第58話 独奏
停留所にとまる度に少しずつ減って行った乗客は、商業区の端に至る手前でとうとう誰もいなくなってしまった。
すっかり静かになったバスの前方から、運転手のおばちゃんがちらりと僕を振り返った。
「今日はどこで降りるんだい? 小田島さん」
その声で、ああと思い出した。初めて学校に行ったとき、あちこちを案内してくれたあの人だ。
「名前、覚えて頂けたんですね」
「あはは。いつかは間違えちゃって、ごめんなさいねぇ」
「いえ。いいんです。光栄です――今日は、ルーガに行こうと思って」
バックミラー越し、ハンドルを握ったおばちゃんと目が合う。
「ルーガに? また何かあったんですか?」
僕は柔らかく否定した。
「いえ。子供と仲良くなって、招待されたんです」
「へえ、子供と、小田島さんが。はは。あそこもすっかり馴染んできたわねぇ」
驚きと微笑みを振りまきつつ、あまり前を見ないおばちゃんはサイドブレーキをぎゅっと引いて。
「じゃあ、この辺で降りなさいな。その方が近いから」
自由な運転手さんに笑いながら頭を下げて、僕はゆっくりと降車する。運賃が無いっていう感覚にも随分慣れたなあと思いながら。
すると運転手さんは、いつかの様に僕の背に。
「その道を真っ直ぐ行きなさいな。ごちゃごちゃしてるけど、迷ったら左。間違っても右にいっちゃあ駄目ですよ」
念を押すような声。僕は無邪気な笑顔で彼女を振り返る。
「右は、何があるんですか?」
おばちゃんは少し眉をひそめた。
「同じルーガって言ってもね、ルーガにはルーガの秩序があるのさ。でも、右には何にもない。ルーガから離れようとして結局駄目だった奴らの溜まり場で、あるとしたら絶望だけ。人間、そうなっちまうのが一番危ないんだよね」
僕は何度か瞬きして、それから感心したように頷いて。
「なんだか詩人なんですね」
返って来たのは、『あはは』という甲高い笑い声。
「まあねぇ。本土にいた頃は国語の先生に成りたかったんだよ、おばちゃんは」
運転手さんの笑顔には、ほんの少しの寂しさが見えた。
それでも。
「でも、今はこれで満足。英語の本も読めるようになったしね」
そう言ってまた笑った彼女の言葉にも、嘘は無いように思えて。
「あの。良かったらお名前を――」
「あら? あはは。いやだわ、若い隊員さんにナンパされちゃった。ふふふ。アキコよ、アキコ」
おばちゃんギャグに面食らった僕は、慌てて愛想笑いを浮かべつつ。
「では、また。アキコさん」
「ええ。またね。飛ぶのに飽きたら、いつでも乗りに来て下さいな」
プシュッと扉を閉めて発車したバスを会釈で送り、僕は今朝の雨に濡れたままの白く暗い路地へと踏み出した。
一つ、二つ。角を通り過ぎる度に白がくすんでいく路地を真っ直ぐに。人通りは遥かに少なく、道行く人の服装が変わり、怪しげな本や何だか分からない機械のパーツを並べる店が目立つようになってきた。やがて店の造りさえも変わった辺り、生臭い匂いのする軒先で煙草をふかしていたおじさんに声を掛けられた。
日本語で、『おい。何しに来たんだ?』と。
「チャムに呼ばれて来ました」
無害な笑みで告げると、おじさんは首を傾げて。
「チャム? チャムはさっき誰かを迎えに行ったけど、会わなかったか?」
少し心配そうに道の先を眺めた彼に、僕はやってしまったと頭を掻いて。
「ああ、すみません。運転手さんがバス停の手前で降ろしてくれたんです。他に誰も乗っていなかったんで」
「ああ。そうか。じゃ、ちょっと待ってろ。呼んでみる」
笑ったおじさんは、バス停とは真逆のルーガの方へとのんびりと入って行った。
少しチャムを心配してそわそわしていると、やがて。路地の左と正面から、タタタと走って来るチャムと、杖を突いた老人達が現れた。
「たいちょ。ひどい。チャム、もてあそばれた」
おませな事を言って可愛く頬を膨らませたチャムと、オサのおじいさんに連れられた低い屋根の大きな家で、僕は歓待を受けた。
紅茶と濃い味の料理。どうやらチャムも住人らしいその家で、僕達は色々な話をした。ルーガには配給が少ないから漁をやると言う話。幾人かアンチバイラスに入ったが、何かと理由を付けてクビになる者が多いとか。
世代が進むにつれて少しずつ垣根が低くなったものの、交流が出来たおかげで良い事も悪いこともお互いに噂になる為、潜在的な隔たりは広がっているのかもしれないとか。
だから、チャムと僕が仲良くしているのは良いことだとか。チャムがいかに可愛いかとか。彼女はルーガの未来だとか。
そうやってお酒を飲んで少し饒舌になったオサから、為になる話や興味深い教えなどを聞いている内に、さすがにうとうとしてきたチャムが部屋から消えるのを見送ると、彼は真剣な目で僕を見つめて本題を切り出した。
「オダジマ。チャムは今度、海の実習に行く。次の活性期終ると、船で5日、海の上で飛行訓練をするらしい。とても楽しみにしている。オダジマのおかげだと」
じっと僕の目を見つめた彼は、謙遜を挟もうとした僕を真っ直ぐに突き出した手の平で遮って。
「おまえのおかげだ。みんな知ってる。だから、頼みがある」
「頼み、ですか」
彼は首肯。
「海の上、チャムに何かあった時、ルーガに助けにいける奴がいない。だから、チャムの力、オダジマに預ける。コンニェを疑ってるじゃ無い。でも、何があるか分からない。だからオダジマに助けに行ってほしい」
「……チャムの力を、預ける?」
あまり流暢とは言えない日本語にもすっかり慣れた僕だったけど、さすがにこういう感覚的なことだと理解するのに時間がかかった。
何度か質問をして僕が理解したのは――チャムには『誰かと自分を『同じ』にする力』があるという事。そして一度彼女が『マーキング』をした人間に対しては、ある程度離れていてもこの力が及ぶという事。
そして現在、このマーキングの対象はオサに設定してあるが、これを海上実習の間オダジマに預けたい。そして彼女が呼んだなら、すぐに助けに行ってほしいという事だった。
「分かりました、約束します」
僕がその申し出を快諾すると、彼は深く頷いて執拗に僕に酒を薦めてきた。だけど、多分本土の人間として藤崎がそうするのに倣ってそちらの申し出を丁重にお断りした僕は、一族総出のお見送りを受けて帰途についた。
時間は、商業区の消灯が近づき始めた頃。
藤崎の友達のコンサートも終わったろうか、とか。楽屋に行ったりしてるのかな、とか。
まだまだ灯りを付けたままでいる怪しい店もぽつりぽつりと途絶え、せっかくだから練習も兼ねて飛んで帰ろうかと、僕が夜空を見上げた時だった。
「っ!?」
一瞬目の奥がぶれる程のただならぬ感覚に、僕は反射的に辺りを見回した。
静かで温い海風が乱れる建物の間に。暴力の気配を押し殺すようにした呼吸が、
(……三つ……か)
唇だけ呟いて、僕はそのまま歩き出した。
出来るかな。
とっとっと。と心臓が早く動く音。踵が地面に当たる音。
糸を、慎重に。自分の周りに集め出す。
自分の中で、何かが。糸に触れる敵意に呼応するのが分かる。それがどんどんと僕の中で膨れて、全身を満たしていく感覚。冷たい血が、ぐるぐると。
誰だろう。『あの部屋』にいた上層部の誰かの手先、アンチバイラスに恨みを持つルーガの人間、あるいは東側の――まあ、いいか。
いずれにしろ、僕の事を。その存在すら否定したい誰か。
本当にこういうのってあるんだな、なんてまるで他人事みたいに笑った僕は、神経線が昂るのを堪え切れず小さな鼻歌まじりに歩き続け。
(……よし)
比較的狭い道の手前で足を止め。頭の奥で持ち上げた意識を細く細く裂き、こよりの様に、ドリルみたいに尖らせて。
薬を。いや。それじゃ意味が無い。
(……やれる)
傷つく事、傷つけること、いざとなったら無様に飛んで逃げる事。それらの覚悟を順番に決めて。
――上!
「っ!!」
必死で飛び退く。敵が動いた瞬間に。とにかく避ける。転がる様に。どんなに無様だろうと僕にはそれしかない。同時、無理矢理にでも振り向いて。
満天の星を背負いながら刹那の遅れで屋根の上から飛び降りて来た敵を。道に向かって振り下ろされた金属棒を。黒いマスクに覆われた頭を。その目を。敵意を。剥き出しの感情を。踏み出す足を。一瞬で加速し突進してくるしなやかな身体を。僕の肩口へと向けられた暴力を。殺意を。強引に。無理矢理に。ありったけの糸で、雨の様に貫いて。
――呑み込んで。
ヒュンっと、目の前で彼の腕が振り抜かれる風切音。
直後、マスクの男の歓声が響いた。
『よし! やったぞ!! 見てみろ! 俺の勝ちだ!』
ぞくりとするほどの寒気、頭の奥から湧いてきた重みと官能的な甘い感触を、ぎゅっと奥歯でこらえながら。僕は。
「…………捕まえ……た」
『ははは! どうしたんだよ!? お前達! 僕はやったぞ! ほらほら、隠れてないで見に来いってば!』
ゆっくりと存在を失くして行く黒服覆面男に万歳しながら叫ばせて、その口から漏れた日本語でも英語でもない語感を耳で聞く。
『あれ? 俺の言ってる事分かる!? 分かるのに分かんないや、なんだこれ! あははは!』
記憶も意識もその全てを支配して、気配や違和感すら消え去ったまま高笑いを繰り返す『僕』の横で立ち上がり、乾いた唇を舐めた僕はゆっくりといつもの笑顔にモーフィングして。
「さあ、これで2対2です。はは。急いだ方が良いですよ――」
次から次へと湧き上がる得も言われぬ昂揚感を堪え切れず、両手を真っ暗な街に広げ、心の底から歪んだ笑みを浮かべている自分が見える。
「『――早くしないと、4対0でゲームオーバーですからね』」
全く同じタイミングで同じポーズを決めた別々の身体から、二つの言語と笑い声。
光の当たらぬ路地裏に、冷たく、綺麗で、おぞましい
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