ハブを狩るもの
我慢ができない。言い出したらきかない。おかあさんに、何度そう言われたことか。
物事の前後と順序をよく考えること。おとうさんに、いつもそう言い聞かされていた。
おとうさん、おかあさん、ごめんなさい。睦美は、悪い子です。
言いながら、実際、わたしの思考は長野の実家に遊びにいっている。先生がタクシーに乗ったのを確認し、あわててわたしも後に続くタクシーを拾い、それを追う。
京都で有名なタクシー会社。クローバーのマークはお馴染みだが、わたしが拾ったのは四つ葉だった。
どんなラッキーがあるのか知らないけれど、不思議と、そういうことに気付く余裕は失っていないらしい。
タクシーは、市役所前へ。その昔、長州藩邸がこのあたりにあったのだという。京都というのは歴史の街という印象があるが、実際に暮らしてみると、歴史にゆかりのある場所など案外気付かずに通り過ぎているものだ。
後部座席から先生が吐き出され、事務所で履き替えた靴を河原町御池の交差点から東に向ける。
お釣りはいらない、と言いたいところだけどしっかりと受け取り、大股でそれを追う。先生は野生のシマウマかと思うほど気配に敏感だから、距離は大きく取ったままだ。
河原町を渡り、交差する御池通を南に。京都の街では考えられないほどの高層建築物である向かいの有名ホテル──その展望レストランでディナーをご馳走し、わたしを楽しませてくれる男性はおそらくこの街のどこを探してもいないだろう──に見劣りのするビル達を通り過ぎ、木屋町に入る。
高瀬川のほとり。整備された歩道。木屋町通りは飲み屋街として有名だが、御池から三条まではわりあい静かなものだ。
その東側、細い路地の奥に、先生は入っていった。どうやら、その先にはわたしの知らない高級な料理屋があるらしい。
さすがに中に入るわけにはいかない。どうしようか考えあぐね、路地に足を踏み入れ、店の構えを窺ってみる。
所得と生活水準というバリアがわたしを十分に跳ね返すような構えに気負けて、木屋町通りの方に戻ろうとする。
「──あれ」
店に入る客のためにわざわざ設置されたのであろう、玉砂利と踏み石を軽快に鳴らす足音と声が、わたしに眼を上げさせた。
「睦美ちゃん」
マングースちゃん、と呼ばれなかったのが辛うじての救いだが、中小路さんに出くわしてしまった。
中小路さんはいかにも怪しげな挙動を見せるわたしを訝しがることなく爽やかに笑い、
「ちょっと遅れちゃった。もう、先生は来てるの?」
と言ってわたしを促し、店内へと押し込んだ。わたしの背にあてがわれた大きい手のひらの温度と圧力に、抗うことはできなかった。
店内は薄暗く、いい感じの暖色系の照明が足元を照らしていた。中小路さんは当たり前のような顔をしてわたしを連れて進み、奥の個室の障子を開く。
「ごめん、羽布さん。ちょっと遅くなった」
「いいさ。どうせ、金曜だ」
「いいなあ、税理士先生は。土日祝休み、盆暮れ正月ゴールデンウィークも休みってか」
「本業の方は、相変わらず忙しいか」
「所詮、地方紙だからな。こき使うだけ使われてるさ」
何てことのない会話が重なるほど、わたしは掘りごたつの隅で小さくなった。
「──で、なんでいるの」
先生の平らなイントネーションが、わたしに向いた。
「あれ、睦美ちゃんも一緒に、じゃなかったの?」
中小路さんの声が少し高くなり、思い違いを隠すようにして笑った。
「いや、べつにいいけどさ。万さん、なにしてたの」
「──あ」
先生を尾けていた。どう考えてもバレている。だけど、それを堂々と言ってやれるほど、わたしのメンタルは強靭ではない。理由なく放たれたその母音を処理できず、そのまま何かの単語にして繋げるしかない。
「相席居酒屋に」
行こうと思って。
よりにもよって、最悪の答えだ。先生は、ああ、そう。とぶっきらぼうに肯定し、中小路さんは目をリスみたいに真ん丸にしている。
最悪だ。いくら彼氏がおらず出会いもなく引き取り手がないからといって、その返答はないだろう。
べつに相席居酒屋に行くこと自体は何ら悪いことではないけれど、わたしがそれを言うと残念すぎる。
「睦美ちゃん、彼氏募集中?」
中小路さんは、わたしの居辛さを救おうとしてくれているのかもしれない。明るい声を上げ、おもしろおかしく茶化しはじめた。
なんとなく、それに掴まってこの高級そうな個室を満たすものの中に浮かぶしかない。
「──羽布さん。どうしようか」
いい人かもしれない、と眼を向けるわたしのことだ。先生の顔色を聴くようにして、傍に置いたカバンをあごで指した。
「べつに、構わないさ」
中小路さんは先生がそう答えてから、じゃあ、とカバンに手を差し入れた。
取り出されたのは、また封筒。受け取った先生はそれを開け、中身を確認する。
「さすが、仕事が速いな」
「新聞記者なんて、頭巾か蓑みたいなもんさ」
「古い言い回しだ」
中小路さんは記者をするかたわら、先生に情報提供をしていると言ったが、その記者という職業自体、世をしのぶ仮の姿なのかもしれない。
ほんとうは、もっと、地下の。京都の街を縦横に貫く地下鉄よりも深い世界の。そういうところに、住んでいるような。そういう陰が、目鼻のはっきりとした顔に浮かんでいる。
「あんたの予想どおりだ。興嬰会がらみってわけさ」
先生が中小路さんに依頼したのは、ユウの伯父である長谷川秀一の身元洗い出し。デスクで手にしていたのは、興嬰会の周辺関係者のリストの一部。
「ケチな奴さ。親の金で遊び、たいした仕事もしていない。興嬰会に囲われ、かろうじて息をしている。そんなところかな」
「──らしいな」
「小物だ。放っておけば?」
「いや」
先生の眼鏡が、やわらかい照明を吸い込んでいる。
口元。ほんの少し、笑っている。ようやく、それが笑顔なのだと分かるようになってきた。
「潰すさ」
あたらしい獲物が決まったというわけである。それがユウの伯父さんであるということが引っかかるから、場の空気に呑まれてしまう前に、息継ぎをするように言葉を発した。
「ユウの伯父です。手荒なことは」
先生は、意外だと言いたげな視線を向けてきた。
「依頼者の希望とも、合致する」
「そんな、ユウは何も」
「言いやしない」
あたらしいカッターナイフがわたしに向けられているような。
首に力を入れたまま、動けない。
「言いやしないさ。だけど、依頼者の希望は、伯父の破滅。いや、伯父がこの世から消えて無くなることと言ってもいいんじゃないの」
言い返すことができない。
伯父が理不尽なことを強要している。それが許せない。それがユウの相談であるはずだ。
父にどれくらいの負担がかかるのか、知っておきたい。そういう話ではなかったか。
しかし、その背後には、明らかな伯父への憎悪と理不尽への怒りがあった。たしかに、わたしも感じた。
「父の救済。それはもちろんだろうさ。だけど、そもそも、伯父さえいなければ。これは、そういう種類の話なんじゃないの」
先生のこの口調がわたしに向いている。慣れないうちは、妙な気分になる。じっと唇を噛み、耐えるしかない。
わたしがもう何も言わなくなったと見た先生の視線は、中小路さんの方へ。
「くじ引きみてえなもんだ。小物だろうが何だろうが、当たるまで引き続けるさ」
「──大した執念だ。そんなに、憎いのかい」
先生は答えず、鼻を小さく啜った。
「ま、俺は情報料さえもらえれば、それでいいんだけど」
中小路さんはそれ以上話題を続けようとはせず、テーブルの上に放置されているお通しに箸を伸ばしはじめた。
そのあとは、中小路さんが注文したコース料理が運ばれてきて、夢中でそれを食べた。色々なことが去来してはいるけれど、高級な料理屋の味にわたしの精神は支配され、美味しい、これも美味しい、こんなの見たことない、と感嘆の声を知らずと上げ続けた。
「よく食べるなあ、睦美ちゃん」
中小路さんはわたしの食べっぷりがおかしいのか、笑顔を向けてそう言い、世間話程度に地元のことや出身校など、わたし自身について色々訊いた。
不思議と、質問されるのが快い。聞き上手なのだろう。もっと話したく、いや、聞いてほしくなり、次々と聞かれもしないようなプライベートのことを話すわたしを、先生の視線がときどき射っていた。
「じゃあ」
先生は、食事が済むと、そのまま街灯が作る影に滲むようにして消えた。
「おいおい、なんて先生だ。万さん、駅まで送って行くよ。京阪かな。いや、地下鉄?」
「市役所前から、地下鉄に乗ります。すぐ近くですから、大丈夫ですよ」
と言いながら、わたしはもう少し中小路さんと話したいような気になっている。
「そう。じゃあ、ここで」
中小路さんは呆気なくそう言い、三条通り方面──おそらく、タクシーか京阪を使うのだろう──に向かって足を向けた。
ちょっと残念な気がして、だけど別に何を期待するわけでもないから、市役所前の駅を目指すべく北を向いた。
二歩か三歩歩いたとき、高瀬川のしずかな流れに似つかわしくない大声がわたしを引き止めた。
「睦美ちゃん」
驚いて、振り返る。
中小路さん。こっちを見ながら、笑って呼びかけている。
「よかったら、もう一軒どう?」
その笑顔が、どうしてか子供みたいで、わたしも笑った。そうすると、わたしの足は吸い込まれるようにして中小路さんの方へ進んでいった。
二軒目。木屋町から先斗町に抜け、その一角のバー。ユウと一緒のときでも、ハシゴなんてしないのに。
「いいんですか。こんな高級そうなところ」
「いいさ。どうせ、申告しない所得だ」
ブラックジョークを言いながら慣れた様子で扉を開き、わたしの実家のあたりの夜くらいに暗い店内にわたしを誘い入れる。
その甘い、甘い香りの闇が手を伸ばしてくるのが見えて、それにどうしても抗えなくて、太ももの内側が痺れるような感覚になった。
「ごめんね、時間、大丈夫?」
時間なんて。そう言おうとして、続きがどうしても見当たらなくて、あいまいに笑って中小路さんを見た。
席につくと、中小路さんは小さく鼻でため息をついた。
「気付いてた?」
「え?」
「さっき、睦美ちゃんが行こうとしたとき、道脇からスーツの男が二人出てきて、あとを尾けようとしていた」
だから、わたしを呼び止め、細道に入り、さらにこの時間は人通りの多い先斗町に抜けて尾行を撒き、あたりをうろつく者がいなくなるまでの避難所として人目につかないバーに連れ込んだ。
全然、気付かなかった。中小路さんは、わたしを守ってくれたのだ。
「睦美ちゃん。羽布さんからは、手を引いた方がいい」
どうして。訊こうと思ったが、訊くまでもなくて、やめた。
「危険すぎる」
そのとおりだ。ふつうの二十代女性が体験しようもない恐怖と危険が、すでに降りかかっている。
「いい子だから、もう、羽布さんとはこれっきりにした方がいい。君の身があぶない」
分かっている。危険を知りながら、わざわざ首を突っ込むことはないのだ。
わたしには何の力もなく、知識もない。誰のことも、守れない。だから、先生が何をしようとしているにせよ、わたしがここにいること自体、わたしの独りよがりなのだ。
分かっている。
分かっている。
だけど、ユウ。高木生花店のおばあさん。川合商店の社長。わたしの目にうつる多くの人が困り、苦しみ、助けを求めている。
──法で裁けぬ、悪がある。
陽の光のもとではそれは悪ではなく、大手を振ってこの街を歩いている。
ブラックライトのようにそれにある種の光を当て、いや、闇に浮かべてはじめて見えるものがある。
そういうものへの、制裁。
清らかなものへの、救済。
法がそれを完全に行うものではないのなら、何かでそれは補完されるべきではないのか。
そう思う。同時に、わかっている。
わたしではないと。それをするのは、わたしではないと。わたしは、何も知らず、何も見ず、ふつうに騒がしく生きてゆけばよいのだと。
わたしには、先生のような牙も毒もないのだから。
諦めようと思った。
だけど、諦めてはいけないとも思った。
そんなわたしを、中小路さんは、ただ穏やかな線を口許に浮かべて、じっと見ていた。
「諦めきれないね」
やがてその穏やかさは声になって、わたしの前のノンアルコールカクテルを揺らした。
わたしの身体が、指でつつかれたイソギンチャクのように縮まる。
大人の男の人のにおい。甘い、花のような香水の香り。
「わ、わ──」
中小路さんが尻を滑らせてわたしに寄せ、腕を回してそっと包み込み、くちびるを耳許に触れるか触れないかのぎりぎりに近づけ、なにか言おうとしている。
ああ、この人が蛇なら、どんな毒を持っているのだろう。その味は、この首筋に流し込まれてはじめて見ることができるのだろう。
噛みつかれるのが分かる。それを拒むことは、なぜかしない。
わたしは、期待している。その牙が突き刺さり、毒を。それがゆっくりと、とてもゆっくりと、わたしを溶かすことを。
言葉。温かい。体温を感じる。そういう種類の、毒なのだろう。
中小路さんが囁いたのは、そんなわたしの期待と陶酔のジグゾーパズルを完成させる最後のピースとなるようなものではなかった。
「──協力、してくれないかな」
「え?」
「ここだけの話だ。俺は、新聞記者なんかじゃない」
中小路さんはわたしに身を寄せたまま、上着をそっと開いた。大人の花の咲くそこから、ちらりと光る何かを見せてきた。
警察。
それを見て、わたしはそう思った。
「身分は明かせない。だけど、羽布さんを、あの男を、ずっと追っている」
「どうして──」
「被害額は三億とも四億とも言われている。分かっているだけでね。あの男に詐欺に合ったという声を数えるだけでもきりがないが、声すらも奪われてしまった被害者も多いことだろう。俺は、あいつを追っている。ようやく所在をつかみ、接触した。職業柄、情報には事欠かない。簡単に取り入れたさ」
しかし、どうしても証拠を掴めない。
「あの男のやり口は巧妙だ。証拠どころか、被害を訴える者の話をよくよく聞くと、法的に問題がないことすらある。誰もがあの男にやられたと言うが、それが羽布清四郎のことであるとどうしても立証できない」
だから、この京都の街まで追ってきて、先生があたらしい犯行をしでかして、尻尾を出すのを待っている。
「だけど、時間がない。ほんとうに、時間がないんだ。最後の被害の訴えから時間が経てば」
時効。先生は、罪に問われることはない。
「だから、協力してほしい。どんなことでもいい。逐一、彼の言動、行動を、俺に知らせてほしい」
それでは、まるでスパイではないか。
戸惑うわたしに、中小路さんはついに牙を突き立てた。
「君が、ハブを狩るマングースになるんだ」
これが、毒なのだろうか。わたしの血管を駆け巡るそれを観察すればするほど、目の前のノンアルコールカクテルが酔いをもたらすのを感じた。
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