第59話 優しい歌が流れる夜に
ピアノと、多分バイオリン。あとは歌声。その編成で最初の三曲を歌い終えた彼女が照れくさそうにお喋りを始めると、招待席に座っていたマドカの隣で独り言のような呟きが聞こえた。
「良いものだね、このみクンの歌は。心に届くものがあるよ」
「……まあ、昔からですけど」
バンドの編成が変わる間、懸命に場を繋ぐ友達を見ながらマドカが素っ気なく答えると、上田慎之助は頷いて。
「はは。そうなのか。三年程指導教官を務めたというのに、まさか彼女にこんな才能があるとは気付かなかったな」
「海上訓練の時にも歌ってくれましたよ。みんな、凄くびっくりしてました」
軽く呆れながらちらりと隣を窺うと、彼はにこやかに微笑んで。
「おお、そうだったのか。残念だな。夜の船で今の歌を聞いたなら、さぞや感動的だったろう」
「そうですね。ちなみに教官はあの時も『まさか彼女にこんな才能があるとは気付かなかったよ』とおっしゃってましたけど?」
「はは、そうか。何年経っても同じ感性でいられるとは、喜ばしいな」
マドカはくすりと吹き出した。相変わらず少しずれた元指導教官の余裕っぷりが何だかちょっと懐かしくて。
「ところで、小田島伍長は? 来ていないのかね?」
隣の空席を見ながら無遠慮に聞いて来たおじさんを、マドカはじろりと睨みつけた。
「小田島セイは、今日は別の用事があるそうです」
なによこのピンクジャケット失礼おじさん、人の気も知らないで、と。
すると。
「ほう、成程。やはりそこは彼の席だったというわけか」
「……ぃ?」
含みのある笑い声に、耳がかあっと一気に熱くなる。同時にそんな自分に無性に腹が立ち。
「……別に、違うってば」
唇を尖らせて呟いた声は、しかしおっさんの耳には聞こえなかった様で。
「はは、罪な男だね、彼も。しかし、よりによって私の愛弟子の誘いを断るとはな。よし、今度私から厳しく言っておこう」
「や・め・て・下・さい」
ずいっと正面から睨み上げて、一音一音はっきりと。それから『ふんっ』とスカートを直しながら座り直して。
「本日小田島セイはルーガの友人に招待を受けて、そちらの視察に行っています。なので別に、断じて全然上田隊長の御想像の様な事は御座いません」
「……ルーガに? 友人? 一人でか?」
トーンの落ちた隊長の声を耳で聞き、マドカはまたこのおじさんが下らない事を言い出すんじゃないかと思って。
「……言っときますけど、相手は8歳の女の子ですから――――?」
言って、ちらりと振り向いた彼の眉間には深い皺が刻まれていた。
「……彼は、いつ頃戻るのかね?」
「……知りませんけど……でも夕飯をごちそうになるって言ってましたから、コンサートが終わる頃には巣に戻っているんじゃないでしょうか」
「そうか。うむ。もしも戻っていなかったら、すぐに私に連絡してくれ。あそこは君達の様な真っ当な人間が行くところでは無い」
ぴしゃりと言い切る様な少しこわばった彼の声に、マドカは何だか怒られた様な気になって首を竦める。
「……でも、セイの友達だし……」
ゆっくりと、上田慎之助は首を振り。
「彼は危険なんだ、少尉。何かがあってからではすでに遅い。そしてルーガは、なにをしでかすかわからない。奴らは常に『何か』を起こし得る集団だ」
「別に、セイは大丈夫――」
「少尉。私は以前、この目で彼の闘う所を見ているんだよ」
「でも、あの時のセイは、薬で――」
「違う。違うんだ、少尉。それ以前にも、私は『彼』を見ている。言っただろう、以前、彼が巣の中でルーガ出身の隊員と揉めていたと――」
元指導教官が発する深刻さにマドカは一瞬気圧されて、それでも、なにか言わなくちゃと一生懸命に言葉を探し。
「――あの時、彼は薬を使ってはいなかったはずだ。だが、あの時の小田島伍長の姿は……まるで――」
と、ふいに。
くるりん、と。
「ワーオッ!? 誰かと思ったら藤崎少尉――それに上田隊長さんも? 偶然ね! あはは、ごめんなさい。あたしの患者の名前が聞こえたものだから。あ、私はアンナ。アンナ・モアランド医務局員よ。小田島セイとは定期的にお医者さんごっこをする仲なの」
勢いよく前の席の赤毛が振り向いて、パチンと可愛らしいウインクをくれた。そして彼女は間髪入れずに、抱えていた巨大なポップコーンの縁で自分の隣の男を差して。
「で、こっちはOSPRのノーラン・ベルトラン職員よ」
「こりゃどーも。あんたが
言いたいことだけ投げつける様な赤毛のお喋りに次いで、ははっと甘い笑みを見せたラテン系長髪男の圧倒的失礼に、マドカは『はぁ?』と眉根を寄せて警戒モード。
「で――ああ残念、次の曲が始まっちゃうわ。じゃ、私とセイのお話はまた後でね。これ、良かったら食べてちょうだい」
タララン♪とギターの音色がホールに響いた途端、パチッとウインクをしてステージを向いてしまった眼鏡にそばかすの医務局員の赤いくせ毛の後頭部と、隣で押し黙ったおじさんの乾いた頬を、マドカは暫く順番に見つめていた。
つい左手に受け取ってしまった一握りのポップコーンをどうしようかと思いながら。
込み上げてきた不安を包む様な、優しい歌が流れるホールの客席で。
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