カナ!! 駄目だ!』
今度は思いっきり殴られたような衝撃で目を覚ます。
広い、広くて暗い――海?
意識が戻った途端、思わず吸い込んだ空気が肺に詰まってゴホゴホと派手に咳き込んだ。激しい気泡になって一気に大事な酸素が逃げて行く。苦しい。苦しい。痛い。寂しい。なにこれ、さっきの夢の中にいるみたい。なんで? さっきまで、すごく温かい気持ちだったのに。
『くそ、カナが――』
頭の中で、自分じゃ無い自分が舌打ちをする。
少女にはその舌打ちが、自分自身に向けられたものに聞こえた。
まるで自分が、足手まといだと思われているような。
だったら、この手を離しちゃえば――
もう主体が誰かも区別の無い思考のイメージ。
カナの手を離して、その瞬間に敵を殺す。振り向く。海の中に呑まれて行く女の子の身体。
可愛そう。可愛そうなくらい、生まれた時から役立たずの女の子。
――あ、これいいですね。これでいきましょ。あの女の子はきっと気にしませんよ。いつでも。多分、死に方なんて。
体中に絡み付いた幾つもの手。海の底へと引きずり込もうとするその腕が、そこへ連れて行ってもらう事が、とても楽に思えて。
――駄目だ。
きっと全部を楽にしてくれる仲間達の手を振り払う、血に塗れたもう一本の腕。
拒否する隙も無く、ぎゅっと強く掴まれた感触。
手だけじゃ無く。身体を、心を、強く抱きしめられてるような。
――まだ、死なない。
自分が、自分に、生きろと言っているような。
大丈夫だって、直接伝えられているような。
まるで自分がその人にとって、とても大切な人間なんだと心の底まで思い込めるような。
自分と、誰かが、心の奥まで理解し合えたような。
そんな魔法が、強い誰かの存在が、あいまいだった有沢カナの意識にゆっくりと輪郭を与えていって。
――君は、死なせない。
意識が醒めるのか、それとも今まさに消えるのか。
生と死の間の夕暮れの様な赤い光の中で、少女はぼんやりとそれを感じていた。
目の前に現れた、たくさんの糸。少年の身体からありとあらゆる方向に縦横無尽に解き放たれた無数の黒い糸。視界を塗りつぶし、全てを飲み込む闇の様に爆発的に広がったそれが、全身全霊で吸収する。水に、空に、自分の周りに広がっているありとあらゆる情報を。生きているのかもわからない小さな生物や漂う魚、のんびりと飛び回る鳥、化物、人、記憶の中の言葉、表情、映像、音。
探っていく。無限の様に広がっていく巣に捉えた命を結んで。距離を。光を。数を。腕の中の少女の時間を。目の前の敵の命を。そうやって、自分自身が歩くべき道を彼は無理矢理に作り上げて。
カナの頭の中に見えたのは、空の青を反射する綺麗な海辺で、たった一人の友達の死体を抱えて泣いている銀色の髪の女の子。
包み隠さず伝わってくる彼の心象風景に、有沢カナは思わず笑ってしまった。
でも、それでいい。
だから、心から信頼できる。
こんな人、むかつくし気持ち悪いし大嫌いだけど。
でも。だから。
――力を、貸せ。
カナの事を消し飛ばしちゃうんじゃないかってくらいに強烈な意志。こっちの頭まで焼き切れちゃうほどの速度と量の思考思考思考。
伝わる。
一点の光すら見えない闇の中で、彼は何も諦めてはいなかった。諦めようともしていなかった。
真っ暗な世界の中で、どこかに光を求める事は無く、届くことの無い奇跡を祈る事も無く、むしろ自分自身の闇で薄暗い世界を塗り替えようとしているかのような。
海の中で拡散し、空の上へと上昇した彼の視点。ありとあらゆるモノを見つめる彼の視界が『彼女』の手を捉えるまで、多分言葉を一つ発する時間も必要なかった。
彼が見たのは、空の上に浮かぶ巨大で優しい魔力。
それと、その向うに並んだ冷たい艦隊。貴重な実験動物を手に入れようと言わんばかりに、魔力のこもった網を海中に広げた幾つもの船。
それを見た瞬間、真っ赤な怒りがバグンと辺りを震わせた。
――もう、二度と。死体すら、触らせない。
ほんの一瞬、ぞっとするほどの静寂。
直後、まるで終りを告げるベルの様に、カナの心臓がトクンと鳴った。
そして。
――大丈夫。大丈夫だよ。
背筋を凍らす程に冷たい声が、闇の中に響き渡った。
――大丈夫だ。僕が、君を助けるから。
今度は甘く、優しい声。己の神経を凍らせたまま、他者の心を暖めるための希望と勇気が囁かれる。
『だレ? ホんト?』
言葉にすればそうなるだろう、誰かの感情。
『ああ、大丈夫。僕は君を助けにここまで来たんだ』
応えるのは優しい声。なのにとても苦しくて、恐ろしく冷たい声。
『ほら、見てごらん。上の方、そう、あれだ。分かるだろ? あの凄い力が出てるところ。君は、あそこからやってきたんだ。あそこから間違ってここに来ちゃったんだよ』
カナの頭に漏れ聞こえてきたその会話は、決して声でもなければ言葉ですらなかった。それはきっと声よりも早く、言葉よりもずっと短く、確実に、共鳴のように伝わる人間と化物のコミュニケーション。
『ホんトうに?』
ああ、ほら、行こう、あそこへ。そう、そのまま、大丈夫だよ。
行かなきゃ。あそこへ。 ――――だめ。
そう。そうだ。あそこへ、あの光に飛び込めば、君は帰れる。君の大事な仲間の所へ。僕が、君を帰してあげよう。 ――だめだよ。
うん。ありがとう。ありがとう。 ――だめ!
純粋な感謝と、溢れ出る喜び。差し込んだ希望の光に縋るように海洋性が猛スピードで泳ぎだした。
目指すのは水面。その向うにぼんやりと感じる、大きな魔力。
水面を破る衝撃と共に、カナの身体に光と音が返ってくる。
突然に頬に触れた、切り裂く空気の冷たさと温かさ。
キラキラと月の灯りを反射する水の粒があちこちに飛び散っていて。
空の上だ、と気が付いた。
あの化け物が、飛び出したのだ。
物凄いスピードで、海の上へ。
真っ直ぐに、彼の言葉を信じて。
そこで待ち受ける、死に向かって。
目の前には、敵の身体と自分の身体を繋ぐ真っ黒な少年の濡れた髪。
片腕でカナの腰を抱いたまま、化物の外骨格に空いた隙間に突っ込んだもう片方の腕を無理矢理に引き抜こうともがいている彼の姿。
それから、眩しい位の光。猛スピードで上昇して行く先に見える、紫色の魔力の塊。
迷っているような、不安を感じているような、空中における殲滅戦で最強と謳われる彼女にしては弱弱しく、濁った魔力。
その向うに並んだ、重々しい船船船、たくさんの兵器を積んだ、兵器そのものの船の姿。
――デッドライン。
自分勝手に魔法使いを島に閉じ込めた人間達が、何もかもを忘れて『魔法使いなんて役に立たない』と騒ぎだすだろう、屈辱のライン。
ずりゅり、と血まみれになった少年の腕が抜けると同時、彼が敵の背中を蹴る気配。
「藤崎ッ!!」
瞬間、彼はその名を叫び。
『逃げろ! カナ!』
同時に響いた頭の中の声に従って、カナは飛んだ。
名前を呼ばれた途端に空の向こうで煌めいた一瞬の驚きと戸惑い。
直後、キュンッと笑顔がはじける様に中心へと向かって萎み、爆発的に膨れ上がり始めた魔力から。
そこへ向かって飛び込んでいく、帰れるんだと言う甘い甘い喜びから。
『もう、なにやってんのよ! ったくほんとにあたしがいなきゃだめなんだか……らっっ!!』
確かに聞こえたそんな笑顔満開の親友の声と、それを振り返りながら『はは。ごめんごめん頼んだよ』と照れくさそうに笑う少年。たった一瞬目を合わせただけで、魔法も何も無くても繋がった二人の信頼感。
それを感じた誰かを羨み憧れてばかりな女の子は、嘘吐きで最低な男の子の手を引きながら、唇を歪めて少し笑って。
ヒィイイイイイイインッ……
藤崎マドカの制御空間が軋む音が辺りに響く。
まだ、ダメ? この辺も? うっわ、さすがマドカさん。空気読めなすぎ。
速く。速く。どうしたって笑ってしまう顔の裏側。必死で。死にたくない一心で。もし今この瞬間に死ぬとしても、あれに殺されるわけにはいかないという二人分の思いを乗せて有沢カナは無我夢中で脱出する。
――っ。
繋いだ手の先で、痛みと心を噛み殺す気配がした。
足の向こうでドンッと空間が弾ける音。夜を揺らす様に鳴り響く、全てを破壊する轟音。
足の向こうから追いかけてくる滅茶苦茶な爆風に飲まれる寸前、有沢カナは不格好な水しぶきをぶちまけながらドバンと海面を突き破った。
途端に力が抜けた全身がゆっくりと沈み始め、ああこのまま海の底まで行けたらなあ、なんて考えた少女は防護服が備えた浮力と不器用ながら必死に泳ぐ男の腕力で海面へと浮上して行く。
海中に差し込む夜灯りと艦隊のライトが産み出した影のような『彼』を認識した途端、『あーあ、生き延びちゃった』と思うと同時に頭の中から誰かがすうっと消えて行ってしまうのが、ちょっとだけ寂しくてびっくりした。
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