第72話 出撃

 ぼんやりとした視界。人工島の端にぶつかる波の音も、作戦を組み立てる人の声も、雲間に覗く星すらも、全てが遠く思える夜。


 僕以外の全てが、ただ雑音として僕の中を通り抜ける。


 全部、僕のせいかもしれない。僕が悪いのかもしれない。

 僕さえいなければ、僕がもっとうまくやっていれば。もっと、たくさんの事を考えていれば。


 怖いと思った。誰かの事を知ることが。客観的な真実や、他人から見た自分を知ることが。それが出来てしまうという事が。


 湧き上がってくるいくつかの言葉、いくつかの意味、それらを理解しようとする心を止める。

 脳裏に浮かぶ病室の映像を。その健気な笑顔を。彼女が見ていた夢を。部屋を満たしたやりきれなさを。怯えきった子供達の目を。飛行機の中に転がった死体の山を。


 決して僕を責めたりはしなかった人達。彼等だって、本当は。本当の事を知ったら――。


 本土で過ごしたあの日々を。僕を糾弾したあの広告を。どうしてと絞り出した遺族の嗚咽を、それを映そうと必死なカメラを、異常値を記録した時の周囲のおかしな視線を研究機関の人達の温度の無い瞳を優しいバスの運転手さんを歓待してくれたルーガの族長を、子供を助けてくれてありがとうと言って泣いていた誰かの親の目に重ねて。


 怖かった。誰かに、あの人達に、あの子達に、チャムに、藤崎マドカに、嫌われることが。


「……有沢、出来るか? セイを連れて」

「私は問題ないですよ。でも正直、先輩が付いて来れるのかって感じですけどぉ」


 いつものように少しふざけたカナの声。

 

「セイ、大丈夫か」

「大丈夫です」


 頷く。振り向いた金色の髪の隊長に、柔らかな笑みで。


「……」


 隊長の横、じっと見つめてくる銀髪の視線。蜘蛛の巣に取り付けられた夜間照明の光を反射して、猫みたいに輝く灰色の瞳。


 大丈夫。僕は、何も問題は無い。


 全部、あの化物のせいなんだ。そもそも、あの化物どもがこの世に現れなければ良かったんだから。


「出来ます」


 化物を殺して、魔海を消して、世界を平和にして、君を家族の元へ帰すから。それでいい。それが正しい。それだけは、きっと正しい。


 ぼやけた世界に溶け込む様に頷いて、ゆっくりと海の先を見る。


 いらない、これ以上。もう、大切な人も、大切なモノも。何も、失いたくはない。僕のせいで、それが傷つくところなんて。死ぬところなんて。分かってる。何も言うな。僕のせいなんだ。だから。


 誰にも何も言わせない位、絶対的な結果を。


「……行こう、カナ」


 僕がやろう。君の代わりに。


 あの、人と化物の境界線で、僕が。何もかもを殺して。戦いたい奴と闘う事しか出来ない奴らを使って、意味の分からない化物と、倒すべき敵を必死で倒して。


 そうやって、いつかこの世界からファージの存在を消し去って。あの子達が見ていた夢を根本から消し去って。


 それで。僕は、初めてチャムに向き合える。たくさんファージを殺したいと言ったあの笑顔に、殺し合う事が格好いいと思い込んでいるあの子に。目が覚めた時に、新しい夢が見つけられるように。


 そして、彼女を。遥か遠いあの国に。僕が僕を騙して過ごしてきたあの日々に。人間の円の中に。


 そう。それはきっと、とても正しい。


 それだけ。その二つ。その二人だけ。

 それでもう、僕の両手は一杯だから。

 そのために、全力を尽くそう。

 例え、他の全てを犠牲にしても。

 僕が出来る事の全部を。

 考えて考えて考えて、実行しなくちゃいけない。

 この人工島の上では、あまりにも突然に人は死んで、いつの間にか未来は消えてしまうのだから。



「……先輩、ちゃんと作戦聞いてました?」


 踵を鳴らして隣に並び、いぶかしんでくるカナに笑いかけて。


「聞いてたよ。君と僕の境界線を消して、君の魔導被膜を僕に及ばせる。それで君が海洋性に追いついて、あとは僕が殺せばいい。うん、なにも問題無い。僕ならできる」


 問題無い。そう、簡単だ。余りにも簡単。僕達なら出来る。出来てしまう。誰だって、僕達の思い通りなんだから。やればいい。やらなくちゃいけない。今はまだ、この島の王様が決めた事を。今はただ、王が望む御首級みしるしを掲げる事で。

 進もう。やがて僕が座る玉座へと続くその階段を。

 僕の闘いの最前線を。


 自分の身体に、魔力が満ちて行くのが分かる。

 冷えて行く。僕と僕以外の全てが色と温度を失くし、無色の影になる。とても冷静で、落ち着いた感覚――王様の視点。


「それより、君はできる? 本当に海洋性に追いつけるんだよね?」

「余裕ですよ、余裕。だって有沢カナちゃんは、この世の誰よりも速いんでぇ」


 すました口ぶりのカナに笑う。

 出来るのならば、それでいい。その力があるのなら、最悪、僕がそれを使ってでも。


「藤崎」


 振り向いた僕に名前を呼ばれ、銀色の魔女の眉間に皺が寄る。


「……なに?」


 疑いに似た鋭い視線、心配や気遣いが一睨みで溢れ出す。


「僕を、連れて行ってほしい。海洋性の近くまで、出来るだけカナは温存したい」


 藤崎はそのままの瞳でしばらく僕の顔を見て、それから僕の言葉に賛同を示す周囲の反応を感じ取り。


「……わかったわよ。わかったけど、温存って。言っとくけど、カナはあんたの所有物じゃないんだからね?」


 溜息交じりにそういうと、司令官二人を振り返り。


「出撃します」


 と小さく呟いて、僕の手を取り、すうっと夜に浮かび上がり


「飛ばすわよ」


 声と同時、夜を切り裂く弾丸のように爆発的に加速した。


 暗い海と白い波と星の光。永遠に変わらない様な風景の中を、ただ真っ直ぐに突き抜ける。

 藤崎の張った薄紫の被膜の中で風は薄く、銀色の髪を揺らす程度に流れて行って。

 無言のまま、時折腕の器具に目をやって方角を確かめる彼女の視線が四回ほど空と左腕を往復した時。


「います!」


 ギュンっと真上に並んで来たカナの声で目を凝らす。すると視界の遠く、月の光を宿した水平線の上をパッパッと光っては散る閃光が、ゆっくりと移動して行くのが見えた。


 UFOみたいだな、とちょっと思っていると。


「行くわよ、セイ!」


 凛とした声を響かせて、身体の周りの魔力球を濃く染めた藤崎が更に低空を加速した。

 海水が、音を立ててしぶきに変わる。

 何かを吹っ切ろうとするかのような猛スピードで海面付近を突っ込んでくる存在に気が付くと、魔力をほとばしらせて海面下への突入を繰り返していた笘篠隊の動きが止まった。



「――やあ。待っていたよ、少年」


 仲間が水面を通る度に巻き上がる飛沫に濡れた女性たちの少し上、髪の先すら濡らすことなくニコニコと笑っていた第二小隊隊長が、腰に手を当てて僕に微笑みかけてきた。


「ウチラは足止めをしろって言われてるんだけど、結構苦労してるよ。なにしろ海の中だと魔力を維持するのだけで大変みたいでさ、予想通り、B型の子はほとんどダメージを与えられないみたいだね」


 移動する戦闘海域を並走していた小さな船の上。僕の存在などお構いなしに、浸水して機能が低下した防護服を脱ぎ捨て下着姿でタオルにくるまりヒーターに当たっている姉さん達を向こうに見ながら、肩を竦めた笘篠さんはニコニコ笑う。


「それでも依白ちゃん達が大分削ったからね。今は相当暴れてるみたいだよ。うん、きっとあの子もいじめられて怒ってるんだね。あってるかな?」


 くすくすと僕に向かって悪戯っぽく笑う、水の一滴も着いていない橙色の防護服に身を包んだ褐色の美女。

 僕は首を振って。


「潜って見なければ分かりませんね。それより、何か注意とかはありますか? 海洋性がどんな攻撃をしてくるとか」


 笘篠さんは目をぱちくり。それから二人で一つのタオルにくるまって愚痴をこぼしていた部下の元へと手を振りながら走って行って、二言三言言葉を交わし。


「今のとこ無いってさ! 強いて言えば体当たり位? でも、口が大きいから呑まれないようにコンタクトの方向は気を付けてるんだって!」


 小さな顔に両手を添えて叫んでくる呑気な女性に、苦笑する。

 それから僕は、目を合わせて肩を竦めていた第三小隊の少女達を振り返り。


「イケるかい、カナ?」

「問題ありませんけど? ていうかカナちゃんは、先輩が本当に出来るのかって言う方が心配なんですけどぉ。水圧でぺちゃんこになってもカナのせいじゃないですから」


 突き放した様な有沢カナの言い草に僕は軽く笑いながら、カンテラ付きのグラブを外す。


「大丈夫。君が出来るなら、僕にも出来るよ、問題無く」


 他人と自分を同期させる事。チャムが僕にやったのと同じように。それは多分、やり方を把握した今の僕にとって、とても簡単だ。問答無用で他人を捻じ伏せるよりもずっと、労力も罪悪感も不安も少ないだろう。


 じっと、カナが僕の目を見る。少しの恐怖と疑い、それと――願望に近い信頼。


「……分かりました。じゃ、お好きにどうぞ」


 そっぽを向いた横顔に頷いて、ぽいっとやけ気味に投げ出された右手を握った。


 ――瞬間。


「お、おぉ? おやおやこれは? 少年はカナちゃんと? ということは、マドカちゃんはあたしのものなのかな?」

「違います!」


 ピューンと飛んできて抱き着いてくる上官を藤崎がひらりと叩き落とす。それを頭の隅で感じながら一瞬固まっていた僕に、カナがちらりと瞳を動かして。


「……どうかしましたか?」

「……ああ、いや。集中してたんだ」


 首を振って笑いながら、僕は繋いだ掌に当たるいくつものタコの感触を確かめる。

 いったいどれだけ強く銃を握ったら、どれだけ長く握り続けたら、こんな風に。


「……ふぅん。ていうか、マドカさんの手と比べてたんじゃないですかぁ? 気持わっるぅ」


 正直な顔と感想に苦笑する。確かに、藤崎の腕にあった傷と同じくらいに、一般的な本土の女の子には似つかわしく無いモノだけど。


 ――余計な感情だ。

 笑った僕は、静かに、ゆっくりと、カナの中へと僕の意識を侵入させていき。


「……悪いね」


 僕が言った約束なのに。

 自嘲気味に呟いた僕に、カナはそっぽを向いて目を閉じたまま。


「別に良いですよ。嘘吐き狼さんはきっといつかカナを食べちゃうんだって、カナちゃん思った通りですしぃ――」

「ごめん」


 形だけ謝った僕を、彼女はちらりと流し見て。


「別に。先輩の事、大嫌いですけど。思ったよりは嫌じゃないですし」


 かすかに笑った様に見える眉間のしわ。僕はそっと、カナの頭の奥へ。



 有沢カナの中は、万華鏡のようにきらめいていた。たくさんの意識や意志が幾つもの色と光になって、更にその光を無数の鏡が反射している様なイメージ。とても綺麗だと思った。


 彼女は少し震えていた。興味無さそうに、どうでも良さそうに振る舞おうとする裏側で、本能的に。あるいは、とても深く考えた上で。誰かに自分の意識を渡す。暴力的に捻じ伏せた襲撃者や蟲とは違って、彼女はすでにその恐怖を知っているから。それについて、考える時間があったから。

 それでも、彼女は僕を受け入れてくれる。こういう僕の存在を、認めてくれている。

 暴力の甘美さとは違う喜びが頭の中に湧いた瞬間、カナの中に幾つもの夜が見えた。


 近く、遠く、さざ波のように揺れては押し寄せる感情。服や髪が風にこすれる度に、耳の奥に声がする。有沢の娘。有沢の孫。最初は無邪気な喜び。

 やがて他人がそれを理由に彼女を期待と憶測で縛り始めると、それは押しつぶされる様な重圧に変わり、無数の声が聞こえ始めた。


 だからだからだから。だからきっと才能がある。だからだめだ。優秀な魔法使いになれる。C型では無い。父親と同じ、タダのクズだ。有沢の娘はいつか祖父を裏切るだろう。


 イヤ。ドウシテ。イヤ。ダレ?

 イカナクチャ。

 ハヤク。ハヤク。ダレヨリモ、ナニヨリモハヤク。ダレニモツカマラナイヨウニ。


 それでも逃げられなかった蜘蛛の巣の上、自分が自分であると言うだけで肯定され、否定される毎日。


 父の声。元帥の声。他人の声。幻と現実の間を揺蕩う様な声が夜を覆っていく。


 一人でいると、自分が自分でなくなるような。だから輸入した雑誌を見て、お気に入りの服を選び、自分はこれが好きだと決めた。自分はこういう喋り方で、自分はこういう考え方で、自分の大切な人はこの人だって。閉じ込めた自分の外側にもう一人の自分を作り上げ、皮膚の上に、それを重ねて。


 大切な人は、藤崎マドカ。キラキラした太陽みたいな人。優しくて、自由で、一人ぼっちで、何にも負けない強い人。


 イイナイイナ。スゴイナ。アンナフウニナリタイナ。アンナフウニナリタカッタ。

 アンナフウニ、ダレカヲタイセツニデキルヒトニ。アンナフウニ、私なんかをスキニナレタラ。

 ダカラダイスキ。アコガレチャウ。リユウリユウリユウ。

 ダカラ、アノヒトノタメニナラ、ワタシハ。


 だから、もういい。オダジマさんはキットまどかサンを傷つけたりはシナイカラ。

 ダカラ、モウイイヤ。モウ、コレデ、ラクニナレルナラ。

 想像シテいた最低ヨリハ、ズットマシ。

 生まれる場所も、シニカタモ。でも、せめてワタシニモ、それくらいはエラバセテ。


 ――ネェ、ソウデスヨネ、センパイ?


「っ」


 カナの腕を薄く包んでいた赤い魔力光が、一気に僕の体表面を覆い尽くした。

 突然流れ込んできた他人の力が僕の左の指先までを貫き、痺れさせ、びくりと跳ね上げる。

 痛み。痛み痛み。快楽に似た混じり合いの最後の最後、精神の最奥で出会った彼女の問いに戸惑った瞬間、神経から脳味噌に強烈な棘が突き刺さる。

 それまでとても従順でどこか他人事のように凪いでいた彼女の心が、突然に僕に縋りつくようにして、全霊で他者ぼくを拒んでいた。僕を壊そうと、怯えていた。


 僕は、大丈夫、大丈夫と何度も自分と相手に言い聞かせて。彼女が与えてくる痛みや恐怖ごとなだめるように強く強く抱き砕いて。


 やがて目の前に風景が戻り、二つの視界がゆっくりと頭の中で交差する。

 真っ暗な空に、二人見ていた月が重なり合い。


 ――よし。


 と思った瞬間、顔を上げたボクはボクに頷いて。


 タンッと、船を蹴って飛び上がった。


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