鬼の兵部

 大江戸には鬼がいる。おつとめをやり遂げたいのなら、他所で励む方がいい。

 関東一円の盗賊どもが、まことしやかに流す噂があった。


 鬼の名は長谷堂兵部信為はせどうひょうぶのぶため

 鬼兵と呼ばれる彼は、盗賊に手厳しい。

 狗と呼ばれる元盗賊の密偵を使い、徹底的に探り上げ、お縄につける。


 事実、近年大江戸の治安は向上し、盗賊は活躍の場を減らしつつある。

 まさに近年稀に見る実績だ。

 しかし彼が鬼と評されるのには、今一つ別の理由が存在した。


 ***


 空気の冷たい新月の夜。

 静かに素早く大江戸を駆ける集団がいた。

 盗人宿で陣容を整えた、ましらの五郎一味である。


 猿の五郎は、かねてより大仕事をやってのける盗人として名を馳せていた。

 鬼の兵部――縮めて鬼兵が音に聞こえ始めた頃。

 五郎ならば鬼兵を出し抜けるのではと、期待の声が上がったほどだ。


 しかし五郎は自身の名が噂に上がるたび、こう言って一笑に付した。


「慌てちゃいけねえ。おつとめってのはじっくり仕掛けて、一気に仕上げるもんなんだ。鬼兵を敵に回すってんなら、より慎重じゃなくちゃいけねえ。放り込む準備に比べて、身入りが少なくなっちまわぁ」


 けらけらと笑う五郎は、事実無駄な盗み働きを謹んでいた。

 しかし仕掛けの糸はその陰でしっかりと伸ばしていた。

 ある大店の後妻へ手下の美人を送り込み、根を張らせていたのである。


 今宵はその仕上げ。

 信用できる筋からのみ手下を集め、金目当ての輩は排除した。

 針の穴一本ですら、鼠の入る余地はない。そういう仕組みにした。


 後は後妻の手下に引き込ませ、あらかじめ手に入れていた鍵で蔵を開ける。

 盗み出した金は全員で山分け。

 手順はたったそれだけだった。


 だが彼等は既に鬼兵の網にかかっていた。

 鬼兵の狗が、警戒深く行われた五郎の仕掛けを掻い潜ったのだ。

 あくまで慎重に彼等に追わせ、動きを読み切っていたのである。

 

「奴等、やはり今夜ですぜ」


 さしもの五郎も、屋根瓦の上には目が届かない。

 すでに彼等は見張られていた。

 天の民により密かに取り入れられた通信機を手に、一人の狗が連絡を取る。


 韋駄天の辰。

 鬼兵が使う狗の中でも、とりわけ尾行に長けた者だ。

 彼の特徴は足である。

 韋駄天の二つ名がつく通り、俊足でもってあちこちを繋ぐ。


『分かった。そのまま追え』


 鬼兵からの指示は簡潔だった。辰も物を言うことなく、通信を切った。

 しかし辰には、鬼兵の考えが分かる。

 長い付き合いによる、阿吽の呼吸がそうさせていた。


「あの人、『やる気』だ。くわばらくわばら……。と、そろそろ行かねえと追い切れねえや」


 辰は瓦を蹴り、姿を消した。

 このまま五郎の目的地まで追い続ける。

 そういう予定になっていた。


 ***


 人が人を鬼と称する時、大抵は厳しさを揶揄するものである。

 だが今宵、猿の五郎一味が目撃したのは。

 正真正銘、平安の世に名を馳せた『鬼』そのものであった。


「よう、猿の五郎。こんな初めてで悪いなあ」


 言葉自体はざっくばらんだが、その姿には恐怖を駆り立てるものがあった。


 身の丈八尺。

 筋骨隆々の赤い肌。

 額から伸びる、剛直な一本角。


 鬼以外の何物でもない。

 盗人どもには、実際以上に大きく見えていただろう。

 口をきくことができたのは、五郎のみだった。


「鬼兵……貴様、人ではないのか!?」

「いや、遠い昔のどこかで『混じった』らしい。稀に先祖返りってのがあるそうだが、俺もそういうタチだったようだ」


 五郎の問いかけに、鬼兵はざっくばらんに言葉を返した。

 五郎は迷った。鬼兵が即座に襲って来ないことだけが救いだった。


 手下は慌てふためき、ざわついている。

 五郎はしくじりを確信した。

 たとえ数を頼みに強行しても、急ぎ働きは恥でしかない。


「猿の五郎。神妙にお縄に付きな」

「鬼兵。悪いがそうもいかねえ。俺だって一端の盗人だ。おつとめは失敗しても、簡単にお縄になるようじゃ猿の五郎の名がすたるってもんだ」


 詰んだ。

 確信した五郎は、匕首を抜く。白刃を晒す。

 盗人には盗人なりの矜持がある。

 ただで捕まるのだけは、許せなかった。


「そうかい。じゃあさよならだ」


 鬼がゆっくりと踏み出すのを、五郎の目が捉えた。

 背後の声は消えていた。逃げたのだろう。仕方ないと、彼は思った。

 諦めにも似た笑みを浮かべて、五郎は一人鬼へとつっかけて行った。


 ***


 冬が終わり、桜の舞う春となった。

 とある里山に、桜を肴に酒をかわす男たちがいた。兵部と五郎である。

 二人ともが厳つい顔を赤くし、朗らかに言葉を交わしていた。

 あの冬の日とは、明らかに違う雰囲気である。


「いや本当に、あの日は死ぬ気でした」


 酔いが回ったのか、五郎の声は大きくなっていた。

 銚子を片手に揺らして、歯を見せて笑っている。

 兵部への敵意が、感じられなかった。


「なにを言う。俺は最初から殺す気はなかったぞ。盗みの世界からはおさらばさせてやるつもりだったが」


 兵部は変わらず、ざっくばらんに答えを返した。

 しわが増えてきた顔をひしゃげさせ、不器用な笑顔を浮かべている。

 二人の目の前では、兵部の妻が作った弁当が並べられていた。


「事実、お前さんはお裁きで死んだことになっている」


 塩むすびを手にして、兵部は口を開いた。

 五郎は驚きのあまりに大きく口を開き、そのままパクパクとさせた。


「俺は、死人になってるのか?」

「ああ、死んだ。俺がそういう風にした」


 つまるところ、あの夜の結末はこうだった。

 匕首片手に突進して来た五郎を、鬼となった兵部は引っ叩いて気絶させた。

 とはいえ鬼の怪力では五郎も大怪我を免れない。

 そこで密かに治療を受けさせ、やがて里山へと移して休ませたのだ。


 兵部はその間に体よく書面を仕立て、五郎を刑死したことにした。

 死人である以上、これまでのしがらみはなにもない。

 結局五郎は、強制的に盗みから足を洗わされたのだ。


「俺は火付けや盗み、無法は憎むが人は憎まん。無論お縄どころじゃなく悪い奴等もいる。だが、よほどの悪党じゃなければ生きる術を与えたいと思っている」


 酔いが回っているのか、兵部の口は軽やかだった。

 事実彼は幕府に掛け合い、罪人の働く寄場の建設を進めていた。

 計画が形になれば、盗人でも働き口を得られるようになる。

 兵部はそう確信していた。


「お前さんを殺さなんだのも、そういうことだ」


 兵部の言葉に、五郎は下を向いた。

 貧しい家に生まれ、蔑まれ。逃げるように江戸へと飛び出した。

 盗みの技を身に付け、生き延びた。そんな自分に、この鬼と呼ばれる男は。


 しばしの沈黙の後、五郎はゆっくりと顔を上げた。

 酒は残っていたが、真剣な面立ちであった。


「旦那。俺ァ根っからの盗人だ。この歳で今更真っ当に働こうったって、そいつぁちゃんちゃらおかしい話だ。御免こうむりますわ」


 低い声色で、決意を述べる。兵部はほう、とだけ口を開いた。

 それを聞いて五郎は、更に続けた。


「ただ。今更生き返ったっつってもかえって面倒なんで、この山で大人しく死んでまさぁ。幸い、畑の真似事ぐらいはできるようなんで」


 兵部はそうか、としか返さなかった。

 二人の間に、ひょうと春風が吹き渡って行く。

 それきり二人は、なに一つ言葉を交わさなかった。

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