冒険の日 ⑤-2-2
人は外見によって左右されるが、それは容姿の美醜という問題だけではない。
例えば有能な卑屈と無能な傲慢。社会が淘汰するのはどちらか。
答えは前者である。間違いなく。
生意気な奴は生意気を理由に目を付けられるだろう。だが卑屈な奴は特に何もしなくても見下される。目をつけるという行為は限られた人間にしか行えない行為だが、見下すという行為は全方位で無制限に行われる行為である。
それは卑屈な人間は反撃をしてこないというイメージがあるからだ。生意気な人間は周りに当たり散らすかもしれないが卑屈な人間は基本無抵抗。多くの人間はそう考える傾向にあるようだ。
私が他者のミスとか上司のミスとかを押し付けられてきたのは、私が無害と認識されていたからだろう。実際私は特に反論することなく全てを受け入れてきた。反論した所で事が大きくなって傷が深くなるだけだからだ。
けれど今思えば、私がそういうポジションに落ちたのも自業自得によるところかもしれない。
私は自分の殻に閉じこもり相手に正当性を訴えるという努力を放棄してきた。
一度や二度は取り組んだ。でも駄目だったのだ。逆に冤罪を膨らまされるという大きなしっぺ返しを受ける羽目になった。それからは卑屈街道まっしぐら。実に私らしかったと思う。
人が人を見下し利用しようとするのは善悪以前の、いうなれば本能であると言っても過言ではないと私は考えている。一度格下と認識したら人という動物はその対象をどこまでも執拗に押さえつけようとする。多くは感情でだ。
だから世界は核の保有をしたがるし、核を持てば交渉は有利となる。人は相手から反撃される可能性を考えた時、ないしそのダメージが大きいと判断した時、その段階になって初めて対等を意識できる。対等であるがゆえに交渉は成立し、勝ち得た成果は自信となる。
自信は人々に勇気を与える。自信のある人を見た人々の反応は主に好感だ。いわゆるカリスマというやつで、それは人から頼りにされる原資と言い換えられる。
傲慢は自信の最もわかりやすい現れ方である。傲慢は一見警戒しがちに思えるが、もしこれが味方にいればどうだろうか。敵だと腹立たしくても、誰かのため、ないし貴方のために動く傲慢ならば。傲慢が鼻につくのは自分の事しか考えない我儘野郎というイメージを伴っているからで、その要素を除いたならそれは英雄的ですらある。
一方で卑屈な人間はどうか。ここまで説明すればもう言うまでもないだろう。
人は無意識にどちらが手痛い反撃をするかと考えて行動する。人は賢い生き物だ。
私はそれを嫌というほど体験してきた。そしてそれを理解してなお、私は自信を持つことができなかった。それは私がゴミだからだ。豆腐メンタルだからだ。
主張できず抗えず謝ってばかりの格下。間違いを指摘できず受け入れ現場の空気に流され続けた末、後になって間違いの責任を擦り付けられ処分される無能。なにも任せられない信頼皆無のお荷物。存在そのものが罪。
犯した罪が贖われることはない。失敗した人間に償う機会など回ってくるわけがないからだ。自身の無能を自覚している私としても今更何をやっても償いにはならないと理解していた。
会社という牢獄から逃げ出した後でも、心は地獄からは逃げられなかった。息を吸って酸素を減らして申し訳ないことをしているという認識はあの場での刷り込みだろう。自覚しながらも私はベッドの中でうずくまっていた。
だがいつだったろう。急に心が軽くなって、今日は暖かいなと思った日、私はふと、散歩に出かける気分で窓から身を投げた。特に何も思い詰めるでもない。買い物に行くような気分でだ。
そうして私は死にかけ日本から脱出することとなったわけだが、誰も知らないうちにアパートの軒先で死にかけ周りの人に盛大に迷惑をかけてしまった。あの時は本当に申し訳ないことをしたと思う。
だが。
この世界にやってきた私は、今、それはそれ、と、思えている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます