変化

 路線価図、地図をネットで。法務局のネット閲覧システムで不動産の全部事項証明書、あれば地積測量図。所有地全て。取得できるならば名寄帳。

 ユウからの相談のことを話したわたしに、先生は淡々と必要なものを挙げていった。

 整理の行き届かない鞄の中から慌ててメモを取り出して書き留める。その筆蹟を目で追いながら、ぽつりと言った。


「相談者の父よりも伯父の方が家庭内の力がある。じゃあ、父の考えはどうなんだろう。トラブルを避けるために伯父の言うことを享受する方がいいと考える人も多い」

 安寧というものは金銭に替えがたい。言い換えれば、お金を払うことで面倒を避けると考えるということだ。

「理不尽を説くことで、かえって理不尽を招くということもあるからね」

 汚れた眼鏡を意味なく外してまた戻し、呟くように先生が言う。それは、さっき中小路さんと話していたときとは違う、税理士としての先生の顔だった。



 試算のために必要なもののうち、わたしがネット調査などで取得できるものは取得する。そうでないものについて用意が可能かどうかユウに連絡を取って確認をし、一週間ほどしてから会う約束をした。

 そこで、事務所で直接先生に会ってもらい、話をするということになった。


 その日、ユウは有休を取って事務所にやって来た。構えすぎず、それでいてふだんのカジュアルな様子とは違うというような格好だった。

 わたしも従業員として、お茶を出してあげる。それがくすぐったいらしく、ユウはわたしに目配せをして肩をすくめて見せた。


「さて──」

 先生が応接セットに移動してきて、のっそりと腰かけた。

「これを」

 必要な資料のうち用意できるだけのものを用意してきたユウが、分厚くなった封筒を差し出す。

「お預かりして、試算をします。ここで目安が分かるのは、あなたのお祖父様の資産が相続の観点からどれほどの評価となり、総額でどれほどの税額になるかということです。あなたのお父様が実際にどれほどの課税があるかは、その按分の具合によって違います。分割協議書などは、すでに作成しておられますか」


 ユウからの依頼は、ユウのお父さんがどれくらいの税金を支払わなければならないかということだ。

 たしかに、おじいさんの資産評価の目安は分かっても、それをどういう割合で受け継ぐかによって支払うべき税額とは変わってくるから、そこが分からない限り、試算のしようもない。

 分割協議書とは故人の遺産をどのようにして分けるかというもので、相続税申告の際にはその根拠となり、不動産を継ぐならばそれを登記するときにも必要になる重要なもので、ユウのような資産家の家の相続で遺言書がない場合、相続人の間でこれを取り交わすことが多いし、遺言書があっても相続人の間で分割協議をすることもある。


「いえ、おそらく、それはまだ──」

「そうですか。では、はじめに申し上げたとおり、お祖父様の資産評価と税総額の試算という形でお手伝いを致します」

 先生はそう言って、さっさと面談を終えようとした。

「あの」

 雲の隙間から差し込む光のようにまっすぐなユウの声が、それを引き止める。

「どうしても、納得がいかないんです」

 腰を上げかけた先生は、またゆっくりとソファに尻を預け直した。


「どうしても、納得がいかないんです」

「──とは?」

「なぜ、父ばかりが辛い思いをするのか。なぜ、伯父ばかりが全てを持ち去ってゆくのか。伯父は、あまり良くない人とも付き合いがあるようです。父はわたしたち家族に迷惑がかかるのを恐れるあまり、伯父に何も言えません。だけど──」

 だけど、力をふりかざした者が全てをほしいままにする理不尽を、許したくはない。それを許せば、優しく、家族思いの父が、その生が踏みにじられる。


「わたしは、そう感じるんです」

「相続において争いが生じるのは、よくあることです」

「でも、先生。あんまりじゃないですか。どうして父ばかり──」

「長谷川さん」

 と、先生はユウの苗字を呼んだ。

「ここは弁護士事務所ではなく、税理士事務所です。私にお手伝いできるのは税の計算や申告書の作成であり、紛争の解決やその末に権利を勝ち取ることではありません」

「そう、ですね。すみません」

 立ち上がり、深々とお辞儀をして立ち去るユウを、わたしは追った。


「なんか、ごめんね。感情が先に走っちゃって」

「ううん、うちの先生、いっつもああいう物言いなの。気を悪くしないで」

 事務所の前の細道をゆく自動車に路側帯を譲り、言葉を交わす。

「税理士先生は計算が仕事。たしかに、羽布先生の言うとおりだわ」

「せっかく休み取って来てくれたのに、ごめん」

「ううん。このまま、試算はできる範囲でお願い。お父さんも、親しく相談できる税理士さんはいないって言ってたから」

「わかった」

 また連絡する、とどちらからともなく言い、わたしたちは別れた。

 先生の言うことは正論だけれど、ユウの力になりたかった。そう思いながら再び開く事務所のドアは、その建て付けの悪さ以外の重さを持っていた。


 先生は、ユウが持ち込んだ資料を、変わらず見ていた。

「長谷川、秀一しゅういち──」

 先生の呟くそれが、伯父さんの名。先生は立ち上がり、デスクの引き出しからA4サイズのコピー用紙を取り出した。

 裏側から透けて見える文字の並び方から、なにかのリストのように思えた。それに目を走らせ、また引き出しに戻した。


「万さん」

 わたしを見ず、わたしを呼んだ。

「はい」

「長谷川さんのお父さんに、会えるかな」

「──聞いてみます」

「頼むよ」

 先生の声の色が低い。その調子のまま、さらに続ける。

「万さん」

「はい」

「今日は、定時上がりだ。そのつもりで」


 先生は手元の資料から凄まじい速さで計算をし、昼前にはユウのおじいさんの相続税額試算を終えた。そろそろランチの時間だ、とわたしが時計に目をやったとき、そのまま、スマホを手に出ていってしまった。

 ときおり、こういうことがある。たぶん電話だろうと思うが、顧客や税理士会など業務に関する連絡は、ほとんど固定電話を使う。

 先生がスマホを手に消えるのはなにか個人的な用事のときか、あるいはわたしに聞かれたくない内容のときか。


 長針が半回転しても、先生は戻らない。いつもは、たいてい十分程度で戻ってくるのに。おかげで、ランチを食べ損なっている。

 待つ間、色々なことを考えた。ユウのこと。ユウのお父さんのこと。自分の祖父の相続のときに、父が困ったこと。だから、専門知識を身につけたいと思ったんだった。

 川合さんのこと。高木さんのこと。

 興嬰会のこと。中小路さんのこと。

 先生のこと。


 長い針が一回転と少しして、先生はようやく戻ってきた。

 出方を窺うわたしに、疑問の視線を投げかけてくる。

「あの」

「なに」

「お昼、どうします」

「ああ、ごめん。済ませてくるといい」

「先生は?」

「僕は、いい」

 デスクに戻り、パソコンのブルーライトの反射で眼鏡についたままの指紋を浮かび上がらせた。


 一日放置というような具合になってしまったから、わたしの思考はさっき考えていたことからさらに脈絡なく遊び、とどまるところを知らない。

 途中、ユウから返信があり、お父さんと一緒にまた事務所に来るという。それ以外は、ふだんどおりの雑務をこなす。もともと、それほど顧客の多い事務所ではないから、こんなものだ。


 先生は、なぜ税理士を。どこをどう切っても京都人の成分は抽出できぬであろう先生は、なぜここにいるのだろう。

 ぱっと見は、秋葉原周辺をうろついていそうな類の人に見える。よく見ると背が高くスタイルがよくて小顔だから、さいきんテレビでよく見る、あえてダサい格好をしているタイプのようにも思える。

 そう見ると、だらしない天然パーマもパッケージ感があるようにも思える。


 先生の見た目のことはどうでもいい。

 先生は、どうするつもりなのだろう。ユウの伯父さんの名を呟き、それから、どこかに電話をしに出かけて、あとはむっつりモード。

 嫌な予感がする。職員室への呼び出しの放送が流れたときのような、得体の知れぬ恐怖がくすぶっている。


 何度直しても同じように傾いてしまう掛け時計の長い針は、何周しただろう。眼を上げると、定時を示していた。

 定時ですよ、と声をかけようとしたとき、先生は立ち上がって奥に入っていった。


「──あ」

 奥は休憩スペースになっている。二、三分でそこから出てきた先生を見て、わたしは息を飲んだ。

 ふだんの薄汚れたものではなく、黒い、高そうな生地のスーツ。それを着ると、先生のもともと持つ印象は吹き飛んでしまう。

 服がいいものだからということもあろうが、違う。雰囲気と言うべきかオーラと言うべきか、とにかく、同じ空気を吸うのが辛いようなものが古びた木造建築のにおいを塗り替えている。


「定時だ。施錠、よろしく」

 先生は、暮れかけた薄い闇に溶けるようにして消えた。

 なぜか、唾を飲み込んだ。そうすると、ふわりと何かの香りが横切った。見ると、高木生花店で買ったフリージアが、種をつけていた。

 咲いてはしぼみを繰り返す花。あのとき、わたしが抱きかかえて帰ってきたもの。

 がさつ者のわたしはフリージアがどのようにして咲き、しぼみ、種をつけるのかなど知る由もない。

 しかし、わたしは、目の前のそれを見て知った。


 支度を済ませ、事務所を出る。施錠をし、あとにする。

 薄暮の色に同化する看板が、わたしの背中を見つめていた。

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