第5話  悪夢

 いつの間にか落ちていた夢の中で目を覚ました。

 それはもう何度も見た夢だった。

 見慣れた座席、見慣れた色、聞き覚えのある会話。記憶と寸分違わないあの夏の日の飛行機の中で、僕はぐっと胸を押さえる。

 この後の出来事を僕はもう知っている。

 初めての海外、初めての飛行機、楽しいはずの旅路。

 繰り返し繰り返し僕はこの日を、この時を経験している。何度も何度も、傷跡をなぞるように。

 後ろの席で女性が上げる短い悲鳴が、悲劇の合図。

 そして開幕と同時にラストシーン。

 揺れる機体、飛び散る飲食物、跳ね上がる肉体、絶叫、嗚咽。

 座席から放り出され通路に這いつくばった身体を起こそうとして、小さな窓を埋め尽くしたそれと目が合う。意思など微塵も感じさせない、ガラス細工のような複眼に横合わせの黄色い顎。


 夥しいほどの奴らの目目目。黄緑色の腹が、足が、羽が、顎が蠢く。

 幾重にも重なった人の絶叫。頭の向こうでおかしな音。何が起きたのか想像しやすい破砕音。砕けた窓へと吹き出す嵐。吹き飛ばされる人と物を蟲の壁が受け止める。蠢く壁にすり潰されるようにして人が肉になる。自分の身体がむしれることすらお構いなしに我先にと機内に身体を捻じ込んでくる醜悪な生き物の塊。ぼとりと機内に落ちてくる。足を失くしてうろたえる蟲。潰れて死んだ蟲。羽がちぎれて飛べない蟲。緩やかに歩き出したそいつに食いつかれ、人だった物が散らかされていく。目が合う。死にたくない。ピンと伸ばした羽を呼吸の様に揺らして歩く蟲がゆっくりと目の前に。死にたくない。お願いだ。嫌だ。やめてくれ。頭で声で何度も何度も懇願しながら後退りする様に道を譲る。子供の悲鳴。振り向けば蟲に譲った通路の先、勇敢な男が蟲を両手で食い止めていて。頬の横を通り過ぎた大きな虫が外国人らしきその男のでっぷりとした腹に食いつく。幾つもの虫がそこに頭を突っ込んで。幾つも幾つも幾つも幾つも。やめろ。やめろ。血で汚れた無数の目が僕を振り返る。子供の悲鳴あるいは僕の。凍りつく血引きつった表情虫の目落下する機体死ただひたすらな恐怖圧倒的で絶対的な確信が心臓を破壊してしまいそうな速度で叩き鳴らす。喰われた喰われた喰われる喰われる。あとはもう、何度体験しても薄まりはしない恐怖。いつの間にか蟲の身体から伸びていた糸が僕に絡まるぐるぐると縛り付ける気持ち悪いやめろ蟲への恐怖死にたくない落下する恐怖死にたくないこれは夢だいくつもの大切な物死にたくない死への恐怖嫌だ嫌だ嫌だ見たことも無い幸せな家族の笑顔これは夢だ死にたくない終わりだなと呟いた父への恐怖死ね死ね死ねこれは夢だ!空白の頭に流れ込む恐怖恐怖終恐怖死恐怖落恐怖死鼓動恐怖恐怖嫌恐怖恐怖恐怖嫌恐怖死恐殺怖終落死恐怖死これは夢だ恐死怖死恐怖恐怖死殺恐怖恐怖終恐怖鼓動落恐怖恐殺怖恐夢だ怖死恐怖終殺恐死怖夢だ殺恐怖死夢だ死死夢だ死ぬ夢だ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ嫌だ嫌だやめてくれ嫌だ嫌だ頼む嫌だやめろやめろやめてくれ死にたくない死にたくないお願いだから殺さないで――


「ぁああっ!」

 絡み付いた糸を振り払うように飛び起きて、破裂しそうに痛む心臓を押さえる。

 全身から冷たい汗が噴き出していた。

 ゆっくりと窓を振り返って安堵すると同時に、込み上げてくる暗い気分を拒絶しようと首を振る。

 生きていた。僕は確かに生きていた。

 だけど、それがなぜ僕だったのか。他の誰かでなかったのか。

 息を吐く。トクトクと、心臓が鼓動を取り戻す。

 大丈夫。僕は、大丈夫。

 そうだ。だって、あんな出来事の、何一つ。

 ――僕のせいじゃ、ない。

 唇を噛んだ痛みで、やっと部屋に響く騒々しいベルの音に気がついた。

 電話だ。どこかで電話が鳴っている。どこかに電話があるのだろうか。

 いつまでも鳴り止んでくれない不快な音に引きずられ、部屋の中をずるずると歩く。


 ……あった。

 壁際にぽつんと置かれたソファーの裏側で、博物館から抜け出して来たような真っ黒のダイヤル式固定電話がけたたましい音を鳴らして震えていた。

 ……これ、どうやって出るんだよ。

「おーう、しっかり朝勃ちしてるか青少年!?」

 受話器を耳に押し当てると、特に通話ボタンを押すこともなく(というかボタンが無い)自動的にかつ一方的に会話が始まった。

「……おはようございます、霧島局長。……えっと、すいません。今、何時ですか?」

「あん? 何だ? お前、時計も持って来て無かったのか?」

 カメラの持ち込みが禁止だと言われたので、時計代わりに使っていた携帯は破棄したのだ。

「――というか、そもそもこの国の標準時刻がわからないんですが……」

 受話器の向こうで響く笑い声に、僕は思わず極太の受話器を耳から離す。

「だはははっ! そうか、こいつは盲点! すまんな、俺も長らくこっから出たことなんてなかったからよ。気がつかなかったぜい。ええとな、今は五時半だ!」

「……ええと、何か御用ですか?」

「おう! 俺は今から寝るからよ、お前が学校に遅刻しちゃいけないと思ってな! スーパーアーリーモーニングコールだ! ぐはは!」

 スーパーもアーリーも必要ない。

 ただでさえ良く分からないおっさんによる、電話越しのおちょくり会話。しかし、そこは冷静さに定評のある僕だ。イラつく気持ちをぐっとこらえて最近板についてきた大人の対応をぶちかます。

「それはどうも素敵なお気遣い有難うございます。ところで、僕の学校は何時からなのでしょうか、霧島局長?」

「あん? んなことぁ知らねえよ。何で昨日の女子高生に聞かねえんだ?」

 ああそうか、僕は聞くべきだったのだ。初対面の女子高生二人組に。

 ――ねえねえ、彼女。学校って何時から?

「……って、んな事するわけないでしょう!!」

 冷静な僕は、もういない。

「ぶははっ! せっかくかわいこちゃんを寄越したってのに、ダメな男だな、セイは。あれか、本土で言うオタクって奴か? 女には積極的にならなきゃな」

「それを言うなら奥手だと思います……ていうか、メスシリンダーを嫁と呼ぶ人に言われたかないですよ!」

「うあ、うっせうっせ! 急にでかい声出すんじゃねえよ、古い型なんだからよ。自動調整ついてないっつうの……まあ、いいや。学校だっけ? んなもんあの世と違って、早く行ったからどうってもんじゃねえだろうが。さっさと行っちまえって。んじゃ、俺は寝るぞぉ。あと宜しくな」

 電話は切れた。ツーツーという虚無感を掻き立てる音が受話器の中から聞こえてきて、僕は生まれて初めて他人に殺意を覚えた。

 溜息を吐きつつ重力に任せて受話器を置いて、窓の外の様子を伺う。円筒形にくりぬかれた建物の窓という窓にはカーテンが引かれ、青白い光が中庭に落ちてきている時間だった。


 電話は苦手だ。相手が何を考えているか、ちっともわからなくてやりづらい。……まあ、どうやった所であの変態科学者を理解できるとは思えないけど。


 ……というか、暇だ。


 静かに扉を開けて廊下へ出る。ちょっとした探検気分で不思議と靴音の響かない床を歩き、エレベーターで一階へと降りる。いくつかの蛍光灯に照らされる部分以外に闇を残したエントランスはまるで病院のようだった。

 引き寄せられるようにして 壁際のソファに腰を下ろした僕は、ふと気づく。制服も、教科書も持ってない。


 ……マジでなんなんだよ、あのおっさん。


 誰もいない空間で一人頭を抱えた。

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