第31話 同じ月。それぞれの明日
体落しを受けた背中をさすりながら辿り着いた部屋の前には、先客がいた。
「あ、小田島先輩。どこ行ってたんですかぁ? 待ってたんですよぉ」
高い位置でベルトを巻いた白いワンピース……というか、それってもしかしてネグリジェとかシミーズとかいう奴にベルトを巻いてるだけなんじゃ……。
僕の視線を釘付けにしたままパタパタと手を振り清楚な笑みを浮かべているのは、間違いなく有沢カナだ。おかしい、彼女は今ニンニク部屋にいるはずじゃ……。
「あのぅ、今夜カナちゃんを先輩のお部屋に泊めてもらえませんか?」
「ああ、構わない」
顎の下で手を組んで目を潤ませたカナに即答した瞬間、尾骨に鈍痛が走る。同時。
「エロ芋」
低く、短く、しかして強く。藤崎の声が裏切り者の背筋を持ち上げた。
「あれあれあれぇ? 先輩もしかして餃子食べましたぁ? 何だかちょっと漂ってますよぅ」
ギリギリギリっと僕の腰肉が摘みあげられる。
「いぅ! いや、うん……はは、ちょっとね」
餃子型のあんぱんだったけど。まさか藤崎さんみたいな綺麗な女の子がにんにく臭いわけがないじゃないし。痛臭いのは僕です、痛すいません臭くて痛裏切ってすいません痛ごめんなさいごめんなさいたいごめんなさいたいごめんないたい……
「痛い、ごめん藤崎、痛い」
ドアを開けた僕は、涙目で後ろのチビを振り返る。
「ふん。あんたね、ドアさえ開いちゃえば不要なのよ? わかる? 局長のとこでも行く?」
僕は必死で首を振る。もう否定をしたいのか目尻の涙を振り払っているのか分からない。だんだん痛みも和らいできたような気さえする。まずい、この感覚は本気でまずい。
「うふふっ。あれあれぇ? いたんですか、マドカさん? どうしたんですかぁ? ここは先輩のお部屋ですよぅ?」
「はっ! 何を勘違いしてるのかしらこの腐れフェロモン雌犬娘は? あたしは唯、上官としてしたっぱとの交流も大切だと思っただけよ」
藤崎は、手に持っていた大きな袋をグイッと突き出す。
「ふふふ、マドカさん知ってますぅ? フェロモンってぇ、匂いらしいですよ? に・お・い。果たしてどっちのフェロモンが腐っているんですかねぇ? にんにくフェロモンおチビさん?」
「なっ! ……どぅ! ……ぅぐぅぅ~っ」
「いいから、二人とも早く入ってくれないか」
どうやら決着の着いた様子の二人を狭い部屋に招き入れ、僕はシャワーを浴びに風呂へ入る。脱いだ服を適当に山の上に放り投げ、熱い湯を肩口から一気に浴びた。
今日は本当におかしな一日だった。
笘篠さん、霧島局長、あの酔っ払い、有沢カナに上田隊長。
誰も彼もが、それぞれの僕に向かって話しかけていた。
僕の中の、僕が、僕だと認めていない僕に向かって。
頭の上から前髪を伝い落ちるお湯のラインの先にいくつもの僕と彼らの顔を思い出していくと、最後に彼女の事が思い浮かんだ。
あの子と話すのは楽しい。あの子が笑うと嬉しい。苦しそうなのを見るのは、つらい。
頑張っている彼女の力になってみたい。
それは、紛れもない『僕』の気持ちで。誰かに与えられた物じゃあ無い。
だから、その気持ちの中にこそ、自分がある様な気がした。
例えどんな手を使っても、何があっても離したくはない『守るべきもの』。
果たして僕はそんな風に彼女を想っているのだろうか。想うことが、出来るのだろうか。
と、その時。耳を覆う水流の音の中に……パサリ……という異音が混じった。
―――!
「マドカさんは寝ちゃいました」
脱衣所から響いてきた落ち着いた声に心臓が早鐘を打つ。思わずシャワーを止めた僕の耳に聞こえるはかすかなる衣擦れの音。
……え? まさか? 違うよね?
しばし、時が止まったかのような、静寂。
「私、あんなに不安そうなマドカさんは初めて見ました」
スリガラスの向こう側で妖しく動く人影から、いつもと違う声。
カナは、ホントに何をしでかすか分からない奴だ。
「げ、減退期だっけ? やっぱりきついのか?」
うわ、声が上ずった……
「う~ん……もちろんそれもあるんでしょうけど、何ていうか……今までのマドカさんって少し危なっかしいっていうか、他人の命の方が自分より大切って感じなところがあって。少し思いつめてるって言うか……でも、多分、今回初めて、本気で死にたくないと思ってる感じなんです。『死ねない』でも『死ぬわけにはいかない』でもなくって、『死にたくない』……わかります?」
「あ、ああ、うん」
正直よく聞いてなかったけれど、僕は頷く。
「多分それって先輩のおかげだと思うんですよね」
「え? 僕が?」
「だって私、あんなに楽しそうなマドカさんも見た事ありませんでしたから。ふふっ、正直ちょっと驚いてるんですよぉ。それに今夜だってぇ、明日死ぬかもしれないって夜に……ねえ?」
くすりと笑った有沢カナは、そこでまた少し声を落とした。
「死にたくなくても、死ぬんですよね。私達は。いつか、絶対」
すりガラスの向こう、カナの影がしなやかに手を伸ばす。
「生まれる場所も死に方だって選べなくても、せめて生き方位は選びたいって……ありますよね、そういうの。…………ふふふ、例えばぁ、自分の事を大切に思ってくれる男の人と一夜を……なぁんて」
ガラス越しにも関わらず、彼女の声はまるで耳に吐息を掛ける様で。
「だから、ね、先輩。これはホンのお礼なんです。私の大事な大事な友達を助けてくれた、先輩に。女の私にできることってこれくらいしか思いつきませんから」
ま、待て! 女だと? 女のお礼だと? それってやっぱり……
「先輩、随分溜まってるみたいですしぃ……」
確かにあの飛行機以来、そういうことは――いやいやいや! 待て! 落ち着け、僕! くそっ、カナの笑い声がエロすぎる! 十万石だ!
「一応言っときますけど、マドカさんには……内緒ですよぅ?」
僕はごくりと唾を飲んでから、濡れた犬のように頭をぶん回してよこしまな考えを振り払う。
「い、いやカナさん、そういうのって良くないよ。ほら、せっかく良い物持ってるんだから、自分をもっと大切に」
なのに、こういう時に言うべき言葉の引き出しを必死になって引っ掻き回した結果がこれだ。
一瞬の間が、苦しい。
「…………先輩こそ、いいモノもってるじゃないですか」
「いや、べ、別にお前のためじゃないんだからなっ!」
ダメだ。僕のその引き出しにはおかしなものが詰まりすぎてる。
ガラスの向こうで『わかってますよ』とカナは冷たく笑い。
「ふふっ。先輩、洗濯物溜まってますよぉ? あはっ、女の私が洗ってあげますねぇ」
いつも通りのどこか間が抜けた明るい声を追いかけて、ピッピッと洗濯機のボタンを操作する音。
「うふふっ、いい洗濯機もってますね。ぷぷ……あ、マドカさんには内緒ですよぉ。カナちゃん、洗濯係にされるのは嫌ですからぁ」
………いや、わかってた、けどさ……。
「あ、でもぉ。そうなったら先輩にマドカさんの下着売ってあげましょうかぁ? うふふ、一枚につき一個だけ、カナちゃんのお願いをなんでも聞いてくれるならぁ――」
――瞬間、僕の体に電流が走った。
「ちょっと待て!」
胸ポケットに薬を入れっぱなしだ。まさか、あれごと放り込むつもりじゃ。
慌てて(全裸で)飛び出した僕 (のどこか)を見て、有沢カナは耳まで真っ赤に染め上げた。まるでピュアな乙女の様な彼女の反応に面食らった僕が瞬きを二つする間に脱衣所を飛び出していた少女の声が、扉の向こうから聞こえてきた。
「ご、ごごごご、ごめんなさい! ち、違うんですっ!」
苦笑しながら床に落ちていた薬のケースを見つめ、こぼれていた数粒を中に戻す。そのまま何食わぬ笑顔で脱衣所をでると、床の上にへたり込んでいたカナがビクリと身体を震わせた。
「ご、ごめんなさい。ホント、全然そんなつもりで来た訳じゃなくて……全然、まったく、先輩カナの好みじゃないですし……ただ、ちょっと……暇だからからかってみようかなって思っただけで……たまたま……たまた…まっ? あうう……お母様ごめんなさい、カナは汚されてしまいました……」
大人っぽいかと思えば、妙に子供っぽい。そんな有沢カナに、僕は苦笑い。
「いや、いいんだ。悪いのは急に飛び出した僕だから。できれば、その……今見た物は、忘れてくれると嬉しいんだけど……」
「ど、努力します……」
力の抜け切ったカナはふらふらと辿り着いたベッドに倒れこむと、無言でタオルケットを頭から被ってしまった。
……というか、こいつら二人で僕の部屋に来てしまったら臭いの方の問題は何も解決しないのではなかろうか。まあ、今は藤崎もそこまで臭わないし、いいのか。
そう思いながら、かすかに漂う匂いの元が寝ているソファーを覗き込む。小さなピンク色のサンダルを脱ぎ捨てた裸足の少女は、冬眠する小動物みたいに丸っこくうずくまり、穏やかな顔で眠っていた。
カナにさんざん弄ばれた純情が、胸の中でくすぶる。
月明かりにぼんやりと照らしだされた寝顔をじっと見つめて、僕はその頬に掛かる糸の様に細い髪を払おうとそっと手を伸ばした。
起きたら絶対怒られると思いつつも、何故か少し起きて欲しいようなそういう気持ちがないでもない。
ドキドキと、胸が高鳴る。
とんがった鼻、白い頬、長い睫、いつもより優しい表情、呼吸をする度に膨れる身体。少し湿り気を帯びてうねりの弱くなった銀髪、細い首筋、華奢な肩、寝乱れたカーディガンから僅かに覗く締まった二の腕。
「……」
そうして僕は、その傷に初めて気がついた。
どうして今まで気が付かなかったのかというくらいに大きな傷が、左の肩から二の腕までを流れるように走り抜け、柔らかそうな白い肌を変質させていることに。
圧倒的に強くても、絶対的ではない彼女。
いつ妨げられるとも知れない、束の間の戦士の休息。
ならば僕は、戦士でもなく餌にもなりきれない僕にできることは、藤崎マドカの邪魔をしないように、そっと、その小さな身体に布をかけて、ソファーの脇に寄りかかって腰をおろし、彼女がくれた餃子あんぱんの残りを口にすることくらい。
ふと、脇にあった藤崎が持って来た紙袋の中を覗くと、昔流行った薄型のゲーム機と、僕も良くやった本土の土地を買っていくボードゲームのソフトとコントローラーが二つ。
……ごめん、藤崎。次はテレビを用意しておくよ。
僕が横浜を買った時の藤崎のリアクションを想像し、窓から差し込む冷たい月の光に『うらやましいだろ』と呟いて、背後の寝息に合わせて甘いパンを咀嚼している内に僕もいつの間にか眠っていた。
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