目の前の花火

 八月になり、その日がやってきた。待ちに待った、花火大会。毎年すごい人出で、ユウと二人で京阪電車に詰め込まれながら、浴衣の着崩れを気にしたものだ。


 今年は、やっぱり、静かな夏だ。毎年恒例のその騒がしさは同じであるのに、ぎゅうぎゅう詰めのはずの京阪電車の中、ゼロ距離の位置には中小路さんが陣取って、わたしを守るように壁に手をついてスペースを確保してくれている。

 着崩れも、日のあるうちから三条あたりで飲んで花火に向かう人のアルコール臭い息も、車内にはない。ただ、シュウマイが蒸しあがるほどの暑さと湿度があるだけだ。


 ときおり、中小路さんの香水が、効きの悪い空調に乗って咲く。そのたびにわたしは中小路さんを見上げ、眼を合わせてすこし笑った。

 花火が上がる浜大津というエリアは夕暮れどきには人でいっぱいになるから、少し早い時間の出発にした。ほんとうはもっと早い待ち合わせだったけれど、中小路さんが仕事のためにあまり寝ておらず寝坊をしてしまい、わたしたちが浜大津駅に到着して車両から排出されたとき、午後五時半。


「うわ、こんなに人がいるなんて」

 中小路さんは、はじめての花火大会らしい。関西最大規模の花火だから遠方からも人が集まるということを知らないらしく、切れ長の綺麗な目を丸くしている。

「さ、ここからが戦いです」

 わたしは勇み、浴衣に合わせて選んだ下駄を鳴らしながら駅から繋がる歩道橋を踏んだ。

 まだ開始まで二時間以上あるとはいえ、もう、すごい人である。祇園祭のときの烏丸通りのような人の群れをかき分けてどうにか進み、琵琶湖に面した国道に出て、南を目指す。

 毎年ユウと見る場所は、空いている時間なら十分ほどの距離。なんとなくそこを目指すつもりだったが、中小路さんは胸ポケットからスマホを取り出し、地図を確認し、自信に満ちた足取りでわたしを導いた。


「どこに——」

「ちょっと歩かなきゃいけないみたいだ。足、大丈夫?」

 わたしが慣れない下駄であることを気遣いながら、にやにやと嬉しそうに笑っている。こういうとき、かならず、何かしらのサプライズがあることをわたしは知っている。

 いたずらをする少年のような表情と、寝坊のため直りきらない寝癖が可愛くて、わたしは思わず中小路さんの手を強く握った。


 わたしたちの足は、ゆっくり、ゆっくり人混みに流されて進み、湖面がオレンジに燃えるようになる頃に止まった。

「いや、意外と遠かった。ごめんね、睦美ちゃん」

「大丈夫ですよ」

 わたしは笑ったが、こんな時間まで歩いていたから、湖に面した石積みは人で埋め尽くされ、そこに至る遊歩道すら地面が見えないような有様だった。

 ちゃんと見られるかな、と心配になってどこかに空きがないか探すわたしの手を、中小路さんが促す。

「行こう」

「え、でも——」

 そのままぐいぐいとわたしを引っ張り、人の流れとは無関係の方へと。そして、琵琶湖を見下ろすように建つ高層ホテルのエントランスへ。


 まさか、ここで。この巨大かつ高級なホテルは有名だが、わたしには縁がなさすぎて見えながらにして見落としていた。

 ただの建造物であったそれが、まばたき一つするたびにわたしに関係のある場所になってゆく。

 中小路さんは半ばはしゃいだようにロビーを通り抜け、チェックインを済ませ、キーを受け取る。


 間違いない。中小路さんは、花火大会に行くことが決まったとき、このホテルを予約してくれていたのだ。それも、おそらく、花火が見える絶好のロケーションの部屋を。

 早くから予約で埋まってしまうと聞いていたが、どうやって予約をしたのか。


 エレベーターは無言でわたしたちを運び、上層階の高そうな部屋へ。

「泊まってく?」

 自分の家のように鍵を開けながらわたしに訊ねるが、泊まるに決まっている。

「浴衣のことがあるからどうかなと思って。もしあれだったら、花火が終わればそのまま帰るのでもいいけど」

 そんな選択肢まで用意されているらしいが、あり得ない。サロンで着付けをしてもらったため浴衣の着方など分からないが、寝るのには備え付けのバスローブがあるだろうし、明日は日曜日で休み——いや月曜でも休む——、浴衣など適当に帯を巻いておけば帰ることはできる。


 泊まります、泊まる、と壊れたロボットのように鼻息を荒くするわたしに笑いかけ、中小路さんはドアを開いた。

 広々とした室内。大きい窓からは、漆黒の空。駆け寄って見下ろすと、遙か下に同じ色をした湖面。草津あたりだろう、対岸を行き交う車のライトがとても小さく見える。


「内緒にしててごめん。でも、びっくりさせたくて」

 中小路さんが用意したのは花火観覧の特等席などではなく、一生忘れられない夜そのものだった。

 わたしは嬉しくて、なぜか泣けてきて、照れ臭そうに、それでいて得意げに笑う中小路さんに抱きつくことでそれを隠した。



 花火。室内にいても横隔膜が揺れるほどの。部屋の中が真っ赤になって思わず窓に眼をやると、手を伸ばせば届きそうなところに炎の花が咲いていた。それを皮切りに、次々と打ち上がり、夜を染め、また静かにして、さまざまに彩った。

 わたしたちは、言葉も忘れてそれをただ見ていた。途中、部屋の電気を消したから、外で咲く花火がわたしたちをそのまま包むかのようだった。


 くちびるとくちびるが、重なっている。いつの間にそうしたのか、中小路さんが花火ではなくわたしを見ていると気づいたあと、自然とそうなった。その大きな手がわたしの浴衣に伸びてくると、わたしはイソギンチャクみたいに身を縮めるしかなかった。


 駅から歩いてくるのに汗をかいた。シャワーを浴びたいが、花火を見ながらというのも悪くない。そう思った。



「——もうすぐだ」

 咲いては散りを繰り返す花火が終わり、わたしたちの呼吸が整いつつある頃、中小路さんは口を開いた。ん、とわたしが喉で聞き返すと、

「——もうすぐだよ、睦美ちゃん」

 とわたしの顔を覗き込み、笑った。

「なにが、もうすぐ?」

「羽布のことさ。もうすぐ、ケリがつく」

 先生のことを、逐一報告している。川島を使い、秀一氏を陥れようとしていることも。

 探りを入れに来たのが明らかな様子であった太田刑事の突然の来訪のことも伝えた。中小路さん曰く、府警の方では興嬰会などよりも恐るべき詐欺師である通称ハブの確保に躍起になっているのだという。

 逮捕に違いはなくとも、そのあとのことが違う。だから、府警に身柄を引き渡すわけにはいかない、というのが中小路さんの考えだ。


 なんにせよ、もうすぐ終わる。

 終わったら、

「僕と一緒に——」

 中小路さんの唇が、うっすら笑う。その先を、一秒でも、いや、まばたき一つでも早く聴きたいと思った。

 だけど、いつまで待っても、その続きは来なかった。

「いや、そのとき、改めて言おう。そうさせてくれ」

 わたしが待っているのを知って、そう言った。その声の色はわたしの知る中小路さんそのもので、誠実で、理性的なもので、ひどく照れ臭そうであった。


 わたしの心の中で、まだ花火は続いているのだろうか。横隔膜が揺れ、静けさを思い出そうとする闇になっている窓の外に、また花が咲いた気がした。

 府警よりも先に。

 先生に動きを取らせる。

 そして、中小路さんの悲願を達成する。

 そのあとは。

 そのあとのことは、聞くまでもなく知っている。だけど、そうなれば、そのあとのことを中小路さんの声で言ってもらえる。


 わたしにできること。

 わたしは、マングース。ハブを狩る、唯一の生き物。

 マングースなんて、ぱっと見はただのフェレットだ。その証拠に、わたしは中小路さんの腕にもう一度顔を預け、脱ぎ散らした浴衣に明日どのような皺が刻まれているのかなど気にもせず、彼に飼育されているような感覚を楽しむばかりだった。


 全ての女性がそうなのか、あるいは性別など関わりなくわたしがそうなのか、分からない。

 わたしの頭の中は、ふたたび始まったわたしたちだけの花火大会の最中でも、ある部分においてひどく冷めていた。

 わたしは、考えている。

 どうするのか。

 その方法は、それほど難しいことではない。

 ユウを使うのだ。ユウからの働きかけで秀一氏に、今まさに川島に持ちかけている土地売却の話がひどく不利なものであることに気付いてもらう。それを皮切りにすれば、かならず、先生の尻尾を捉えることができる。


 着付けなどできようはずもない浴衣の始末のことよりも、その具体的手段としてわたしの頭の中に明滅する言葉のうちのどれを用いてユウにまた連絡をつけようかということを、ずっと考えた。

 当然だろう。花火は、目の前で咲いた。見上げるばかりのものではない。それが叶うことがあるのだと、今夜、わたしは知ったのだから。

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