第66話 玉座

 更衣室のすぐ隣のシャワールーム。内部扉からそこへ足を踏み入れた僕は、乾いた通路を歩いて真ん中辺りの仕切りを開いた。

 少し高めに温度を設定し、ボタンを押す。ドゥンと短く低い音がして十秒間の暖めタイム。その間に、画面の表示が3になるまで追加のボタンを押した。

 プシャッと吹き出す様に流れるお湯。それを頭からかぶり、冷えた身体を温める。

 雨に濡れて芯まで冷えた身体を。

 グロテスクな虫の意識とほんの一瞬でも同化したその気持ち悪さを、頭の奥から洗い出す様に。

 

 まぶたを閉じる。光も無く、水の音だけが広がる世界。後頭部から首を伝って背中へと流れて行く温かさで、心臓がやっと動き出した様な気さえした。トク、トク、トクと脈拍に伴う体温の上昇を感じながら、僕はじっと思い出す。

 少しへっぴり腰に空に向かって両手を突き出している飯島久遠。その背中で揺れる髪を。

 彼女は使える。あの魔法は、利用できる。B型の魔法使いを中心とする笘篠隊の攻撃すら全て防ぎ切ってみせたあのシールドは。

 

 ――どんな敵であれ、平等に無力に変えられる僕。これはとても便利で、強烈だ。自分で言ったとおり、条件次第で無敵に近い。

 ただ、一番の問題は、敵の数だ。いくら羽虫の命が軽いとは言え、一匹一匹殺していたんじゃ時間もかかるし、負担も大きい。生物の持つ根源的な『生きる』という意志は、きっとどんな生き物にも平等に存在しているから。

 

 差があるとしたら、種の差の部分。虫は遺伝子の乗り物に近く、獣にはそれなりの自我がある。

 空気の入った小さなプチプチを潰すか、岩を砕いてその中のガスを抜くかくらいの違いが。

 

 そう。個体の能力の差に関わらず命が平等である人間と同じ。同じ種類なら、どんなに強い相手だろうと、僕ならば。どれも平等な力で殺せるはずだから。

 

 笑う。

『命は平等』。子供の頃から教え込まれたお題目を、殺す側として考えているだなんて。

 

 でも、それが僕だ。小田島セイという存在なんだ。僕なら出来る。出来るから、やらなくちゃいけない。だって、お前はあの日――あの墜落する飛行機で。人間を喰らう蠢く虫の海の中で、一人だけ――。

 

 残り2分を表示した赤い数字から、天井へと顔を上げる。閉じた瞼の上を伝ったお湯が、思考を噛んだ唇に流れ込んだ。

 

 ……そう。だからお前は、いざとなったら雑魚に構うことなく、一番強く危険な敵を狙いに行くべきだ。戦場の真ん中を突っ切ってでも、いち早く。藤崎や笘篠さん達が、倒せる敵を倒している間に。できれば、近距離での一対一の状況が好ましい。

 

 だから、飯島久遠。敵味方問わず、降り注ぐ攻撃を遮断する能力。守る力。

 最高だ。

 あれはまるで、繰り広げられる殺し合いの真ん中に敷かれたレッドカーペット。

 

 僕は、ただその上を歩いて行けばいい。圧倒的な暴力を有する強大な敵の前まで、絶対的な王として。

 

 あの子は使える。僕が歩こうとしている道には、きっと彼女が必要になる。

 問題は、彼女の魔法がどれ位のものなのか。攻撃的C型である僕の糸は、内側から彼女のシールドを透過した。僕が行使する自由は、彼女が支配する共有圏では存在を持たないからだろうか。

 笘篠さんも、多分同じようなタイプなんだろう。彼女の言っていた事が全て本当ならば、あの人は。藤崎が言っていた様に共有圏の魔導力を零にするのではなく、直接対象の力を奪っているのだから。

 久遠はC型の魔法使いには、相性が悪いのかも知れない。そこは、僕が何とかするとして。

 もしも敵がB型なら、例えば藤崎クラスの一撃には耐えられるのか? しかもあいつなら、一撃じゃ無く連続して爆発を引き起こせるだろう。もしくは共有圏を制する彼女達は、久遠のシールドの内側を直接狙う事も可能かもしれない。確認と、検証が必要だ。

 

 もしも、僕が彼女をコントロールした場合、シールドの威力はどれくらい――

 

 ピッピッピ!

 

 残り三十秒を報せるシャワーのアラーム音が、打ち寄せる波のように大きくなっているのに気が付いた。

 同時、つむじの方まで上がってきていた狂熱が一気に冷え、水滴となって頭の奥にぽつりと垂れる。

 

 ――――何を、考えていたんだろう。僕は。まるで、この島の誰かと殺し合いをするかのような想定で。

 

 首を振る。髪の先から水が飛びちる。

 

 いや、でも、それはあり得る事なんだ。実際僕は襲撃を受けたし、これから先、そう言う相手と。あるいはこちらが先に打って出る状況も考えられる。第零小隊隊長として、元帥の命令だとか、もしくは僕自身の判断で。

 それに、もしもあいつらが藤崎を狙おうとした場合、僕はきっとそうするだろうし。

 あるいは、そう。チャムだって。そうだ。チャムは僕と同じなのだから、十分それはあり得るだろう。他に、例えば、アキコさんは? あのバスの運転手さんやその家族の人が、頭のおかしな連中に危害を加えられたりしたら。もしもあのOSPRの奴の頭の中に、そういう危険な計画が入っていたら。

 いや、それでも甘い。もっと。

 もしも。もっと僕に近い人が。顔も名前も知っている人が、僕を狙って――。

 

 目を閉じて、頷く様に呼吸する。

 その時、僕は闘わなくちゃいけない。まだ、そこで死ぬ訳にはいかないから。

 

 ……久遠は、それをどう思うだろうか。その時、その人の意志を断つ僕の盾を務めるあの少女は。

 僕を恐れた様な瞳、困った様に下がった眉尻。泣きそうな頬。

 攻撃能力が低くとも、仲間を守るために最前線――それも、最も危険な矢面に立とうとするその優しさ。誰かを守る事を願った盾の少女。

 そんな彼女が発した、『共喰いも、ですか?』という言葉。あの表情。あの感情。

 彼女は、そういう仕事を、そういう僕を、どう思うだろうか。

 

 まただ。またその問題にぶち当たる。

 彼女に裏切られるのが嫌ならば、拒絶されて困るなら、失う事が怖いなら。彼女を永久的に支配下に置いておくしかないという結論。

 この先どんなに彼女が僕を信頼してくれたとしても、許してくれたとしても、いつか裏切られるんじゃないか、嫌われるんじゃないかという一方的な恐怖心が彼女の言葉や態度から意味を奪い、きっと僕はずっと彼女の心を探り、疑って、それでも信じ切れずに、いつか。

 彼女や他の仲間達を、少しずつ。侵食する様に、嘘を吐くように、少しだけと思いながら。言い訳や責任転嫁で、自分の心に折り合いを付けて――。

 そうやって、いつか僕は、少しずつ『他人』を『僕』にしてしまうのだろう。

 好かれていたい、失いたくない、嫌いになりたくない、それが出来てしまう、僕の弱さで。

 

 想像するのは、全ての住人の動向を把握し、思考を知り、コントロールさえ出来る場所。

 蜘蛛が糸を張り巡らせた、小さな島。

『僕』しかいない国。『他人』が存在しなくなった世界。嫌な奴はいない、嫌な事件もない、気が滅入るくらい頭のおかしな奴も、心を乱す程大切な人も、笑い合える仲間も消えて。悲しみも悩みも怒りも嫉妬も不安も争いすら無くなり、何もかもが思い通りで、僕以外に誰も傷つくことは無い世界。

 あるいはそこは全てがどこか他人事で何もかもを鏡の内側から見ている様な、『僕』だけが存在しない場所かもしれない。


 いずれにしろそれはきっととても自由で、心から安心できる、静かな場所だ。

 

 だけど。だから。一度それを知ってしまえば。その玉座に心をゆだねてしまえば。きっと。もう。僕は。二度と。

 

 シャワーが停止すると同時、更衣室の中にざわざわと聞こえ始めた上田小隊の兄貴達の笑い声を壁の向こうに聞きながら、自分の身体を伝わって足元に広がっていくぬるい水の中に、彼等の隊長が発した『孤独の海』という言葉の端を垣間見ていた。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る