飛沫
先生の要望どおり、ユウと、そのお父さんと面談することができた。お父さんは事務所まで来ると言ったが、わたしたちの方から自宅を訪問した。
会社員であるお父さんが帰宅してからの時間。先生は、しっかりと手当を付けてくれる。
「申し訳ありません、こんな時間に」
「いえ」
先生は淡々と返し、応接ソファの脇に置いた鞄から資料を取り出し、説明をはじめた。
「お父様の固定資産の課税台帳があればよかったのですが、今回はあくまで概算ということで。数字は、目安としてお考えください」
その数字とやらを見て、ユウのお父さんは言葉を失っていた。
「その数字は、お父様が亡くなられ、その資産を相続人様がたが継がれる場合の、税の総額です。誰が何をどれほど継ぐかでそれを
「そう、ですか」
資産家の子供というわりに、ユウのお父さんはピンと来ていないらしい。それだけ、伯父さんが幅をきかせているのだろう。
「つまり」
そんな様子を見てか見ずにか眼鏡が汚れていて分かりづらいが、先生はなにかを補填するように言った。
「多くを求めれば、多くを奪われる。そういうものです」
その言葉に凄味があるように思えて、依頼人を驚かせてどうする、とわたしは冷や汗をかいた。
先生の様子は、ほんとうにいつも通りだ。当たり前である。わたしが、先生の挙動や言動を中小路さんに毎日報告していることなど、知るはずもないのだから。
あれから、二度、中小路さんに会った。電話は、二日か三日に一度。メッセージは毎日。
声を聴くたび、心が静かになって、それをとても騒がしく感じる。
メッセージの一文字にすら、あの少年のような笑顔が隠れているような気がして、ついわたしも微笑んでしまう。
ましてや、目の前に中小路さんがいるときなんて。
わたしが憧れのような好意を──とつとめて思うことにしている──抱いているのが伝わらないはずはないのに、無邪気に笑い、言葉の端々に特別な光を宿す。
中小路さんも、わたしに好意を持っているのだろうか。たしかに年齢は若いかもしれないけれど、たいして美人でもなく、スタイルも残念なわたしなんかより、もっと大人の女性が似合うように思うから、喜びきれないものがある。
がさつで、おしとやかさとは無縁。女性らしさも勿論ない。小学生のころ、休み時間は女子たちに混じって何かするより、男子と一緒になってドッジボールというような子供だった。
だけど、分かる。中小路さんは、わたしを特別だと思ってくれている。
先生のそばにいるからか。税理士という立場で悪者に近づいて、法で明かされない行いをする先生の、助手だからか。
それでもいい。
そうだったとしても、構わない。
わたしは、中小路さんのために何かをしたい。
そして、それは、正義でもある。
「──万さん?」
はっとした。先生が、うわの空のわたしに呼びかけている。
「委任状を」
「ああ、すみません」
依頼者訪問の際には助手としていつも持ち歩いている、行政発行の証明書などを代理で取得するための委任状。その一枚を取り出し、テーブルの上に置いた。
「さらに詳しい計算が必要であれば、こちらにご記入いただき、お戻しください。我々で必要なものを取得します」
「わかりました。兄に、相談してみます」
中小路さんに報告するのは、どんなことでもいい。今日のこのことも、報告するつもりだ。どういう内容にしようかとまたわたしの思考が遊びはじめたとき、窓の外で雨が強く降りはじめた。
ガラスを叩く雨。それを切るような、先生の声。
「長谷川さん」
ユウのお父さんは、話がひと段落したものと思い、提示された資料などを手元にまとめていた。
「もし、お兄さんが全てを欲するなら、あなたは、どうされますか」
「わたしは──」
長谷川さんのお父さんは、ユウを見て、固い唾を飲み込み、また先生に向き直った。
「わたしは、構いません。わたしが願うのは、この子や妻に不自由や辛い思いをさせないことです。権利を主張して兄といたずらに争い、彼女らを傷付けるくらいなら、わたしは、何も求めない」
わたしの家族は、彼女たちなんです。ユウのお父さんは、とても強く、美しいとさえ思える瞳を向け、そう言った。
「そうですか。分かりました」
先生は是とも非とも言わずに立ち上がり、傍で固くなっているユウにちらりと眼をやり、それから一礼してドアノブに手をかけた。
「これで、依頼はひと段落だね」
本格的な試算や、申告の依頼は受けていない。あくまで、相談の範疇だ。だから先生の言う通りひと段落なのだが、なんとなくわたしは尻の落ち着かない思いを抱いている。
ユウの家のある細道をゆき、大通りを目指す。そこなら、タクシーが行き交っている。
「睦美。先生」
わたしたちを、呼び止める声。ユウだ。雨の中、追いかけてきたらしい。
「ユウ。どしたの」
「変なお願いしちゃって、ごめん。迷惑だったよね。先生も、申し訳ありません」
「いいの、気にしないで。また力になれることがあれば──」
「長谷川さん」
わたしを遮り、先生がくぐもった声を上げる。その色がどちらのものなのか、わたしは注視した。
「伯父さんが、憎いですか」
ユウは、雨の中、その一粒と同じように目を丸くした。もともと猫系の可愛い顔をしているが、そうすると、ほんとうに猫みたいで、思わず頭を乱暴に撫でたくなる。
しかし、その目はすぐに強い線を描き、それが唇に伝わっていった。
「──憎いです。とても」
「なにやら、お父さんを助けることより、伯父さんの理不尽への怒りの方が強いように感じました」
「だって」
ユウは、吹き出した。こういうとき、彼女は笑うことが多い。
「おかしいじゃないですか。ただ長男に生まれたからといって、自分のものでないものまで全て自分のものだと思い込んで。かといって、お爺ちゃんを敬って大切にしてきたわけでもなく。あの人がいるせいで、お父さんはずっと虐げられ、辛い目に合ってきたんです」
「伯父さんが破滅する以外、どうにもならない。そんなところですか」
ユウは、はっきりと声を上げて笑った。
「そう。そうなんです。ほんとそれ。あの伯父が消えて無くならない限り、うちの父親はずっとあれの顔色を気にして、主張しなければならないことも主張できない。今回の相続だって、どうせ、いらない土地ばかり押し付けてくるに決まってる」
お爺さんが持っていた土地には、親戚筋との共有名義の土地なども多い。ほかには、古い借家が建っていて、質のよくない入居者がいるような場所もある。そういうところばかりを父に押し付け、自分は高く売れるようなところと現金ばかりを手に入れるつもりに決まっている。
ユウがまくしたてるようにそう言うのを、先生は傘の奥でずっと聴いていた。
ひととおり毒を吐き終わったのを見て取って、
「よく降ります」
と、関係のないことを言いだした。
「自分の権利よりも、家族のことを心配する。いいお父さんじゃないですか。大切にされるといいでしょう」
「言われなくても、分かってます。大好きな父なんです」
「そのようですね」
先生は傘に守られながら会釈をし、濡れたアスファルトを鳴らした。
「じゃあ、ユウ。また連絡する」
「うん。ほんと、ありがとね」
言い交わし、足早に先生を追う。
自分で跳ね上げた飛沫が、靴下を濡らすのを感じた。
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