動き出す

「人を尾けたり、気付かれずに近付くなら、もう少し足音を殺した方がいい」

 先生の顔に浮かぶ線が、ぱっと濃いピンクになった。わたしが背負う看板の光がそうさせるのだと思った。

「——で、どうしたの」

「い、いや」

「何も見てません、なんて。何か見ていないと言わないよ、普通」

 先生の声はいつも通り穏やかで扁平で無色で、それが、かえって不気味だった。

「秀一氏のことが、気になるんだね」

 内心、わたしはガッツポーズをしながら胸を撫で下ろした。先生自身のことを探っていることは露見していない——すなわち、中小路さんのことも——。


 仏様でもない限り、そんなこと分かるはずもないのだけれど、こちらが気構えてしまっている以上、常にそういう不安がわたしの周りを飛び交っている。先生の物言いや一挙手一投足が、それをさらに助長する。

 それはどうしようもないけれど、怯えていてはこういうは果たせないのだろう。心のシフトレバーの所在が不意に明らかになった気がして、それを思い切りドライブモードに入れた。


「ごめんなさい。どうしても、ユウのことが心配で」

 ユウの名前を出した。そのことが、わたしの胸に小さな刺となって痛みを与えた。

「秀一氏は、ユウの伯父さんは、どうなってしまうんですか」

 こうすれば、さも、友人を気遣うがため、その親族のことが気にかかっているかのようだ。


 嘘ではない。

 わたしは、嘘なんかついていない。

 わたしは、中小路さんのマングース。

 ハブを仕留めることのできる、唯一の。


「秀一氏は、もう終わりさ。少なくとも、来年の今頃には、ね」

「やっぱり、わざと税負担を」

「ああ。そう、彼が望んだんだ。多くを求めれば、それだけの代償を支払わなければならない」

 累進課税のことを言っているのか、それとも、もっと別の。思わず目を細めるわたしを見ることなく、先生は薄い唇を開け閉めした。

「彼は、彼自身の無知と欲と利己的思考により、身を滅ぼす。僕は、彼の望みのその先にある結果を見せるだけさ」

 先生の、天然パーマ。その奥で光る汚れた眼鏡。

 そういえば、先生のパーマ頭はいつも同じ調子で、たとえば普段の服装のだらしなさからすれば日によってひどい寝癖がついていたりしてもおかしくはない。


 ——もしかして、わざと。イケてない、つまらない男だと思われている方が、印象に残らない。正体を隠しやすい。


 冷たい確信をもって見てみれば、先生のパーマは癖毛ではなくわざと美容院で成形したもので、眼鏡はわざわざ毎朝レンズを触って指紋を付けているようだった。

「彼は、納税資金の確保のため、土地を売らざるを得ない」

 現実の話が、思考の遊園地のエントランスで順番待ちをしかけるわたしを引き戻す。

「しかし、土地はなかなか売れない。相続税の場合、期限はどうだったかな」

「相続の開始を知った日から、十ヶ月」

 その通り、と突然始まったクイズへの回答に頷く先生にちょっと鼻白みながら、わたしは次の言葉を待った。


「多額の税を納めなければならない。しかし、土地がなかなか売れない。ぎりぎりになって焦りが頂点に達したとき、降って湧いたようにもともとの設定価格よりも安い値段なら、という買い手があらわれる」

 そうすれば、秀一氏は間違いなくそれに飛びつく。そうして、多くのものを、安くで売り払い、気付いたときには何も残らない。

 そういうことだろう、とわたしは思った。しかし、先生が星座の星のように途切れ途切れに、それでいて規則性をもって並べる言葉は、わたしの想像を超えていた。


「多くを売った。失った。それでも、足りない。間に合わない。そうすれば——?」

 わたしは、背中の毛が逆立つのを感じた。

 納付期限に間に合わない場合、支払うべき税額に五パーセントがさらに割り増しされ、かつ、税の申告に用いるさまざまな軽減制度が使えなくなる。

 それは、秀一氏では、とても払えるものではない。そうなれば、また別の土地を売るなりして対応せざるを得ない。

「何もかも手放すか。売却が、それで間に合うならね。そうでなければ」

 また、興嬰会の繋がりなど、光の当たらない筋からお金を借り、対応する。

 もしかしたら、先生は、そこから興嬰会の資金の流れに切り込もうとか、そういうことを考えているのかもしれない。


 わたしは、見た。まだ見ぬ未来のことを。そこで、人が一人、終わるのを。

 秀一氏だけではない。あの綺麗な奥さんは。少し影を帯びたような印象だった。あの元気そうに脱ぎ散らかした運動靴の持ち主は。おそらく、高校生くらいの娘。その将来は。未来は。

 人が一人破滅するというのは、その個人だけの問題ではない。それに連なる多くの人が、同じように破滅するのだ。

 それを、先生は。

 先生は、分かってやっているのか?

 いや、問うまでもない。

 そこまでして、はじめて破滅なのだ。


 ハブ、などというそれらしい通り名が、この際邪魔でしかないと思った。

 これは、羽布清四郎。かつて数々の詐欺をはたらき、一切の証拠を残さず消えた男。それが今京都の街に、そしてわたしの目の前にいる。そのことを痛いほどの実感をもって認識することができた。


 中小路さんは、この人を追っている。正義のために。

 人に褒められるようなものではないけれど、にはそれなりの正義があって、だから、その動向を逐一報告することに後ろめたさがなかったわけではない。

 だけど、違うんだ。それは、わたしの甘えなんだ。先生だって、言っていた。


 ——この世には、裁かれざる悪が多すぎる。


 今目の前にしているそれが、まさにそうだ。

 復讐。報復。断罪。贖罪。大義はいくらでも立つ。だけど、その中で、人の内側のいちばん大事なところで、決して折れず、曲がらず、燦然と輝くなにかが無ければならないのではないか。

 それ無くしては、どのような大義も、ただの言い訳にしかならないのではないか。

 わたしはそこまで強くはないし強くなれそうもないけれど、たとえば中小路さんにはそれがある。

 だからこそ、あの人はたった一人で痛みと孤独に耐えて、これまで何年も羽布清四郎を追ってきた。


 また、先生自身、こうも言っていた。先生が正義の味方かと茶化すわたしに向かって、


 ——悪人さ。


 と。

 そうなのだ。

 先生は、自分で分かるくらいに悪なのだ。無自覚にそれをするような生易しいものではなく、悪と認識した上であえて行う類のものなのだ。


「君の友達は、僕を恨むだろうか。君が気にしているのは、そのことだろう?」

 この無神経め、と腹が立った。そう思うということは、まだ心のどこかで理解を求めているのだということであり、そういう甘えというか弱さを抱える自分を恨めしく思った。


「安心するといい。もし君の友達がこれからのことを恨みに思ったとしても、その対象は僕だ。君じゃない。君は、しっかりと彼女に誠意を持って向き合っていればいい。そうすれば、分かってくれるさ」

 中小路さんみたいなことを言う。

 どの口が、それを言うのか。

 わたしはこれ以上この場に立っていられなくなり、先生を無意味に睨み付け、駆け去るしかなかった。



 鴨川の音。肩を寄せ合う影も、少なくなってきている。さっき中小路さんと並んで座ったところにまで戻ってきて、息も整わぬまま、立ち止まったことにより噴き出してくる汗にお気に入りのブラウスが湿ってゆくのにも構わず、スマートフォンを握りしめる。

「——もしもし。どした?」

 世界で一番、安堵する声。わたしは正しいのだと確信させてくれる声。それを聞いて、ようやく湿度の異様に高いこの時期の京都の空気を吸い込める。


「中小路さん。動き出します。羽布が。川島という不動産屋を使って」

「詳しく、聞かせてくれ」

 中小路さんはわたしの整然としない説明を懸命に拾い上げてくれ、今さっきわたしが見聞きしたことを自分のものにしてくれた。

「いよいよか。その川島が、糸口になるかもしれない」


 動き出した。

 先生が直接詐欺行為をするわけではないけれど、詐欺があることが予見できながら、むしろそれを幇助するような目的で川島に話を持ちかけるどころか、先生がしようとしているのは、詐欺行為の依頼だ。

 これは、十分に罪になる。

「ようやくだ。ようやく、尻尾を掴めるぞ」

 中小路さんの声が、スピーカーを通してわたしの鼓膜を揺らす。だけど、その言葉は、わたしには向けられていない。なんとなく、そう感じた。

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