第56話 夕闇、一人、歩き出す

 夕方。帰りのバスに乗ったチャムに手を振った僕は、自室のソファに一人もたれかかった。


 さっきまで、あまりの物の無さに驚いたチャムがきょとんと佇んでいたソファ。


 額に手を当て、オレンジが終わり始めた窓を見ながら、チャムはすごいなと考えた。


『たいちょ、一人。さみしね』


 他人の感情が、その歪みが、僕の嘘が見えると言うのに、あんなにも純粋で、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳。真っ直ぐに、信じた道を歩く足取り。


『チャム。みんないるよ。ルーガのみんな。それから、訓練のみんなも』


 そう言って夕焼けの中で笑った顔が、その残像がこびり付いた両目をぎゅっと掌で覆い潰す。


『チャム、飛べるなった。誰も馬鹿にしない。たいちょのおかげ』


 僕も、生まれた時からそういう感じだったなら、ああなれたのかと。もしも僕が、この島で。研究所から外へ出て、魔法使いの中に、魔法使いとして生まれ。あんな風に、大切な宝物のように、家族や仲間に期待されて――。


 ……疲れた。すごく。朝から今まで、こんなに長い時間意識的に糸を張ったまま歩いたのは初めてだった。多分、それで多くの人のイメージを受け取りすぎたのだろう。アニーに貰った漸減剤を飲むべきなのかもしれない。……でも。この位でへばってちゃどうしようもない。鍛えないと。


 ぼんやりと考える。チャムは、どんな能力を持っているのだろうかと。


 僕と同じか、それ以上に他人の感情を受け取っている感じがする。なのに、これ程の倦怠感や頭痛に襲われた気配も無い。僕と違って、隠しているわけでもないだろうに。


 もしも。彼女が。僕以上の。

 僕以上の、ナニカであるのなら――。


 僕が彼女を操る事で、なにがしかの強力な――。

 あるいは、僕よりもずっとうまく――。

 僕の代わりに。


 そう考えて、あははと笑った。


 何をさせるつもりなんだよ。あんな小さな子に。馬鹿げた話だ。


 嘘だ。何を今更。そんな。あの子は、あんなに。あんなに一生懸命に……。――懸命に、ファージを殺したがっているじゃないか。戦いたがっているじゃないか。


 閉じた目の上、ぎゅっと掌を握りしめた。


 どっちにしろ、お前は。


 五年後、十年後。藤崎の代わりに、戦わせるんだろう、と。あの危険な戦場で、あの子達に命を懸けさせるんだろう、と。お前はそう決めたんだろうと。善人ぶるな。自分の大切な人しか守れないなら、心を閉ざすべきなんだと。闇に。だったら僕はもう、そうやって、人の優しさだとか、温もりだとか、そういうのから隠れて生きていくべきなんじゃないかって。


 たいちょ。と笑った笑顔が、胸に痛い。君は、知らないだけなんだ。あの綺麗な白い舞台は、本物の戦場からは程遠い。君がどんなに強くたって、敵がどんなに弱くたって。君は死に得るのだという現実を。ほんの少しの風向き、ほんの些細なミス、見知らぬ虫に負わされた小さな小さなかすり傷。それだけで、誰もが。誰かの大切な誰かが。どうして、皆。それをあんなに。あんな風に、当たり前の様に。キラキラした瞳で、『殺したい』だなんて。戦いたいだなんて。


 他にあるだろ。イチゴ屋さんとか、ケーキ屋さんとか、お嫁さんとか、総理大臣とか。

 それが、どうして。あんなに素直で、可愛い子供達が。


 ――なら、他に方法があるのかよ、と。この繰り返す殺し合いの日々で。他に、何を夢見ろと。今僕達が生きているこの島で、どんな奴が一番かっこよくて、一番偉いのはどこの誰なんだ、と。


 お前なら、もっとうまくやれるのかと。


「はは」


 もう、全部。どうでもいいんじゃないかとか。明日、楽しく皆と遊べばいいんだよ、とか。何が起きたって僕のせいじゃないんだしとか。僕には何も出来ないんだから、とか。おだてられて、その気になって、調子に乗って、何を張り切っちゃってるんだよ、とか。


「あはは」


 奥歯で己の何かをすり潰す様にぎりぎりと。まぶたに乗せた掌の向こうからニヤリと笑ってくる髭面の熊おじさんに向かって、何でもありませんよと微笑みながら。


 それでも、僕は、やらなくちゃいけない。

 僕が、やらなくちゃ。

 藤崎マドカを、死なせずに。

 できれば、彼女の大事な人も、誰も。傷つけず。

 藤崎が居なくなった後も、ずっと。

 彼女が幸せな夢の中にいられるように、彼女の大切な人達を。

 未来を。

 だから、僕は。選ばなくちゃいけないんだ。この島で。

 僕なら、出来る。から。

 日常は簡単にひっくり返り、別れは、余りにも突然に訪れるものだから。

 そしてその後も、誰かが生き続ける事になるのなら。

 全部は、無理だとしても。

 今、僕に出来る事をやらずに、笑って過ごすことは、もうできない。 

 だから。

 今は。

 僕の手足となる人間を。

 この島の王を守る、戦士達を。

 

 ゆっくりと開いた眼に、落ちて行く太陽の黄色と赤が眩しくて僕はそっと右手をかざした。透けた指の端で、血の色が、赤く。太陽に負けない位に燃えていた。

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