第70話 夕暮れよりも赤く

 『海洋性』。便宜的にそう名付けられたファージの借りが始まる直前、僕は一人チャムの病室を訪れた。


 個室が並ぶ最上階の奥から二番目。

 扉が開けっ放しになった殺風景な部屋のベッドで、彼女はぼんやりと夕暮れの窓を眺めていた。

 入口に立ち尽くしたままだんだんオレンジに染まっていく風景を見ていた僕を、やがてチャムの形をした影がするりと振り返って。


「たいちょ! えへへ……たいちょだ。ありがとございます、みんな生きてたよ」


 夕焼けを背中に浴びたまま恥ずかしそうに顔を撫でた彼女の笑顔に、僕は小さく首を振り。


「僕じゃないよ。藤崎とか、他の人が飛んでってくれたんだ」


 苦い笑顔を浮かべて見せると、小さな彼女はえへへと笑いながら。


「チャム、知ってる。たいちょが一番に来てくれたよ」


 僕は少し申し訳なさそうに笑いながら、いつか藤崎がそうしたようにベッドの脇のパイプ椅子に腰を下ろして。


「そうか。うん、そうだね」


 救難信号と優秀な救助隊と指導教官達による対処の前で、結局それは何の役にも立たなかったけれど。君が魔法を失う以外の何の結果ももたらさなかったわけだけれど。


「チャムのおかげだ。君が早く報せてくれたから、みんな生きてられたんだ」


 チャムはこくりと、小さな顎を頷かせて笑ってみせた。

 その可愛らしい仕草さえ、落ちて行く陽の影の中で力無くうなだれた様に見えてしまう。

 それ程、病室の空気は虚しさに満ちていた。目の前の明るい声と素直な笑顔が遠く遠くの部屋の隅っこに見えてしまうくらい、チャムの身体から溢れる色の無い感情が、誰もいない空っぽの部屋に充満していて。

 彼女は、まるで――。


「……チャム……」

「あのね!」


 言いかけた僕の言葉を遮るように、チャムの笑顔が炸裂した。


「私、いっぱい飛べるようになったよ! 依白センセに褒められたね! きっと最前線に出られるって言われたよ!」

「そうなんだ」


 笑って。そうする以外にどうしようも無く微笑みながら、えへへと照れるチャムの姿をした影の目をじっと見つめて。


「チャム」


 天井に向かって喋る彼女の横顔に。


「ムラヤマ、飛ぶの一番うまいね! 男の子なのに凄いって――」


「……チャム」


「あのねあのね、それからね――」

「チャム。」


 一生懸命に、たった数時間前の遠い昔の話を教えてくれる無温の影に向かって、静かに、何度も。話の種が尽き、言葉が途絶え、可愛らしい声がだんだんと小さくなるまで。その温かな響きの名前を、何度も何度も呼びかけ続けて。


「……それでね……チャムね……」

「チャム。……お医者さんは、何て言ってた?」


 俯いた褐色の頬にそっと尋ねかけ、返事を待つ。

 やがて彼女は、観念したように少し笑って。


「…………チャム、もう駄目って言ってた。もうずっと、最前線……ダメって。マホー、ダメって。チャム、もう、マホー使い違うて、チャム、ちゅーすー壊れたって、でも、きっとダイジョブね」


 頷く。笑いながらぽろぽろと涙がこぼれていく彼女の横で、『そうだね』と。顔を伏せて。


「……うそ。チャム、わかるね。チャム、もう違うね。たいちょと違うね。たいちょのことも、おいしゃさんも、みんな……みんな、もう違うね。前と違く見える。だから……チャム、もう、ルーガの皆、お金持ちに出来ないね?」


「……ごめん」


 それでようやく心が現実に追いついたかのように、心臓をぎゅっと握りしめられたように嗚咽をこぼし、たいちょちっとも悪くないねと引き攣った様な声で何度も何度も繰り返す少女に向かって。僕は。


「勉強しよう、チャム。今から一杯勉強して、偉くなればいい。ファージをたくさん殺せなくても、チャムなら、きっと良い司令官になれるよ」


 今までずっと考えていた割に、そんな詰まらない台詞を投げかけて。


「……司令官、ムリ。チャム、ルーガ。……ダイガク、いけないね」


 ふるふると首を振った子供による予想済みの反論の一つ一つを、詰将棋の様に否定していく作業に従事した。


「大丈夫。チャムが大人になるまでには、そんな事を言う奴はいなくなってるよ」

「でも、チャム、今の学校も、クビなる。……マホー使い違うから」

「ならないよ」

「……なるよ」

「ならない」

「…………ホント?」


 ようやくこっちを向いてくれた少女の、すりきりいっぱいまで涙を溜めた瞳に。強く。


「うん。チャムは、なんにでもなれる。僕が、そうするからね」

「たいちょが?」


 チャムは困惑。泣きそうな眉毛をハの字にして、回らない頭で一生懸命に考えて。ただひたすらに、目の前の男への過剰なまでの信頼に縋るように。自分を壊してしまった原因だというのに。

 彼女の純粋さが与える痛みは、彼にとって免罪符の様だった。罰せられるのであればまだマシだとでも言う様な顔を一瞬だけして、少女が心からの信頼を寄せる男は至って真面目に頷いて見せた。


「うん。僕は元帥のお気に入りなんだ。さすがに最前線は危ないけど、司令官にならいつでもしてあげられる。誰にも邪魔はさせないよ。だから、あとはチャムの頑張り次第だ」


 チャムはぱちくり。涙が一粒だけシーツの上に零れ落ちた。


「……でも、やっぱりムリよ。元帥、ルーガ大嫌いね。おじいちゃん言ってた。チャム司令官、アンチバイラス入れないね」


 現実の前でしぼむ彼女の頭を撫でながら、僕は希望に似た言葉を与える。


「大丈夫。チャムが大人になる頃には、アンチバイラスの元帥は僕なんだ」


 瞬きをする彼女の大きな瞳には、戸惑いと疑いと喜びが入り混じって。

 その瞳の中で、ペテン師はそっと唇に指を立てて『内緒だよ』と人が悪そうに笑っていた。


「……でも、チャム、もう違うね。たいちょの役に立てない。役立たずよ。たいちょ、いつも『無能』、嫌いしてたから」


「……そうだね。でも大丈夫だよ。チャムは、好きだよ」

「ほんと?」


 チャムはしばらくじっと目の前の男を見つめて、それからこくりこくりと頷いた後、ぎゅっと鼻の横に皺を寄せ、天井を力強く睨みつけた。もう、涙がこぼれない様に。『チャム、べんきょ頑張る』と掠れた声で呟いた。


「約束だ」

「うん、約束」


 彼女の強さに安心した僕は、わざとらしい位の所作で立ち上がった。途端にちょっと悲しそうな顔で僕を見上げた彼女に、聞かなければいけない事を聞くために。


「よいしょ。チャム。あの時、船に何があったのか覚えてる?」


 するとチャムは、慌てて一生懸命に考えて。


「……んっと、私、中にいたから、良くわからない。たいちょに定時連絡しよとして、出来なくて困ってたね。そしたら急にピカッてなって、いきなりドンドンッて揺れたよ」

「ピカッて?」


 頷きながら、チャムはもっと深くへと頭を動かして。


「だからチャム、びっくりして外にいる子に同じした。サキだったよ。サキ、壁に頭ぶつけた」


 強く頷く。さすがチャムだ。


「サキちゃんか」


 肉体的にもっとも危ないと思われていた女の子。残念ながら、海上訓練の記憶自体があやふやになってしまっている少女。


「チャム。君は、サキちゃんと自分を一緒にしたんだよね? その時、サキちゃんは何か見なかったかい? 例えば――」


 ――例えば、機械の人形とか。


「――敵の、ファージの姿とか。どんな攻撃をしてきた奴だとか」


 顔を出しそうになった感情を喉元で殺しながら、頬を膨らませて考え込む少女を見つめる。たいちょの期待に応えようと、一生懸命に考えてくれているけなげなチャム。ちらちらとたいちょの顔を窺いながら、何を求められているのか探ろうとして、たいちょのお気に入りになろうとして、もう出来なくて。ちょっと悲しそうにまた考える。


 きっと僕が何かを言えば、それに合わせて記憶を歪めてしまいそうな必死っぷり。まるで僕のお気に入りである事が、自分の命の全てみたいな。


 大好きなたいちょと約束したから、彼女は一生懸命に頑張ってくれる。生きてくれる。笑ってくれる。そうすれば、いつかきっとまた違う夢を見つけられる。ファージを殺すなんてのよりも、ずっと素敵な未来を。化物との殺し合いなんてものよりもずっと素敵で、こんな僕よりも、遥かに君に相応しいはずの未来。

 

 誰かの中の自分であろうとし続けていびつな形に育ってしまったジャガイモみたいな僕よりも。

 それを、僕に教えてくれたこの子は。


「たいちょ、ごめんなさい。思い出せないよ。ピカってなって、ドンッてなって、リンクして……サキ、倒れてて、またドンッて――」


「……また?」


 二発?


 ピタリと言葉を止めたチャムは、まるで自分の口から出ようとしている言葉に自分で驚いたような顔をして、それからすぐにその単語を口にした。


「…………撃たれた……? うん。たいちょ、撃たれた! サキ、撃たれた見てるよ!」

「……撃たれた?」


 トクン、と心臓が冷たい血を吐き出した。

 するとチャムは、僕の様子を探るように頷いて。


「……うん、そう。そう。なんか、空から光るのがピッて来たよ。たいちょも、気を付ける」


 じっと顔を見つめる少女に、なんとか『ありがとう』と呟いて。


「……たいちょ、怒ってる?」


 悲しげな顔をする彼女に、笑いながら首を振り。


「怒ってないよ。ただ、それはヤバいなって思ったんだ」


 甘かった。きっと、何かの事故だと思ってた。だって彼らは、船の場所さえ分からずに飛び出した僕らに向かって、その場所を報せようとしてくれていたから。彼女達が助かる事を望んでいたから。


「……じゃあ、またねチャム。僕はこれからそいつをやっつけに行かなくちゃだから」


 きっと秘密の訓練中か何かに、間違って接触したとかだろうと。

 それが、ドンドンって? 空から、二回も、撃たれたって?


「ん……たいちょ――がんばるね」


 とても強くて優しい声に背中を向けたまま、僕は黙って歩き出した。背中に追いすがる寂しさと夕焼けに伸びた小さく手を振る影を後ろ手に扉で遮断して、誰にも顔を見られない様に気を付けながら足早に。


 知っているのか、上の連中は? 誰が、どれくらいの事を知っていて、それを隠すことにした?


 誰が、どうして。チャムの未来を。その夢を。努力を。あの真っ直ぐな笑顔を――――何と引き換えにした?


 一体誰が、誰から何を貰えば、一人の少女の人生を、無かった事に出来るんだ?


 感情の理由が言葉と成ってドクドクと心臓を震わす度に、夕暮れよりもずっと暗い赤が頭の奥を染めて行くのを感じながら。


 僕は。

 自分の拳と爪先が戦場を求めて廊下に揺れる様を、じっと見下ろしていた。

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