第六章 ハブの尻尾

花火

 中小路さんと会い、話をした。中小路さんはわたしに、先生のそばをできるだけ離れず、その一挙手一投足を観察し、なにか変化があれば直ちに知らせてほしいと言った。


 その言葉のまま、わたしは事務所の向かいの家の玄関先の紫陽花が咲いて、それが濡れて、散って葉っぱだけになってゆくのをただ見て、ふだんどおり事務所のアシスタントとして働いている。

 高木さんのお婆さんは元気で、わたしのために今も季節の花を並べてくれている。遊びに行くたび、あのときのことを感謝された。


 ユウからは、あれきり連絡がない。こちらからは気まずくて、連絡を入れられない。ふだんなら、梅雨明けの報道がテレビを横切った途端、どちらからともなく海だ、プールだ、バーベキューだと騒ぎはじめるものだが、今年の夏はどうやら騒がしいのは蝉だけになりそうだ。

 バーベキューの場でユウの職場の人や友達と知り合い、その中に素敵な人がいないかと探す必要もないし、ユウの運転で若狭の海まで行ってナンパされることを——ユウはともかく、残念ボディのわたしが声をかけられた試しなどないが——期待する必要もない。

 この夏は静かだ。今のところ決まっている予定といえば、八月に琵琶湖で開催される花火大会に、中小路さんと二人で行こうと約束をしたくらいだ。


 花火。真っ暗な夜の中、それを切り裂いて打ち上がり、轟音と閃光を伴い、わずかな間だけ咲く。

 そんな恋でもいい。横隔膜を揺さぶるその音と、視界を埋め尽くす色とりどりの光を感じられれば、それで。そう思うことで、わたしはこの胸の苦しさをどうにか処理している。

 なにせ、わたしと中小路さんでは、出来が違いすぎる。中小路さんはとても理性的で頭が良く、紳士で大人だ。楽器に例えるなら、チェロといったところだろう。ガチャガチャと一種類の音を鳴らすしか能のないわたしが共に旋律を奏でようとしても、どうしても調子外れになってしまうのは否めない。


 だけど、中小路さんは、それでもいいと言ってくれる。わたしを知ることができたことが、なにより嬉しいと。

 そんなことを言われれば、溶けたアイスクリームみたいになってしまっても仕方がないではないか。


「——もう、そんな時期だね」

 今日の業務が落ち着いたのでティーブレイクがてらパソコンで花火大会のサイトを見ていると、先生が覗き込んできて言った。

 先生があはれ、をかしの感性を持っているとはとても思えないから、花火の記事を見て感慨深いようなことを言うのが意外だった。

「先生は、花火は見に行かないんですか」

 なんとなく、問うてみた。怪しまれるわけにはいかないから、これまでどおり普通に接することを心がけている。

「そうだね。最後に行ったのは、いつだったろうか。東京にいた頃、隅田川の花火に一度行ったな」

「へえ、ご家族と?」

「いや、家族とどこかに行ったような記憶はないな」

 では、誰と。野暮だけれど、興味と、それと、情報収集のため、訊いてみた。

「うん、まあね」

「あ、もしかして、当時付き合ってた人。やだ、先生も花火デートとかするんですか。ロマンチック」

 思い切り茶化してやったが、先生は乗って来ず、喉を鳴らして苦笑いのようなものを浮かべるだけだった。


「万さん、いいかな」

 先生の声の色が、わずかに変わった。春くらいまではどんなときでも同じトーンでしか話さない機械人間だと思っていたけれど、さいきんは先生のわずかな変化に敏感になっているせいか、あるいはわたしにマングースなんてあだ名を付けたりしてある程度打ち解けて——先生の性格や経歴からして、人に簡単に気を許すと言う方が無理があるだろう——助手として認識しているからか、思考や行動の中に感情が存在するのだということを僅かに感じることができる。

 わたしはパソコンから先生の方に身体を向け、聴く姿勢を見せた。


「重要なことを言う」

 先生の物言いは職業柄か、いつもこう。あるいは、詐欺の経験から、相手に自分の言うことを浸透させる術が身体に染みついているのかもしれない。

「長谷川秀一氏のことだ」

 わたしは、この小さな心臓が不規則に飛び跳ねるのを悟られないよう注意しながら、何のことですか、と言いたげに小首を傾げた。

「おそらくこの夏の間か秋、あちらから接触があるだろう。そのとき、君に同行を頼みたい」


 今さら、改まって。

 接触というのは、おそらく、税の支払いが追いつかないのではないかと泣きついてくるか、話が違うと怒りをぶつけにくるかのどちらかであろう。

「そのとき、君は、アシスタントとして同行する」

 当然だ。もしかすると、先生は、ユウとわたしのことを気にして、気を使っているのか。先生に限ってそんなことはあり得ないと思うけれど、わざわざ当たり前のことを理由なく言うようなタイプでないことは明らかだから、混乱する。

「面談の間、全ての会話を録音しておくこと。何か想定外のことがあっても驚かず、つとめて冷静に。それを、君に頼みたい」

「——わかりました」

 分からないけれど、それくらいのことならできる。

 先生が何か企みごとをしていたとしても、わたしが犯罪の幇助をするわけではないなら、会話の録音と冷静を保つ努力をすることくらいは構わない。


 ふと思う。わたしは、ついこの前、お腹の中からマグマが湧いているような怒りを先生に対して抱いていたけれど、中小路さんのため、平静を装って日々を過ごすうち、やっぱり、先生を憎みきれずにいる。

 誰かを憎んだり恨んだりというのがそもそも好きではないからというのもあるけれど、紛うことなき悪人を前にして楽しくお喋りをしたりその感情に同調しようとするあたり、わたしはやっぱり一般人だ。

 いや、違う。

 女は怖いものなのだ。装い、取り繕うものなのだ。だからこそ先生と花火の話もできれば、脈絡のないお願いに対してネズミのような顔をして首を傾げたりすることができる。

 ——甘く見ない方がいいわよ。

 いつか、先生にそう言ってやる。そこまで思って、またわたしの思考のメリーゴーランドが制御を失っていると思い、焦点を先生に戻す。


「分かりました。けど、どうしてそんなことを?」

 無垢を装いながら、内心、中小路さんに伝えなくてはと思っている。

 先生が答えようと、鼻からほそく息を吸う。

 そのとき。

「こんにちはぁ」

 事務所の入り口のドアが鳴き、間延びのする京都弁が潜り込んできた。

「羽布先生、いてはるか」

 危険を恐れる鹿のように戸口に眼をやると、シワだらけのポロシャツに夏物のジャケットをだらしなく羽織った五十代くらいの男が入ってきている。

「いらっしゃいませ」

 遺伝子にでも染み付いているかのように立ち上がって笑顔を作るわたしに一瞥をくれ、男は先生に眼をやり、笑った。

「先生、お留守が多かったやんか」

「——税理士ですので」

「ほうか、ほうか」

 男は無遠慮に応接ソファに野暮ったいお尻を投げ与え、大あくびを一つした。

「あの」

 戸惑うわたしに黄色い歯を見せて笑い、

「お、美人アシスタントかいな。ええなあ、先生」

 と喜ぶ素振りを見せたが、眼は一切笑っていないから本心ではない——本心だったらこの人は間違いなく善人判定だけれど——と分かった。


「府警のモンです。太田、言います」

 わたしの戸惑いを感じたのか、太田と名乗る男は殺し屋のように眼を細め、汚いジャケットからそれを証すものをちらりと見せた。

 中小路さんのものとは、違うようだった。管轄やら何やらによって若干のデザイン違いがあるのか、どうか。

「いや、なに。心配せんでも逮捕しにきたわけとちゃうから」

 と太田は言うが、その眼には明らかに目の前の相手の隙を探るような色があった。


 もしかすると、中小路さんだけではなく、京都府警の方でも羽布清四郎を追っているのだろうか。だとするならば、この太田刑事は、先生をとして見、ここにやって来ているということになる。さらに口ぶりからするに、先生に接触したのはこれが初めてではない。顔馴染みと言ってもいいような空気感が、たしかにある。


 先生は、平然としている。一切の証拠を残していないと中小路さんは言っていたが、そのため逮捕などできるはずがないと確信しているのか。

「なんや、今年はえらい騒がしいらしいな、先生。ずっと大人しかったのになあ」

「特段に多忙であるとか、暇であるということはありませんが」

「ちゃう、ちゃう。ほら、分かるやろ。の方や」

 コの字というのが興嬰会のことを指すのだと、わたしでも分かった。どうやら、京都府警の方でも相当に深いところまで先生を追っているようだ。

 太田刑事は一目見て暴力団を長年相手にしてきたようなオーラがあるから、もしかすると、興嬰会の捜査をするうち、先生が浮かび上がってきたものかもしれない。


 先生は、なにも答えない。不用意に口を開けば足元を取られると思っているのだろう。

「まあええわ。せぇだい騒いだらええ。そのうち、ドボンや」

 太田刑事は自信に満ちた笑いをひとつこぼし、立ち上がった。

「しかし、経費節減もここまで来たら難儀やな。茶ぁも出んとは」

「あ——申し訳ありません」

 立ち上がり、無遠慮にあくびをする太田刑事に頭を下げるが、それに応えることはなく、また来るわ、とだけ言い、去っていった。


「今の刑事さんは——」

 当然の来訪に困惑しきったわたしに与えられるべき当然の権利を行使した。先生は、気にする風でもなく、

「べつに」

 とだけ言ったきり、パソコンを叩きはじめた。

 ガラス戸の向こうを、風が走っている。陽が傾いてきているのだ。時計を確認し、帰り支度をはじめるために先生の脇を通ったとき、ディスプレイに映し出されたものがわたしの視界に入った。


 今年の、隅田川花火大会の日程についてのホームページだった。

 先生の記憶にあるそれは、いったいどのようなものだったのだろう。天を、川面を埋め尽くす花火を、誰とどういう気持ちで見たのだろう。

 その花火は、もしかして、まだ先生の心の中で咲いては散りを繰り返しているのだろうか。夏の訪れも終わりも告げることなく、ずっと同じ場所に縛りつけるかのように。

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