マングースの涙

 身を固くして、それでいて拒むことはできず、わたしは流し込まれた言葉が血管を駆け回るのをただ感じるしかなかった。

 中小路さんはそっと身を離し、うんとも嫌とも言わないわたしに静かな笑みを送り、

「即答はしなくていい。だけど、正義のため、多くの人を救うため、助けてほしい」

 と言い、バーのマスターに向かって目配せをし、お会計をした。


 手についたホットケーキミックスのように、いつまでもべたべたとわたしにまとわりつく言葉。

 甘く、バニラエッセンスの香りのする誘惑。

 再び先斗町に出たとき、中小路さんは手帳を取り出して何かを書き付け、わたしに手渡してきた。

 電話番号。

「メッセージちょうだい。俺が言ったこととは関係なく、またご飯に行こう」


 ちょっとはにかむようにして笑う顔がやっぱり少年みたいで、慌てて眼を伏せるしかなかった。

 幾つなんだろう、と思ったが、訊くタイミングを逸している。たぶん、先生と同年代か、少し上くらいだろう。

 年上の、大人の男の人と夜の街を並んで歩くということ自体がわたしにとっては未知の体験で、息がうまくできなくて、夜になると急に冷える京都の街を駆ける風に溺れてしまいそうな気がした。


 先斗町から木屋町方面へ。腕の時計は、九時ちょうど。

 雑踏が、わたしを追い越してゆく。だけど、中小路さんは、わたしのパンプスがアスファルトを鳴らすのに合わせて、スニーカーを歩ませている。

 ちらりと眼を上げてみた。

 ん?という視線が返ってきて、慌ててかぶりを振ってマンホールにそれを落とす。


 なんてざまだ。ユウが見たら、笑うだろう。

 こんな歳の離れた人に。こんな、会って間もない人に。

 わたしは、ときめいている。

 中小路さんはわたしが見たことのある馬鹿で子供で自分勝手で甘えん坊の同年代の男子と違う。だから、わたしも生き物である以上、仕方のないことなのだけれど、それにしても、それにしても──。


 今ここで触れられでもしたら、わたしは終わる。はっきりとした、そういう確信がある。だから、全身の毛をハリネズミみたいにして警戒しながら木屋町通りを北上するという作業に集中した。


 河原町通りと木屋町通りを繋ぐ細道は、高瀬川を橋でまたいでいる。何本目かのそれを通り過ぎようとしたとき、前方の景色が急に変わって、ふと眼を上げた。


 男が二人。スーツを着ている。いや、中小路さんがはっとして振り返るのを眼で追うと、後ろにももう二人いた。

「やれやれ──」

 中小路さんは鷹揚にため息を繁華街の闇に浮かべると、わたしの手を取って強く引いた。


 びっくりするほどの力。わたしに命令をし、行動を決定づけるような。

 くるくると踊り、中小路さんに引き寄せられ、そのまま駆け出すのに必死で続いた。

「あ、逃げよるぞ」

 追ってくる男。

 道脇で客を降ろしたばかりのタクシー。

 一直線に、それを目指す。

「河原町通りを北へ。とにかく、出して」

 運転手にそう言い、後部座席にわたしを放り込む。そのとき、固く握られていた手がぷつりと途切れるように離れた。


 中小路さんも乗り込んでくるものと思い、道路側の席にお尻を滑らせる。そのとき、閉まりかけるドアから、一万円札が放り込まれた。

「中小路さん!」

「いいさ。どうせ、申告しない所得だ」

 タクシーは走り出す。どうしてか、止めて、とは言わなかった。

 ただ、男たちの群れの前に中小路さんが立ちはだかるのを、後ろの窓からずっと見ていた。


 教えてもらった電話番号にメッセージを送ろうと何度かスマホを点灯させたが、車幅の狭いタクシーの振動をひとつ感じる度、ためらうような気持ちが生まれた。


 中小路さんは、わたしを助けてくれた。

 刑事さんなんだ。先生をずっと追い、逮捕の機会を伺って、京都にまでやってきたらしい。警察の内部組織のことは分からないけれど、管轄を越えて行動できる立場の人なんだろう。


 どうしよう。

 中小路さんがわたしに依頼したのは、先生の行動や動向をリークすること。先生の助手でありながら、それを売るような真似をすることになる。

 だけど、中小路さんは、正義の人だ。

 先生によって被害を受けた人が、あまりに多くいるという。その人たちのため、正義を執行しようとしている。


 どうしよう。

 わたしは、明らかに、中小路さんに好意を抱いている。

 あの男たちに取り囲まれた中小路さんは、今頃どうなっているのだろう。

 わたしへの依頼のことよりも、中小路さんの身が心配だ。だから、はっきりとこの好意を自覚した。


 ──あとで、電話していい?

 わたしを北へと運ぶ車内、中小路さんではなく、ユウにメッセージを。わたしを頼ってくれて、それに応えたいと思っているけれど、わたしが頼るのもまたユウなのだ。


 自宅から最寄りの地下鉄の駅を通り過ぎ、バス停を越え、タクシーはわたしの小宇宙の前で停車した。

 中小路さんから借りた──と強く思うことにした──お金で代金を支払い、剥がれかけたアスファルトに足を下ろす。

 鉛のようになったそれをどうにか旋回させながら、自分の部屋へ。


 スマホが鳴る。ユウからだ。

 ──今、掛けようか?

 そのメッセージをわたしが受け取ったのを確認したであろうユウが、すぐに着信を入れてきた。


「あ、もしもし」

「あー、睦美。今日はありがとね」

「ううん、こっちこそ」

「で? どした?」

 ユウは、やっぱり察している。わたしが、助けを求めていることを。

 それが分かったとき、何を相談すればよいのだろうと思った。先生が詐欺の容疑で警察に追われていることか。その警察に、スパイになってほしいと言われたことか。

 さすがに、それは言えない。


 言えることといえば。

「ねえ、ちょっといいなと思う人がいるんだけどさ」

「はあ? 何よ、いつの間に」

「いや、ちゃんと話したのは、今日がはじめて」

「なにそれなにそれ、ワンナイトラブ?」

「馬鹿。ちがう」

 わたしの話したいことというのが大したことではないと思ったのか、ユウの声が明るくなった。


「相手は、どこの誰よ。うちの睦美をたぶらかしたんだ、つまんない男だったらぶちのめすからね」

「だから、そんなんじゃないって」

「じゃあ、どんなのよ」

 大人の人。優しい。とても重要な秘密を共有した。それを耳元でそっと囁き、甘い危険に誘ってきた。だけど、ほんとうの危険が迫ったとき、我が身を盾にしてくれた。

 そんなことを、おはじきを散りばめたようにして話した。

 それでね、と継ぐわたしを、ユウは遮った。


「──泣いてるの?」

 言われて、はっとした。

 泣いている。わたしは、泣いている。

「心配で。心配で──」

「あんたさ。何があったのか知らないけど、わたしじゃなくてその人に電話すれば?」


 どうしてそれをせず、ユウに連絡をしたのだろう。

 もし電話をして、繋がらなかったらどうしようと思っているのだろうか。繋がらなかったら、あの男たちに取り囲まれ、連れ去られてしまっている可能性もある。

 そうなったら、わたしは。

 わたしは、恐れている。中小路さんがわたしのせいで傷付くのを。

 さらに、迷っている。彼がわたしにした要請を受け入れ、に行くのかどうかを。

 そして、期待している。彼がわたしに流し込んだ甘い甘い毒に逆らうことができぬようになり、全て委ねるしかなくなってしまうことを。


 そのあと、五分ほどユウは世間話や自分の父や伯父の話をし、わたしたちの通話は終わった。彼女は、わたしたちの関係における彼女の役割をいつも完璧にこなす。

 わたしのスマホは力を失うことはなく、そのままメッセージの画面を映し出している。

 そのとき。


 ──大丈夫だった?

 中小路さんからのメッセージ。わたしの二つの目を奪って、捕らえて離さない。

 ──無事に帰れた?

 さらに続けて。

 わたしは、無我夢中で通話ボタンを押した。鉄の錠前のように重く感じるそれをほどき、開き、その向こう側から差し込む光に思い切り手を伸ばしたいと願いながら。


「おお、よかった。無事か」

 中小路さんは開口一番、安堵の声でスピーカーを揺らした。それがわたしの中に入ってきて、耳の奥の、胸の、血の脈の打つところに響いて、さらにわたしを揺らした。

「中小路さんは。中小路さんは──?」

「俺は、たいしたことない」

「怪我、したんですか」

 たいしたことないと言うということは、たいしたことのない何かがあったということだ。

 わたしは、誰もいない部屋の中で毛を逆立てた。


「睦美ちゃん。今日言ったこと、やっぱり忘れてくれ。君に危険が及ぶのは、困る」

 そんなこと。そんなこと、言われたら。

 わたしに危険が及んだって、中小路さんには何の関係もないはず。わたしがそうだったように、わたしがこの世に生きて息をしていることなんて、知らなかったくせに。


 そして、それは、わたしも同じ。

 中小路さんがこの世に生きて息をしているなんて、全く知らなかった。この人がどんなに優しくて、強くて、美しいかなんて、全く知らなかった。

 この人がどんな声でどんな言葉を吐いて、どんな香りを残して歩くのかも、全く知らなかった。


 だけど。だけど、わたしは知ってしまった。

 だから、中小路さんに、わたしに危険が及ぶと困る、なんて言われれば、困る。

 スマホに向ける息が熱い。わたしの中にあるものの熱。幸いなことに、スマホにはそれを相手に届けるような機能はない。

 だから、わたしは、思い切り熱い息を吐き出すことができた。


 それは、言葉。

「いいえ」

 ん、と中小路さんが喉を鳴らす。それすら、スピーカーからこぼれてしまうのが勿体ないように思えて、思わず手を伸ばしてすくい取ってしまいたいような気持ちになって。

「やらせてください。わたし、やります」

 おとうさんも、おかあさんも、ユウも、知っている。こうなったとき、わたしは最も強く、そして脆くなる。


「ほんとうに、いいの?」

 中小路さんが、確かめるような声を向けてくる。

「忘れてほしい。もし、君に何かあったら、俺は──」

 俺は、何なのか。その続きを、お願いだから言わないでほしいと思った。言われてしまえば、わたしは、もう駄目になる。

「──一生後悔する。羽布の周りにいるほかの誰かならともかく、君は、駄目なんだ」



 先生、ごめんなさい。

 わたしは、あなたを狩るマングースになります。



 ほそく息を吸って、吐いて、吐いて、吐いて。

「わたしにしかできないんです。いいえ。そうじゃなかったとしても、わたしは、あなたを助けたい。あなたの役に立ちたい」

「睦美ちゃん──」

 中小路さんが、柔らかい声をそっと置くように発した。遠くにいるのに、まるでここにいるみたいだった。

「──泣かないで。ね?」

 わたしの言ったことについて何か言うのではなく、わたしが泣いてしまっていることを気にかけてくれた。そこに、ほんとうの優しさとあたたかさがあるのを感じた。


 それは、わたしに、この人のために何かをしたいと思わせるには十分だった。

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