秘剣・満月返し〜前編・剣術小町の躍進〜
大江戸は品川に『茨城道場』という新鋭の剣術道場がある。
ここ数ヶ月で有名になった道場だが、それには少し変わった理由があった。
***
真夏の昼下がり、灼熱の道場で高音の怒声が響いた。
「どうした! 男が三人がかりで、女を相手に一本も取れぬのか!?」
「そ、そう言われましても!」
「鍛え方がぬるい!」
「ひえあっ!」
木刀が振り下ろされ、座り込んでいた男どもは蜘蛛の子を散らすように逃げた。
しかし戦いを放棄したわけではない。
息を整えて呼吸を合わせ、再び三対一の稽古へと突っ込んでいく。
「まだまだ! もっと研ぎ澄ませ!」
「はい!」
この木刀を捌かれ続ける男どもは、決して弱いわけではない。
むしろ茨城道場の高弟である。女がそれ以上に強いのだ。
白い道着をまとい、舞うような足さばきで男どもを寄せ付けず。
汗一つかかずに道場を滑らかに動き続ける。
このところ評判の剣術小町。道場主の娘、
「はあああああああああ!」
「今のは良いぞ! 私に刀を振るわせてみろ!」
「はいっ!」
総髪に結った長い黒髪を靡かせる様はまさに艶やかの一言。
三つにして木刀を握ったその腕前は、今や神がかりとまで言われていた。
そんな冴と道場の評判が高まったのは、少し前の出来事が原因だった。
大江戸でも有数の道場だった『新崎道場』が、茨城道場に勝負を持ち掛けたのだ。
目的は美人の覚えめでたき冴、そして立地の良い茨城道場そのものだった。
「おいおい、茨城も可哀想だなあ。新崎に目をつけられちゃあおしまいだ」
「あそこのお嬢はかなり強いとか聞いたけど、新崎の門弟はそれこそ鬼か狼かってぐらいに暴れ剣術だからなあ」
「男の腕力相手じゃ、神様でもついてない限りは難しいだろうよ」
心得のある者は口々に茨城の敗北を予想し、新崎は勝負を大きく触れ回った。
見物人も含めて万座の席で茨城を打ち負かし、恥をかかせる。
冴を奪い、恥辱を負わせ、大江戸にいられなくする魂胆だったのだ。
ところが新崎の目論見は一転した。
冴の剣術は評判通り。
否、評判よりも遥かに冴え渡っていた。
「おおおおお!」
大男が振り下ろす、常よりも太く長い木刀。
受け止めれば木刀はおろか、冴の骨までもが折れかねない。
しかし冴は冷静だった。
流れるような足捌きで木刀をかわし、大振りの隙を狙って反撃に出る。
時には剣の理で力をいなし、押し込みもした。
「おい……あの剣術小町凄いぞ」
「こりゃ驚いた」
「冴様ー! 頑張ってー!」
やがて見物客の空気も変わっていく。
美しい動きに魅入られ、声援が増したのだ。
これでは新崎の門弟も面白くない。
徐々に形相が変わっていく。攻撃はさらに激しさを増す。
しかしそれさえも冴はやすやすとかわしてしまい。
門弟はとうとう顔を真っ赤に、咆哮を上げて襲いかかった。
「死ねえええええ!」
「馬鹿者! 不用意に突っ込むな!」
師範の制止も空しく響き、冴が門弟の横を抜ける。
流水のように、滑らかな動き。冴の顔には、恐れ一つさえなかった。
大振りを抜いた、胴への一撃である。
「勝負あり!」
立会人が決着を告げると、見物客はわあっと沸いた。
女も男も等しく歓声を上げ、冴を讃えた。
こうなっては新崎も不利を自覚し、冷や汗をかきつつ立ち上がる。
「かくなる上は、道場主同士の立ち会いにて」
「ならば冴が貴殿の相手でござる」
「な!?」
冴の父はひょうひょうと言ってのけ、新崎は顔を怒りに染めた。
道場主同士の立ち会いを拒否するなど、言語道断だからだ。
「き、貴様ひきょ」
「卑怯ではござりませぬ。我が道場で最も強いのは冴にてございます。これは門弟一同が認め、それがしも過日立ち会って皆伝を認めた次第」
「ぬ、ぬうう……!」
新崎は歯ぎしりし、なおも言葉を探す。
しかし見物客は新崎に罵声を浴びせ始めた。
「新崎、いい加減にしろ!」
「大江戸に名だたる道場主が、女一人に逃げるのか!?」
新崎の名誉のために述べておく。
冴の父が打った手は、決して正しいものではない。
だが見物客はそんなことは知らない。場の空気に反応する。
「新崎こそ卑怯だ!」
「ぐうううう!」
冴の父は淡々と新崎に告げる。
卑怯半分の賭けをすることの恐れは、とうに吹き飛んでいた。
群衆の声援が、彼を後押ししていた。
「さあ新崎殿。お覚悟召されよ」
「ぬーーーーーーっ!」
かくして新崎は敗れた。
晒し者にするはずの勝負で、自身が晒し者にされてしまった。
その有様は、江戸随一の道場主とは思えぬ程に酷いものであった。
彼は名声にかまけて鍛錬を怠っており、この敗北で皮を剥がされたのだ。
新崎はその日の内に大江戸から姿を消した。
主の消えた道場から門弟は次々に去っていき、ついには人手に渡ったという。
一方茨城道場の評判はうなぎのぼりとなった。
冴に焦がれた男どもが次々に門を叩き、道場の周りは見物人で溢れかえる。
しかし。光が強くなればなるほど、闇は濃さを増すものである。
多くの憎しみと妬みが、彼女を取り囲むようになっていった……。
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