第38話 涙

 僕は、月を見ていた。

 四角く切り取られた枠の中で光の影を海に垂らし、丸に近い形の月が浮かんでいる。


 一体、どれくらい寝たのだろうか。


 ひどく喉が渇いていて、ベッドの脇の水を二本も飲んだ。というか、一本目は口をひたすらゆすぐのに消費した。とりあえず、しばらく肉は食いたくない。

 ここは病院だろうか? 確かに巣の中にこういう施設があってもおかしくはないだろう。

 体中が異様に重たかったから、適当なところに肘を付いて頭を支えて、とりわけ感覚の薄い右足を――その原因に違いない、僕の足を枕に眠る銀色の頭を眺めた。

 授業中に睡魔に襲われたかのように、彼女は制服のまま僕の膝の上辺りに突っ伏して寝入っている。柔らかい光に照らされて幻想的に輝く髪の毛と、それを乗せて小さく上下を繰り返す背中をみていると、なんだか気持が落ち着いていく様に思えた。


 月明かりって奴は本当に不思議だ。

 少しだけ。少しだけ触ってみようかと思い始める。

 僕のこの気持が、本物なのか。月光に抱かれた彼女の髪に触れたならきっと解ると言い訳をして。自分に言い聞かせて。恐る恐る、右手を伸ばす。


 そして、僕は触れた。

 シーツの上にこぼれていた美しい銀の糸髪に、触ってしまった。

 それだけでもう、胸がドキドキして頭が痛くなってくる。掌をすべるさらさらした触感が直接「心」という部分を刺激してくるような、危ない感覚。やめときゃよかった。自分がヤバイ薬を飲んで倒れていることを忘れていた。こめかみを流れる血の脈動に合わせてずきんずきんと頭が痛み、悪いことをして頭の輪を締め付けられる孫悟空の気分を味わった。


「うあ……いつつ……」


 洒落にならない痛みにうめき声を上げていると、急に膝の負担が軽くなる。


「ん……っ!!」


 体を起こし額に髪を張り付けたまま目を丸くした彼女に、僕は軽く右手を上げた。


「やあ、藤崎。元気?」


 藤崎マドカの広いおでこには、大きな包帯が巻かれている。

 それでも藤崎は顔のパーツ全部をくしゃくしゃにして。


「当たり前でしょ? どんだけ寝てると思ってんのよ、あんた?」


 泣き出しそうで、笑いだしそうで、怒りだした。


「ええと……そんなに寝てた?」

「寝すぎよ、寝すぎ! 二日近く寝てんのよ? だって、あんな……馬鹿……っ……無茶すんじゃないわよ……心配、したんだから……あぐぅ」


 瞬きするたびに涙をこぼしながら、藤崎は絞り出すように言葉をつなぐ。

 僕はいたたまれなくなって病室を見まわした。


「ええっと、他の人は?」

「……ぅぐすっ……何それ? あたしじゃ不満なわけ?」

「は? いや、そういうことじゃないって」


 むしろ、藤崎と二人ってのはちょっと……素敵すぎると言うか、何というか……


「カナなら今日は帰ったわよ。それとも亜矢子さんかしら? そういえばあの人はペタペタペタペタ寝てるあんたに触ってたわよ。よかったじゃない、看病して貰えて。なんだったら呼んできてあげるけど」


 ぷいっと、藤崎は部屋を出て行こうとする。


「ちょっ! 藤崎?」


 慌てた僕は彼女の手首を掴んでしまった。背中が痛え……。


「……何よ?」

「いや、ええと、その……できれば……もう少しだけ、二人で……なんて」


 ドキンドキンと胸が高鳴る。頭痛はすっかり消えていた。


「え……何? え? ……ちょ、やだ、何変な顔してんのよ? ……べ、別に……そんなつもりで言ったわけじゃ……ていうか、大体もう、時間が……えっと……まだ八時ね、うん。そ、そうね……じゃあ、ちょっとだけ……」


「あ、いや……そうだね、ちょっとだけ……」


 さっきまで座っていた椅子にちょこんと座った藤崎は、乱れた髪の毛に手櫛を入れて制服のスカートの裾を両手でぎゅっと握って俯いている。銀髪の下からのぞく頬が、真っ赤に染まっていた。それを見て僕の顔も熱くなる、さっきのはさすがに恥ずかしいセリフだった。


「……。」

「……。」

「……何よ? 何か喋ってよ」

「あ、うん。ええと……もう学校は始まったの?」


 ちらりと、一瞬だけ目があった。


「うん。普通なら活性期って一週間位は続くんだけど……今回は……すぐに閉じちゃったのよ、セイが倒れて、すぐ……」


 何か言いづらい事でもあるかの様に藤崎が口ごもる。


「……そうなんだ。何か、僕と関係があるのかな?」

「……ううん。いろいろ言われてるみたいだけど、そうじゃないとあたしは思ってる」


 ぐっと唇を噛んだ藤崎は、それ以上のことは言わなかった。


「わかったよ。もうその話は聞かない」

「うん。まだ何があるかわからないから、一応隊長達は巣に詰めてるけど……」

「そっか……」


 一瞬あった甘酸っぱい雰囲気が消えたのを感じた僕は、脱力してベッドに寝転がる。

 わずかな沈黙。

 見上げた月が、とても透き通っている。

 ふいに、藤崎の口から言葉が漏れた。


「……負けちゃった」

「え?」


「負けちゃったよ、私。カナも守れなかったし、セイも……」


 俯いた藤崎は、すりきり一杯まで溜まった感情を堪えるように声を絞る。


「……藤崎?」


「あたしね、ずっと、自分に言い聞かせてきたの。あたしは強い、あたしは最強だって。それこそ、自分に魔法をかけるみたいに。もう、二度と目の前で人が死ぬのは嫌だったから……なのに……何もできなくて……あはっ……とんだペテン師ね」


 僕はどうしたらいいのかわからないまま、俯く銀髪に向けた視線を空中でさまよわせる。


「ねえ、セイ? 教えて」

「え?」


 唐突に顔を上げた藤崎の眼は、少し濡れたように光っていた。


「何で、あんな薬なんか使ったの?」


 彼女の眼が放つ強い光が、僕の目を捉えて離さない。


「カナがね、教えてくれたの。あんたが魔力加速剤シュガーを持っていたって……それを、使ったんでしょ? あたし達に隠して、使ったんでしょ?」


 あれはシュガーって名前なのかと胸の中で笑いながら、怒りと悲しみの混じった彼女の言葉を、僕は肯定する。


「うん、そうだよ。悪い薬だってのはわかってたから、誰かにばれたら止められるんじゃないかと思って……隠してたんだ」

「そう……本当に……馬鹿ね」

「自覚してる」

「わかってない。今のは私の事を馬鹿だって言ったの」


 弱弱しく首を振った藤崎は灰色の瞳をわずかに滲ませて首を傾げ、僕の顔を見て少し笑った。


「だってそうでしょ? カナはあの、私達があんたの部屋に泊まりに行った時に、気づいてたって言ってたから。あたし、あの時、その……浮ついてて……あんたがおかしいと思ってたのに、何にもしなかったから……あたしが、ちゃんと気づいてたら……あたしが……負けちゃったから…」


 ああ、あの時か……カナは、やっぱりあの時気付いていたのか。あとでお礼を言わなきゃな。


「何で、そうなの? なんでそうなるの? ねえ? あたしのこと、馬鹿にしてるの? そうやって誰かが私の代わりに闘って、傷ついて、……死んじゃって。それであたしが平気だとでも思ってるの? そんなの全然意味無いじゃない、あたしが何のために戦ってると思ってるの? なのに……あんなやり方っ……、いらないの! 弱い奴は全員あたしの後ろにいればいいの、全部あたしが守るから、全部、あたしが何とかできるから! そうじゃなきゃ、私なんて意味ないの! だって、あたしは……藤崎マドカは……強い……から……なのに……なんで? ……ねえ、何で? 何であんたは、わざわざおかしな薬になんて手を出すの? わかってるの? あんたこのまま死ぬかも知れないって言われてたのよ? 一瞬だけ強くなって、あたしを助けて、それであんたが死んじゃって、あんたはそれで終わりだけど、そしたらあたしにどうしろって言うのよ? だって、そんなの……そんなの、馬鹿みたいじゃない――」


 痛い位僕の腿を握りしめる藤崎の手に真っ直ぐ激情が零れ落ちる。

 何で、か……


「お願いだから私を、その……す、好きだからとか、守りたいからなんて言わないでよね? 言っとくけどおかしな薬使う奴なんてお断りだから。そんなの、いらないんだから……今宮隊長がいるんだから! あたしが好きなのは、絶対……あの人だったんだから! いくら私なんかを助けてくれたって……絶対、絶対あんたみたいなネギジャガにチャンスなんてないんだから! 全っ然、無いの! あんたなんて、必要ないの! 徹頭徹尾いらないの! セイなんか……来なくて、良かったの。だって、私は、違うもん。私にそんな資格は無いの。だから、お願いだから……もう二度と薬なんて使わないで……セイはペテン師でいいんだから……死んだら、終わりなんだから……」


 僕は思わず笑ってしまった。

 要らない、ね。


 別に涙をごまかそうとしたわけじゃなく、僕は窓の外の月を見た。いくつもの星の中で、銀色に輝く月が一番綺麗だと僕は思う。ああやって、何度失敗を繰り返しても必死で丸くなろうともがき続ける月の姿が、僕は小さな頃から好きだった。

 あいつはどこにいたって、付いてきてくれる。どんな気分の時だって、見上げればいつだって何も言わずにそこにいる。

 父の来ない日の病室も、学校帰りに買った夕飯も、誰もいない病室も、閉じきった家の中も、空っぽの部屋と死の意味を与えられた島の上でも。

 あいつがあそこにいてくれれば、一人きりでも、耐えられた。

 月は、僕の味方だった。多分、今でも。


 少し、呼吸を整えて。


「でもさ……それでもやっぱり、藤崎は僕の周りで一番歳が近い女の子なんだ」

「え?」


 ずずーっと鼻をすすりながら、顔を上げた藤崎が間抜けな顔をする。

 あの藤崎マドカが、こんな顔で泣くなんて。

 笑いそうになるのをそっと堪えた。


「本当は、ずっと、藤崎マドカに、憧れてた」


 自由自在に空を飛んで、魔法を使って、あの恐ろしいファージと正面から闘う彼女の強さに。


「本土にいた頃はさ、彼女の映像を見るたびに、あの時僕がこの子だったら……って思ったことが何度もあった。でも、実際君に会って、君と喋って、戦うところを目の当たりにして、僕が藤崎になれないことを痛感した。藤崎マドカは……何て言うか、凄かったんだ。でも……だからって僕は、そうやって全部背負いこんで戦ってる君の後ろで、笑って生きていくのは嫌なんだ。君は確かに強いけど、気まぐれで、我儘で、生意気で、感情的で、傷だらけで、カナ以外の友達がいなくて……とっても甘い、そういう君を知ってるから。それを知れて、良かったと思えるから。だから僕は――生まれも育ちもダサい僕は、君を守れてよかったと思ってる。例え僕が君にとって何であれ、ずっと、僕にとって藤崎マドカは憧れで、一番歳の近い女の子だ。だから僕は、いつだって藤崎マドカの傍にいるし、いつだって君の味方なんだ。そのためなら、なんだってする」


 憧れたのは、押しつぶされそうな現実から逃げるための道具の中に、彼女の姿を見つけたその時から。

 鬱屈でしょうがなかった僕の現実を、問答無用でぶち破ってくれそうな圧倒的なその姿に、一瞬で、痺れてしまったのだ。

 あそこへ行きたい、あんな風になりたいと、強烈に願った。

 生きている意味が欲しかったから。彼女の様な誰もが認める特別な何かになりたかった。

 だけど、僕は。

 見かけ以上に生意気で、気まぐれで、我侭で、泣き虫で、優しくて、寂しくて、本当は甘い。

 そういう彼女に、出会ってしまった。


 この遥かなるフロンティアで


 出会って、そして――


 彼女の命の重さを知った。


「君は確かに、他の人とは違うと思う」


 そう、本当に、藤崎マドカは何もかもが違ったのだ。


 こんなことを言うなんて、もしかしたらまだ僕の頭はおかしいのかもしれない。頭を冷やすように首を振って、体に残った熱を吐き出す様に、僕は言葉を漏らしていた。


「藤崎マドカは、僕にとって、最高に特別な女の子だ」


 例え僕が何であっても。

 いつか、死んでしまうのだから。

 せめて生き方だけは選びたい。

 痺れっぱなしの右足をぐっと掴んだ。


「力に、なるよ。いつか、君がまた家族と暮らせるように」


 それは、優しい彼女が、帰る場所の無い僕の前では決して言わなかった本当の気持ち。

 気に入らない物をぶち壊すことを願ってしまった人間が、魔法使いになってから願い続け、諦めかけていた夢。

 藤崎はきょとんとして僕の顔を見つめていた。

 そして彼女は、拳でグシグシと涙を拭って、ベッドのシーツで鼻を拭いて、瞳までほんのりと赤くして。


「何なの? だから何でセイはそう……そんなの……もう……いい――」

「大丈夫、君なら出来る。君が生きてる間に、絶対に。嘘じゃない。僕はもう、そう信じた。嘘にはしない。だって、それにしたんだぜ、僕の『願い事』」


 格好つけて親指を立てた僕を見つめる藤崎の赤い瞳から、再び透明な涙が溢れ出る。

 優しくて、温かい、世界で最強の魔法の粒だ。


「っ……馬鹿じゃないの? 何が、『だぜ』よ!? 超ダサい……ホントに、ダサすぎて、全然、全く、何言ってるかわかんない。それに、そ、そんなこと言っといて他にもっと歳の近い子が来たら、そっちの子にもそうやって言うんでしょ? 絶対そう、そうに決まってるんだもん。それで、なんか………もう、わけわかんなくなっちゃうんだから。だいたいあんたは亜矢子さんにもカナにもデレデレしてるもん! ほら見なさいよ、やっぱりセイはペテン師だもん。そんなの、ぜんぜん信じられない。あたしは絶対信じないから」


 僕ははあっと溜息を吐く。


「僕は、九月九日で、十七歳だ」           ……なあ、藤崎。


 藤崎は月よりずっと真ん丸に目を見開いた。赤く染まった瞳の中に、僕が映って。


「え?」

「同じなんだ、誕生日」                気づいてたか?


 長い睫毛を高速でしばたいてから、もごもご動いていた唇を尖がらせた彼女は


「あっ、そう」                       きっと。


 椅子の上に持ち上げた膝を抱えて、顔を埋めた。


「知らなかったのかよ」            君の手の、柔らかさを。


「知るわけないでしょ? 大体、なんであんたは私の誕生日を……」


「まあね。一応、僕は君のファンだったから」  ガラスみたいな、横顔を。


 藤崎は、頬に当てた両膝の間でベロを出して思いっきり顔をしかめた。


「うえぇ…… 気持ち悪い奴」      知った気がした、あの夜に。


「たまたま覚えてただけだって」


「こっち見ないで、変態」           ――魔法が生まれた。


 膝で顔を隠した藤崎は、包帯を巻いたおでこをこつこつ自分の足にぶつけていた。溜息を吐いて窓の外を見た僕の耳に「ばか、ばか、ばか……」とつぶやく声が聞こえてくる。


 月は遠く、果てしなく、砕ける波と静かに踊る。

 星はいくつも転がっていて、空の闇を濃く染めていた。

 叶えてみたい。

 彼女の夢を。

 どんなに間違った生き方をしても。


 いつか、彼女よりも、強くなって。

 藤崎マドカが、安心して休める様に。

 最前線から帰れるように。

 彼女の為に死ぬのではなく。

 あの、化け物と人を分ける境界線から、人の輪の中へと帰れるように。

 彼女の願いの為に、最期まで生きてみようと。


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