第四章 バディとは

ユウからの依頼

 先生は、かつて、ハブと呼ばれていた。いや、呼ばれるまでもなく先生は羽布はぶなのだが、暗い地下の世界の人たちの間で恐れられるように、毒蛇の名で呼ばれていた。


 そして、わたしは、はなはだ不本意ながら、マングース。ハブとマングースは天敵だと言うが、じっさいは昼行性と夜行性の違いなどからそうでもないらしい。

 そういえばマングースってどんな生き物だっけと思って画像検索をしてみたが、思っていたほど凶悪な顔はしておらず、むしろ無害そうなイタチ系の顔で、どことなくわたしに似ているような気がした。


 先生が、なぜ恐れられているのか。わたしかこれまで何度か見たは、なにか、地下の世界の人を懲らしめようとしているように思えた。

 先生は、何のために。

 何もわからないが、しかし、先生は、わたしと高木生花店のおばあさんを助けた。川合商店の件でも、川合さん一家の身に降りかかったことについて怒りをあらわしていた。


 悪人ではないけれど、紛れもない悪人。この名前の付けようのないあたらしい生き物を発見してから、西陣の細道を抜けてゆく風は次第に湿り気を帯び、ぬるくなり、ふと気づけば熱いものに変わりつつあった。



「いや、ひさびさよね。死んじゃったかと思って、ヒヤヒヤしてたとこ」

 カニの前。久しぶりだけれど、いつもの場所。ユウは春物の服が初夏らしいものに変わっているくらいで、変わらぬ人懐っこい八重歯でわたしに笑いかけた。

 心配してくれている。そういうときは、ユウは、あえて連絡してこない。助けがほしいというわたしの連絡を、いつもじっと待ってくれている。

 変なおせっかいをすることもなく、それでも、気にかけてくれていることが分かる。ユウが男だったら、こんな彼氏がほしいと思うほどに好きだ。


 今日、いつもとちょっと違ったのは、ユウの方からわたしに連絡をしてきたこと。相談したいことがあるが、いいか、という内容だった。


「それで、何かあったみたいだったけど、その後どう?」

 わたしの返答次第では、ユウは今日の相談とやらを取りやめるだろう。せっかく頼ってくれているのだから、ここは大きいところを見せないとと思い、

「あ、全然。めちゃくちゃ順調」

 と去勢を張ってやった。

「そう、ならよかった」

 ユウは、多くを訊かない。

 わたしたちは、歩きだす。そのまま、暮れた街の中に口を開ける寺町のアーケードに吸い込まれてゆく。


 寺町のアーケードを錦小路まで下がると雑居ビルがあって、その中にあるカレー屋さんが美味しかったことを思い出し、今夜のはそこになった。

 皿からはみ出んばかりの巨大なナンを待つ間、わたしはグレープフルーツジュースで、ユウは薄い味のアジアンビールで生ぬるい初夏の夕暮れを潤す。

「いや、相談しようかどうか、けっこう迷ったんだけどさ」

「ユウが相談なんて、珍しいよね」

「うん──」


 ユウが喉を鳴らす。そこを通り過ぎるビールの泡の刺激を思い、わたしの喉もわずかに上下する。

「あんたの勤めてる事務所、相続に強かったりする?」

「強い──うん、まあ、相続のことはよくやってると思う」

「うちの相続のことお願いって言ったら、頼める?」

「え、うん、もちろん」

「相談だけでも?」

「大丈夫。税試算だけでもオッケー」

「そっか、よかった」

 ユウの笑顔が、向日葵みたいなものになった。

「あんたの様子次第ではやめようかなと思ってたんだけどさ。見てると大丈夫みたいだし、うん、頼むことにする」


 わたしのことを、やっぱり気にかけている。ユウが安堵するほど大丈夫ではないのだけれど、わたしが思うほどには打ちひしがれていないのかもしれない。

 なにより、ユウが困っている。それは、わたしの中で何よりも優先されるべきことなのだ。


 巨大なナンに付けて食べるには少ないカレーではあるが、味は抜群に美味しい。さらに、二種類を選んで注文できるのもよい。

 わたしたちは、しばらく愛想のいいネパール人のお姉さんが運んできたそれらを黙々と食べた。

 そうすると、人間の胃とはおそろしいもので、テーブルを埋め尽くしていたはずのナンがきれいさっぱり消滅した。食後の高揚感と満足感の中、ユウがわたしに目を合わせてくる。


「それでね──」


 ユウのおじいさんが、先月の末に亡くなった。

 ユウのおじいさんは京都の人で、ずっと京都で暮らしていたが、ユウのお父さんが仕事の都合で金沢に長く住んでいたために、ユウにはそれを思わせるところはない。

 高校生のときに転勤のためにお父さんの実家のある京都に越してきて、そのままわたしと同じ大学に進学したらしい。

 今まで知らなかったけれど、実はけっこう資産家で、現金も多少あり、かつ立地のいいところには駐車場なんかも複数あり、中心部から少し外れたところにはまだ農地もたくさん持っているという。


 ユウは、思考の遊びやすいわたしが理解しやすいよう、端的に順を追って説明してくれた。


 おじいさんが亡くなり、相続が発生した。

 おばあさんは数年前にすでに亡くなっており、ユウのお父さんは次男で、ほかに伯父がいる。

 その伯父とユウのお父さんとの仲は良くない。と言うより、伯父が自分が長男だからという理由で家のことに口出しをさせず、おじいさんの生前からその所有するところは自分のものであるかのように振る舞っていた。

 不動産を活用した事業にもたくさん手を出したが、上手くはいっていない。

 その伯父が、おじいさんの相続に際し、理不尽なことを言ってきている。

 伯父の言うことをそのまま受け入れるしかないだろうが、その場合、ユウのお父さんにどれくらいの相続税が発生するものか。


 ユウからの相談は、そういう内容だった。

「こんなこと、相談しづらくてさ。あんたの仕事になるか分からないけど、ちょっと聞いてみてくれない?」

 どんなことであれ、ユウに頼られるのは嬉しい。

「まかせて。力になれるよう、頑張る」

「よかった。あんたに頼んでよかった」

「頼んでよかったかどうかは、結果と成果でご判断ください」

 先生が顧客によく言う台詞を真似てみた。頼もしい、と眉を上げるユウに向かってわざとらしくウインクをして見せ、デザートに出てきたマンゴー味のアイスを頬張った。



「おはようございます」

 先生が何時ごろ出勤しているのか分からない。わたしが出勤してきたときには、かならずもう仕事を始めている。そういえば、先生がどこに住んでいるのか、どんな交通機関で通勤しているのか、何も知らない。

 昨日のユウからの依頼をお願いしようと思って早く出勤してきたのだが、やはり、先生は普段どおりのダサいスーツの上着を脱ぎ、皺だらけのシャツで事務所の中にいた。


 いつもと違うのは、応接用のソファに、見慣れぬ男が腰掛けていることだ。お客さんかと思い、いらっしゃいませ、と笑顔を作りお辞儀をするわたしに、その男はカジュアルな顎ひげの上の白い歯を光らせ、ひらひらと手を振った。

「バイトさん?」

「いや、正規雇用だ。低賃金でアルバイトを雇用する意味が、うちの事務所の場合は極めて薄い」

「それも、税対策か。さすがだな、羽布さん」

 わたしを題材に、二人の間でそういうやり取りがあった。

 背中に生えている産毛が、逆立つような感覚。

 先生の口調が、のものではなく、に近いものになっている。


「この美人に、紹介してくれよ」

 台風の前の日の夕方のように穏やかでなくなったわたしの心が、美人という一言でぴたりと凪いだ。とりあえず、この顎ひげの男は悪い人ではないようだ。

「──万睦美さん。助手として雇用している」

 先生が面倒そうにわたしを紹介する。男のことを紹介する前に言葉が途切れてしまったから、男が立ち上がり、それを引き取った。

「睦美さん。俺は、中小路なかこうじ。羽生さんが京都に来て以来、お互い助け合ってる」

 趣味は筋トレだろうか。無駄なく引き締まった太い腕を差し出し、爽やかに握手を求めてきた。おずおずと手を差し出すと、ゆったりとそれを取り、ほんの少しだけ確かな力をこめて握ってきた。


「とりあえず、情報交換はここまで、かな」

 わたしとの挨拶を終えると、中小路さんは先生を顧み、軽く伸びをした。

「そうだな。今のところ」

「また興嬰会がらみで何か分かれば、知らせるよ」

「ああ、頼む」

 興嬰会。また、わたしを穏やかでなくす単語。先生が、わたしにちらりと眼をやった。


「実は、彼女も巻き込まれてしまってね」

「おい、おい、羽布さん。こんな若い子、駄目だろうがよ」

「分かってる。しくじった」

 中小路さんと話す先生は、街の小さな開業税理士と悪人に牙を立て、毒を流し込む蛇の両極端な先生の姿のちょうど中間のようで、やっぱり、もしかすると、この姿が先生の本来の姿なのではと思える。


「──睦美さん。俺は、新聞記者をしてる。仕事のかたわら、方々に情報を売る副業もしてる。力になれることがあれば、いつでも言ってくれ。まあ、羽布さんと一緒なら、百に一つも間違いはないだろうけど」

 わたしが不安がらないよう、気を使ってくれている。しかし、万に一つではなく、百に一つなのだ。興嬰会というのは単純計算でふつうの相手の百倍危ないということだろう。


 と考えるあたり、わたしは税理士事務所のアシスタントとして板についてきているのかもしれない。

「じゃあ、羽布さん。俺行くわ」

 中小路さんはなにか封筒のようなものを手に、立ち去ろうとした。

 わたしが扉を開けてあげると、にっこり笑って通り過ぎざま、

「これからよろしくな、マングースちゃん」

 と囁いた。


「──先生、中小路さんに、わたしのいない間、わたしのことをどう話したんですか」

「べつに、どうも」

 これからやってくる酷い蒸し暑さを先取りするようなわたしの視線をかわし、先生は書類のようなものを開いている。

 中小路さんとマングースの件で調子を外してしまい、朝一番で話そうと思ったユウの件を、言いそびれてしまいそうだった。

「ちょっと、いいですか」

 肩から提げたままの鞄を置き、わたしは先生の正面に腰をおろした。

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