女子高生、転倒する。

 これは多分、人類共通の夢というか、憧れみたいなものだと思うんだけど。

 もし、自分よりも大きくな、ふわふわのもふもふした生き物がいたら、そいつの上で寝そべってみたい。少なくとも、あたしはそう。


 でも、いざその時……自分よりも大きなふわふわが出現した時、あたしは本気で恐怖を感じた。


「これは、これはでかぁぁぁいッッッ!」

 実況、神。うるさいなー、などと呑気に構えてはいられない。どうしよう。

「兎選手、二百メートルを越えてなお巨大化を続けているッ!」

 もふもふした巨体を、あんぐり口を開けたまま見上げる。


 でけぇ。


「実測値出ました! 三百三十一メートル! 耳は入っておりません! 凄まじいサイズ! ひたすらに巨大! その強大な暴力に、人類代表卯野風香、どう立ち向かうッ!?」

 いやどうもこうもないじゃん。逃げるしかない。しかないのだが。


 今日は火曜日。放課後。校庭には部活中の野球部。遠くから聞こえる吹奏楽部の練習曲。

 あたしは下校中、校庭からちょっと離れた通りでいきなり巨大化させられ、そして流れるように試合開始だ。ふざけるな神。


 周りを見回す。

 が起きないのは三人だけ。だから、城島と会長だけ気にすればいい、と頭では解っているつもり。だけど。


 気にするな、なんて言われても、気にしないなんてできない。

 誰だって痛いのは嫌だ。

 怪我したり、させたりなんて。そんなこと。

 だから、少しでも人の少なそうな方へと一旦向かう。

 あれとまともにやりあったら、城島や会長を巻き込むどころじゃ済まない。街が瓦礫の山になる。


「おぉっと、ここで卯野風香大きくバックステップ、しかし巨大な兎、その一歩で悠々と至近距離に入ったッ!」

 嘘だろ、でかすぎる。

 あたしの予想を遥かに上回った長い一歩で、その長大なもふもふは接近してきた。


 二人はもう大丈夫だろうか。駅の反対側に逃げたのが見えた。多分。だから多分平気。そう自分に言い聞かす。

 それに、ここなら人も少ない。痛い思いを、なかったことになるとはいえ痛い思いをする人は、一人もいないほうがいい。


 そんなことを考えていたら、

「動きの止まったチャンピオン! 兎、ボディプレスッ! あまりに単純、あまりに豪快な破壊力が襲い掛かるッッッ!!!」

 やばい。このままだともふもふにもふられて死ぬ。迫りくる巨体。毛玉。ちっちゃかったらふわふわでかわいいんだろうな、なんて現実逃避。


 避ける? 多分できる。

 殴り返す? いや、このサイズ差はどうだろう。

 悩み続ける? ない。それだけは、絶対にない。


 あぁ、でもどうしよう。誰かが傷付いたら、

「うーのーちゃーーーん!!!」

 視界の端。混乱極まる街並みの一角から声。タクシーに乗って遠ざかる会長。そして反対側の窓から城島の顔。


「だいじょーーーぶーー!!!」

 あ、いいんだ。

 よし。よかった。なら。


 目の前に迫りくる毛の塊を見据える。もう避けられる距離じゃない。牙を剥く兎。お前威嚇とかする生き物だったのか。


 だったら。

 しゃがむ。

 そして、

「どっせーーーい!!!」

 伸び上がる。頭突きが相手の腹にきまる。スクワットは得意だ。スポーツの基本である。


「チャンピオン、まさかのカウンター!!! 体当たりに体当たりで応じた!!! 自信の現れか!?」

 ぺきょぺきょと何かが折れるような音がして、けれど体重はそのままのしかかってくる。対応ミスったかなぁ。でも、避けたら被害増えちゃう。だったら、これしかない。


 避けない、暴れない、暴れさせない。三つ揃う受け止め方はこれだけ。

 もちろん、自分がずっこけるかもしれないとは思ったけど。

 それはそれ。負けは負け。今は、ここから勝つことを考えればいい。


「チャンピオン、そのまま兎を支えた! まるで大地を持ち上げるアトラスの如き所業ッ! このあとどうなる!!!」

 どうしよう。何も考えてなかった。大股開いて受け止めたままの姿で止まっている。


 その間にもめきょめきょとへんな音が兎からする。兎、形がだんだん崩れていく。なんだなんだ。どうした。

「ここでセコンドからタオルです!!」

 セコンド。いたのか。というかあたしのセコンドって誰? もしかして神?

「兎選手リタイア、リタイアでの決着となりましたッッッ!!!」

 なんだかよくわからないまま、二戦目は勝ちを拾った。



「あー、いたいた。お疲れ様ー」

 一試合終えて元のサイズに戻り、駅前でげっそりしているあたしに、城島と会長が手を振ってくれた。

 二人とも元気そうで、安心して気が抜ける。


 街並みは何事もなかったかのように普段通り。いや、事実あたしたち四人以外には本当に何もなかったのだ。

 だから、悩むだけ無駄なのかもしれないけれど。

 悩むものは悩むのだ。


 神はあたしたち以外の時間を操れる、らしい。詳しい話は聞いてもよくわからなかったけど。

 だから、何も起きてない。平和。いつも通りの雑踏を、二人がゆっくり歩いてくる。

 よし。よかった。頑張った甲斐があった。


「あの、二人とも大丈夫でした?」

 恐る恐る聞いてみる。

「うん、平気。ね?」

「はい。先輩もお疲れ様でした」

 笑顔。よかった。本当によかった。


「よし、戦勝会といこうかー!」

 ぐいっと腕を上げる会長。あざとい。あたしもそういうポーズをとって許される顔面に生まれたかった。あー。かわいい。

「会長、もふっていいですか」

「はい?」

 もふるって。人間に使っていい動詞なのかこれ。まぁいいや。

「練奈さんが戸惑ってる……」

 城島が珍しいものを見たとばかりに顔を綻ばせている。あたしやっぱりこの二人と並ぶの厳しいと思う。


「二人とも、なに食べたい?」

 くすりと笑いながらくるりと振り返る会長は、なんとなく猫っぽくて、にこにことついていく城島はどことなく犬っぽく見えた。

 やっぱり、あとでもふらせてもらおう。



 夕陽を浴びて黄金に輝き、高く跳び上がった同級生のエース。大きく振りかぶった腕。弓形の身体。自チームのブロック二人は見事なまでにフェイントに引っかかっている。フォローするしかない。


 弾道の先に滑り込む。

 弾丸の如きスパイクをレシーブで拾う。

 結果、あたしは腹で滑って場外へ。拾ったボールは?


 部長のトス。相変わらず見事なフォーム。スパイクによるカウンターは的確にブロックで阻まれる。再び走って滑り込んだ頃には、ボールは既に地面に叩きつけられていた。


「卯野ー!」

 部長の一声。やべぇ。

「すいませんー」

 いやいや、と彼女は手を振る。

「相変わらずレシーブは上手いし気合い入ってるのはいいけど、怪我だけはするなよー?」


「えっ、あっはい」

 そっちか。

「交代するよー! 卯野、次スパイクな!」

 びっくりしているあたしをよそに、てきぱきと指示を出す部長。


「卯野。あんた球拾いばっかじゃなくて自分で叩きに行っても良いと思うよ? かなり飛べるでしょ」

「うぇぇ」

 変なうめき声を上げてしまった。女子高生のアイデンティティが危うい。

「じゃ、次は卯野アタックなー」


 トス。部長のそれはいつも綺麗で、見惚れるような放物線。

「卯野!」

 どっ。

 どど。

「は、はい!」

 声をかけられて、びっくりして、球が全然落ちてきていないのにジャンプ。

「あれ?」

 届かない。当たり前だ。あたしはボールよりはるか下にいる。

 すとんと着地。時間差で、ぽてんと落ちるボール。

 なにやってんだ。


「ちょっとー! なにやってんだー!」

「す、すいません……」

 またやってしまった。

 自分の番だとわかっているから。

 自分が打たないといけないから。


「卯野ー」

 部長の一言。

「う、すいません」

「あー、謝らない謝らない。練習でしょ。スパイクは落ち着いて、タイミング見計らって。高さは十分飛べてるから大丈夫。それよか、レシーブ」


「はぁ」

 意外な言葉に思わず気の抜けた返事を返す。

「あの、ほかに誰も反応してなくて」

「さっきはね。だけどさぁ、コートの端から端まで走らなくても良くない?」

 そうなのだけど。


「後ろのフォローができてないのも問題。けど、卯野はなんでもかんでも自分でやろうとしすぎ」

 そんなに心配? と目で訴える部長。


「信頼してないわけじゃないんです」

 俯く。みんなのことは信じている。信じられないのは、自分だ。

「うーん。一朝一夕じゃどうにもならないか」

 へへ、と困った顔の部長。

「頼ってよ。まだ今年はいるからさ」

 と肩を叩き、他の部員の名前を呼んで去っていった。


 相手コートにいる、同級生のエースと目があった。

 睨まれてる。

 まぁ、気持ちは解る。つもり。たぶん。


「お疲れ様です」

 城島の手渡してくれた水で喉を潤し、口元を拭う。

「信頼できないわけじゃないんだけどなぁ」

 ため息。

「大丈夫ですよ」

「城島?」

 にこりと笑う後輩は、

「先輩、飛べてます。大丈夫ですよ」

 そう言って、励ましてくれた。


 だからあたしは、ちょっとだけ甘えることにする。

「城島、今日ちょっと居残り付き合ってもらってもいい?」


 トスのかわりに、審判席から緩やかに放り投げられるボール。

 城島の見事な『やや打ちにくい位置』に投げられたボールを視界の端に捉える。視線は相手コートのライン上。


 コートの中には誰もいない。

 きゅっと鳴った靴音が心地いい。

 すっと体が浮き上がっていく感触。

 ふっ、と息を吐きつつ、スパイク。


 狙い通り白線に着弾。

 二投目。利き手でない左手で同じことをやる。

 三投目。ネットぎりぎり、真下に打ち込む。これは右手でしかできない。

 四投目。いい位置に投げられたボールにそっと触れる。落下のタイミングと場所をほんの少しだけずらす。


 すとんと着地。ふわりと着弾。うむ。

 誰もいなければできる。全力で振り切っても、誰も怪我しない保証があるからできる。

 いやまぁ、スポーツに怪我はつきものだけど。だけど、頭でわかってることでも体が怯えてしまっている。


「先輩、上手い……」

「うぇっ」

 中学時代はエースでならしたという城島に言われると、流石に恥ずかしい。

「ありがとー。でもさ、本番でやれないと意味無いんだよねぇ」

 しみじみしてしまう。


「緊張、してます?」

「してます」

 していた。すごく。今は鼓動も落ち着いているのに。本番になると、相手側に誰かいると、途端にだめになる。

「当てなきゃ、打たなきゃ、点取らなきゃって思うとなかなか」

 難しい。


 てのひらをじっと見つめる。見ても仕方ないのはわかってはいるけど。

「リラックスー」

 城島がゆらゆらと謎の手つき。なんだそれは。フラダンスか。かわいいな。


「はぁ。なんか、最近色々付き合わせちゃってごめんね。なんかねー」

「大丈夫ですよ。マネージャーですし、後輩ですし、それに、友達ですから」

 にこにこと。

 愛くるしい。


「……なんかね、怖いんだよ」

 思わず、弱音。らしくない。

 らしくないけど、城島になら甘えてもいいかも、と思えた。

 大きくなったあたしを心配してくれた、たった二人の友達。


「……先輩?」

 他には誰もいない、だだっ広い体育館の真ん中で、わたしは一人立ちすくむ。

「全力で振り抜いたら、その球が当たって、その子、顔怪我しちゃって」

 それで。それから。

 怖い。


「先輩」

 いつの間にか真横にいた城島は、わたしの右手を握る。

「先輩は最初に大きくなったあと、一番に私の心配してくれました」

「うん」

 そりゃだって。そうでしょ。誰だってそうだよ。自分が想定もしてなかった事態に直面したら、どんな人だって怖い。隣に誰かがいてくれるだけで、どれだけ救われるか。


「それに、傷付かなかったことになるのに、兎を受け止めてました」

 当たり前だ。だって、

「だって、痛くなくなるのと痛くないのじゃ、全然違うってば」

 誰だって、痛いのは嫌だ。


「そういう人だから、先輩が迷うのも解るんです」

 迷う?

「え? あたし、迷ってる?」

「だって、ミドリムシの時もつつこうとしただけで、潰そうとしたわけじゃなかったんですよね」

「うん」

 潰れてしまった、というか。あんな馬鹿力が出るとは思ってなかった。


「兎の時は、誰も傷つけないためにうさちゃん支えてました。ですよね?」

「です」

「私、先輩のそういうところ、好きですよ」


 なんか褒められた。褒められていいのか。こんなの、普通の、誰でも思ってることじゃないのか。

 誰かを傷つけたくないなんて。


「うー。あ、ありがと。なんか、面と向かって言われると恥ずかしいな……あー、城島が男だったらなぁ。このままなし崩しでこう、ラブロマンス的な。こう」

 混乱している。こんなこと言いたいわけじゃないのに。

 違うんだ。

 あたしは、怖いだけなんだ。


「そろそろ、帰りましょう。片付け手伝いますよ、先輩」

 よくできた後輩は、あたしの困惑をよそに笑顔で応えた。


「いたいた、探したよー」

 夏も近づく夕暮れの駅前は、先週に比べて陽が高い。青空と茜空の間に、会長は立っていた。随分と息が荒い。走り回っていたのだろうか、季節が季節なら湯気でもたってそうだ。

「会長」

「練奈さん」

 異口同音というやつだろうか、城島とシンクロするあたし。


 大きく酸素を吸い込んで薄い胸を膨らませた生徒会長は、

「選手交代はだめだってさ。ルール、結構ガチガチに決まってるみたい」

 開口一番に、以外な言葉。部活に所属していないに等しい会長が、こんな時間まで何をしているのかと思えば。


「会長、神探したんですか?」

「うん。期限過ぎるまで、権利の移譲は不可ってさ」

「あー。なるほど。そっちは考えてませんでした」

 いやいや、と手を振る会長。

「考えようよそこは!?」


「いやだって」

 これ、あたしの責任だし。

 戦えって言ったのは神だけど。

「だってじゃなくて。君、まだ子供でしょ。いやそりゃあたしも年齢的には大差ないけどさ」

「んぁー。でも、他の人が怪我したら嫌じゃないですか」

 ふんす、と会長は鼻息をひとつ。なんだろう。怒ってる?


「卯野ちゃんの責任の取り方ってそうなのね」

 呆れてる?

 会長のことがわからない。

 誰かのことがわかった経験なんて、あったろうか。


「じゃあさ、卯野ちゃん」

 仁王立ちで腕組みをする会長は、小さな身体なのにとても大きく見えて。

「せめて、全力で振り抜きなよ」

「うぇ、だってその、殴ったら、殴られたら痛いじゃないですか」


 そりゃそうだけどさ、と前置き。

「痛いのは覚悟の上で立ってるんだから、全力を出さないと。舐めてかかっちゃ、失礼でしょ?」

 そっか。


「いいんですか」

「もちろんだよ」

 やっていいんだ。そう考えると、また。


 どっどど。

 どどうど。

 鼓動の嵐が吹き荒れる。

 でも。


「卯野ちゃんは卯野ちゃんなんだから、卯野ちゃんらしく卯野ちゃんであって欲しいよ」

 いつの間にか胸元で握っていた拳を、会長は小さな手でふんわりと包んでくれた。


「いーい感じに場があったまってきたところでさぁー」

 突然、あたしたちの真後ろから声。

 神だ。


「なんだよ」

 睨み付ける。

「第三戦、はっじめようかぁー!」

 開戦の宣言。また大きくなる身体。三度目の戦い。心臓はどくどくと波打って、風はびゅうびゅうと吹き荒れて。

「卯野ちゃん!

「先輩!」


 二人の声援。心配の意味が変わった。いや、最初からこうだったのかもしれない。それとも、本当に今変わったのかもしれない。

 どっちだっていい。

 拳を握る。


「駅の反対側に一直線に逃げる! だから、安心して!」

 あたしの一番の憂慮を吹き飛ばすその声で、握りしめた拳の意味を変えて、あたしはあたしのカマキリを見据えた。

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