第23話 萌芽
「……セイ……お前…………いや、お疲れさん」
回収船が出航していくモニターを見つめたまま僕に向かってねぎらいの言葉を掛けた隊長が、壁の時計に目をやった。十一時を少し過ぎた辺り。指示を続けているユイさんの声を聞きながら、張り出した窓枠に手をついた僕も思考の波に沈んでいく。
やっぱり、藤崎は、僕が思っていたほど絶対的じゃない。
今だって、少しでもカナがしくじっていれば――。
……いや、そういう問題じゃなく。
共有圏で自由を振るうB型である彼女は、その圧倒的な殲滅力とは裏腹に、
藤崎マドカに必要なのは、中距離を主戦場とするカナじゃない。
誰かが、藤崎の前でファージの攻撃を食い止めないと。
だけど、あの強力な爆撃じゃ下手な味方は邪魔になるだけだ。
誰かが。
……誰が?
――お前なら、上手くやれるのか?
ふいに、いつかの隊長の言葉が頭に響く。僕は静かに頭を振って隊長の顔を盗み見た。僕より遥かに頭がよくて、この島のことや藤崎マドカの事も理解しているはずの男の顔を。じっと目を閉じたままの隊長は、やがて僕と同じように頭を振って、真剣な目をしたまま指令室を後にした。世田谷副隊長も心配そうにその後を追っていく。ヒュインという扉の音をこめかみに聞きながら、僕は呆然と東の果てを見つめていた。
隊長が言った『いざという時』は、いつかではなく、今ここに。この瞬間の裏側にあるのだと、そう気が付いた。
やがて、司令室に一人取り残された僕はふらふらと詰所の前を素通りし、一階へと下りた。廊下や階段ですれ違う人達は、緊張の残り香を纏った急ぎ足でどこかへと向かっていく。僕には理解の及ばない専門用語を交わしながら、それぞれの目的と仕事を持ってスタスタと歩いて行く彼ら。擦り切れた靴、防水加工、スニーカー、流れていく様々な靴に視線を落としたまま、壁の隙間に逃げ込む様に共同男子トイレに足を向けた。別段もよおした訳でも無く、フリだけするには防護服は脱ぎにくかった。トイレに来てまでやることの無い僕は、中学や高校といった記憶の中のそれよりも随分と清潔で機械的な手洗い場のセンサーに手をかざし、良く冷えた水にいたずらに手を浸した。
カンテラ付きのグラブを口に咥えたまま、備え付けの液体石鹸を手のひらに薄く伸ばした。左の親指で右の手相をなぞる。運命線ってのはどれだっけ。
ぐっと手を握ってみると、センサーが反応して蛇口から水がこぼれだす。
指の間から排水溝へと流れ込む液体を、手をすすぐ事も無くじっと見つめて。
「……くそっ!」
思いっきり叩いた鏡に、やたらと青い顔が映った。
……何してんだよ、お前は。
首を振って、冷たい水で顔を洗う。しばらくそのまま気が済むまでこすった顔を上げると、目の前、鏡の脇にデカデカと貼られた『節水! 水は命と思い知れ!』の文字が胸に痛かった。
戻ろう。戻らなくちゃいけない。このままここにいても、どこに行っても、何も変わらないのだから。
せめて少しでも、あの子の力に。
そうだ、藤崎にジュースでも買っていこう。あいつはブルーベリーのヨーグルトが好きだから。
僕に出来る事なんて、きっとそれくらいだから。
そう思って洗面台を離れた僕を、鏡の中の誰かが笑った気がした。
その時。
「はっ、これはこれは、噂の後継者殿じゃねえか」
薄暗いトイレの入り口を塞いだのは、いかにも不良やってますといった髪形のアジア系の若者だった。少し酔っているのだろうか、褐色の肌にほんのり朱が差している。
「んだよ、ぼうっとしやがって、伍長殿は俺なんかと口もきかねえであられますってか?」
嫌な感じだ。呂律も怪しいし、これが絡み酒ってやつか。
「……いえ、すみません。少し考え事をしていたもので」
というか、突然知らない人に話しかけられたら誰だって戸惑うだろう。ましてやそれが悪意のある酔っ払いならなおさらだ。
脇を通り抜けようとした僕の肩を、男の太い腕が絡め取る。そうして顔にかかった息の酒臭さにしかめ面を見せた僕を、彼は睨みつけてきた。
「あん? なんだよ? 朝から酒飲んじゃ悪いってのか? こっちは夜警明けなんだよ。文句があるなら、お前んとこのお姫様にでも言うんだな」
そう言って、男は僕の肩を突き飛ばした。スカイブルーのタイルの上でたたらを踏んだ僕は、さすがにむっとして睨み返す。
その行為が、この場を素早く立ち去るのに効果的ではない事は分かっているけれど。
「はっ、良い面じゃねえか。俺とやろうってのか?」
案の定神経を逆なでされた不良青年が、ニヤリと笑って前へ出る。
「なあ小田島クンよ、いいのか? 頼りのマドカ様も減退期がきつくって助けに来ちゃくれねえんじゃねえのかよ? それとも、てめえに何かできるってのか?」
黙ったまま睨みつける僕の視線に下卑た笑いを浮かべた男は、手にした細い瓶を一息に煽った。
「……ちっ、ふざけやがって。何が第ゼロラインだ」
そうして彼は、ウベッと汚らしいゲップと共に心の内側を吐き捨てる。
「……あいつが来なけりゃ、それで良かったんだよ」
そう言った男が、ふらり、と僕に近づいてくる。本能が、相手の敵意と僕の危険を全力で告げる。
「どけよ、偽物。俺はションベンしに来たんだよ」
――それでも。
藤崎マドカが、どんな気持ちでここに来たのかも知らないくせに。どんな決意で戦っているのかも知らないくせに。
「……あいつが、一体誰のために戦ってると思ってるんですか?」
敵意を剥き出しにした僕の声に、男はどす黒い笑みを浮かべた。好戦的な、挑発の笑み。獲物を見つけた、強者の牙。反吐が出る程、大嫌いだ。
「ははっ! 『誰のため』だぁ? あいつがファージを殺したところで俺に金が入るわけじゃねえだろうが! ったく、本土出の奴はこれだからよ。何が『誰のために戦ってる』だ、一体誰がんなことを頼んだって言うんだよ? ふざけんじゃねえぞ! こっちは命を金に換えに来てんだよ! それが……くそっ! 納得いかねえ! 何で俺より弱え余所者が特殊部隊で、こっちが外れなきゃなんねえんだよっ!?」
ドゴン! と派手な音をたてて、彼が振るった拳がタイル張りの壁をへこませる。それがまるでスローモーションに見える位、僕は心冷ややかにその行為を眺めていた。
壁が崩れた激しい音で、外の人達が異変に気づいてトイレの中を覗き込む。しかしどうやら酔っ払いはギャラリーの視線で一層気分が昂った様で、そのぎらついた瞳から、荒々しく息を吐きだす唇から、首から肩から腕から全身から。
力があるのに戦えない空しさと怒りと妬みが、力のない僕にぶつけられ――。
「……っ?」
――瞬間、僕はそれまでにない感覚に撃ち抜かれた。
目に映る風景の裏側で、相手の感情がくにゃりとほどけ、それが無数の糸の様に細く細く引き裂かれ、意識の奥でゆっくりと首をもたげた鈍色の蛇と結びつき――。
「……ふざけないでください」
キシリ、と。彼の心を捉えた感覚。掴んだ感触。彼と僕の弱い部分が混じりあって。
「あぁ?」
僕は、彼を理解した。
「結局同じじゃないですか。あなたも、僕も。藤崎マドカに守られているだけの、生きてるだけのお荷物だ」
ピンッと頭の奥で音がして、僕と彼とを結んだ糸に神経が通う。
幕が上がった様に世界が広がる。
糸が繋がる度に身体の奥が冷たくなる。目の前の人間が、どんどんと色を失って、人型の影になる。
五感が捉える現実と裏腹な幻影が重なるように、僕が、僕の目の前にいた。
笑う。
糞の役にも立たない僕が、もう一人。
そう。要するに。
「……あなたは、僕だ。役に立たないのなら、せめて黙って震えていればいいのに――」
「ざっけんな!」
男が拳を振りかぶった。目の前の人間を殴り飛ばそうと、体を捻って肩の後ろへ思いっきり。そして。
……もう少しだけ、後ろにしよう。
「っ!?」
自分の腕に引きずられるようにしてバランスを崩した酔っ払いは、下手くそなパントマイムみたいでとても笑える。
「あはは。トイレでダンスの練習ですか? 何かの映画みたいですね」
「……こいつは……元帥の――?」
もう一人の僕の顔から、余裕が消える。
「奴と……同じ? はっ、成程。
「?」
くしゃくしゃと髪を掻きむしって呟いた彼の内側で、黒い霧が大きく膨らんだ。同時、煮え立つような攻撃の意思が、彼の中に猛烈な渦を巻き始める。
魔法だ。魔法を使う気だ。やめさせないと。
「丁度いいぜ、小田島セイ。まずはてめえをぶっ殺す」
ニヤリとした笑みと同時、彼は手にしていた瓶を僕に向かって指で弾いた。
「っ!?」
ちょっとした全能感に浸っていた僕は、思いっきりその瓶を胸に受ける。防護服越しでも一瞬呼吸が止まるほどの威力に、酔っていた様だった目が覚めた。
瞬間、
「はっ、どうしたよ? そんなもんなわけねえよなぁ!? 代用品!!」
ぞっとするほどの敵意に後頭部を振り向くと、天井を蹴る男が見えた。
咄嗟に顔をガードしては見たものの、真っ直ぐに降り注ぐ悪意を抑えきれないのは明らかで。
『どうする』と『どうしようもない』が頭の中で交錯した、その時。
「恥をさらすな」
耳のすぐ脇で聞こえた声とともに、一瞬、僕の眼前にまで迫っていた酔っ払い男が空中で制止した。それと、彼の顔面をとらえた太い足。
次の瞬間、瞬きする暇も無く蹴り飛ばされた酔っ払いは、入り口から聞こえた悲鳴をかき消すくらいの大きな音とともにタイル張りの壁に背中をぶつけて崩れ落ちた。
「……去れ、グエン。ここにお前の仕事は無い」
鎧の様な防護服を身に着け、片膝を持ち上げた姿勢のままで、いつの間にかそこにいた巨大な肉塊――上田隊隊長こと上田慎之介が首をひねって僕を見下ろす。
「すまないな、アレは私が首にした男なんだ」
「え、あ、はい」
呆気にとられた僕の身体からがくりと力が抜け落ちる代わりに、ゆっくりと体温が戻ってきた。
ほっと安堵した途端、顎先に軽い衝撃。
「うむ。喧嘩両成敗」
そのまま床に崩れ落ちた僕が最後に聞いたのがその言葉だった。
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