マングース
詐欺という言葉のオクタン価は高い。当然のように、二人の男は口に唾してまくし立てる。
「おい、おい、待てや。お前、税理士や言うてたな。滅多なこと言うもんちゃうで。誰が詐欺や」
「そや。なんか証拠でもあるならともかく、人を詐欺師やなんて、名誉毀損で訴えるで」
詰め寄られても、先生は微動だにしない。起きているのか眠っているのか分からないくらい静かに、ただ立っている。
「おい、何とか言うてみろや」
「詐欺っつうのは」
先生は、ネクタイをしない。そのために露出している妙にとがった喉仏が上下し、ふだんとは全く違うぞんざいな物言いで凄む川島を制した。
「詐欺の故意があり、
何を言っているのか分かるようで分からないが、要するに、相手を騙す意思と相手を騙そうとする行為があり、そのために相手がそれを信じて意思表示をした場合は取り消すことができるということだろう。
「借用証書の金額を改竄して高木氏の債務の金額が一千万円であるというように見せかける仮想の表示を故意にし、高木氏が本来負っていない債務九百万円を騙し取ろうとした。仮にこの婆さんが九百万払ったとしても、そう主張されれば審判の間、金は受け取れない。それ以外にも、なにかと面倒だろうな」
川島らが反論しようとする。先生はそれを許さず、さらに続けた。
「かつ、詐欺が成立し、刑事告訴の対象となり、刑法第二六四条の適用があった場合」
「け、刑法やて」
「詐欺罪。法定刑は、十年。詐欺は、楽して儲かるようなもんじゃねえ。大人しく不動産投資でもしてた方が懸命じゃねえの」
さらに、と先生は続ける。やっぱり、これがあの老朽町屋の事務所の奥でのっそりと座っているだけの先生と同じ生き物であるとは、どうしても思いづらい。
「さらに、そっちのお前。こいつに詐欺の故意があることを知り、それと共謀して詐欺行為を行おうとしてるな」
「な、なんやて。何で僕が」
「まあ、どっちでもいいけどよ」
ぞんざいに言う先生に、川島が詰め寄る。
「お前、この借用証書が改竄や言うたな。どこに、その証拠があるねん」
「だから、言ってるじゃん」
ずいと突き出された川島の顔が先生のパーソナルスペースを侵害しても、先生は微動だにしない。
「どっちでもいいって」
「収入印紙の金額が違うから、言うてそれが改竄の証拠や言うんと違うやろな。そんなん、裁判かけたら弁護士に笑われんで」
先生はため息のようなものをひとつ浮かべ、胸ポケットから画面の割れたままのスマホを取り出した。
「おい、聞いてんのか」
先生は完全に川島を無視して、手にしたスマホを操作している。
なにかのアプリを立ち上げ、そして、川島の方に向けた。
── そやし、こっちは温情的措置として、現金で返せへんのやったら土地で弁済してくれたらええて言うてるねん。ほれ、もう返済期日も近いんやで。婆さんも、ええ加減にしときや。この姉ちゃんともども、生駒の埋立地かどっか行ってもらうで。
録音。先生は店外から、やり取りを録音していたらしい。
──もうええ。
沈黙ののち、おばあさんの声。
──八木さん、川島さん、もうええ。九百万、しっかり払います。そやし、この子はもう堪忍したって。
先生は、録音アプリを終了させ、スマホを胸ポケットに戻した。
「だから言ってるじゃん。どっちでもいいって」
「な、何を言うて──」
「お前らが共謀。詐欺の故意の有無。婆さんの錯誤。全部、どっちでもいいんだよ。頭に血を上らせるために色々言ったけどさ」
どういうことか八木さんは分かっていないようだが、川島は理解したらしい。目を燃やしながら唇を噛み、先生を睨んでいる。
「おなじく、民法第九十六条。恐喝によって行われた意思表示は、取り消しの対象となる。婆さんは、債務の弁済を、お前の恐喝行為によって承諾した。すなわち、婆さんが債務を支払うことはない」
先生は、眉一つ動かすことなく、息をしているのかどうかすら怪しいくらい、ただ静かに立っている。まるで、何かを確信しているかのように。
「今さっき、お前の恐喝行為によって、その借用証書は無効になった。そういうことさ」
終わった。八木さんは今にもひび割れた土間のコンクリートに膝をつきそうな具合で、川島はただ黙って何かを堪えている。
「じゃあ、そういうことだから」
先生が二人から興味を失い、立ち去ろうとする。
「待てや」
それを、川島が呼び止める。
「お前、このままで済む思うんか。俺が誰なんか知らんからそんな涼しい顔してられるんやろけどな、あとあと難儀なことになるで」
鳴りかけた革靴を止め、先生は振り返った。そこには、露骨な嘲笑が浮かび上がっていた。
「川島圭一、四十一歳。有限会社ミッツ興業代表。平成二十七年に起業するまでは、大手電産企業の不動産部に勤務。役位は係長。出身校は――」
「ちょ、ちょっと待て」
川島の慌てぶりを見るに、先生は川島の経歴をすべて言い当てているのだろう。昨日知ったばかりのこの男のことをこんな短時間で調べつくす方法というものがこの世にあるのかどうか、わたしには分からない。
「知らねえと思ってんの。誰でも彼でも噛み付くなら、野良犬と一緒じゃねえか」
相手を知っている。そのうえで、完璧に見下している。クラスに先生のような奴がいれば、間違いなく嫌われているだろう。しかし、この場においては、それがとてつもない威圧のようなものになり、川島を抑えこんでいる。
「次には、自分のバックにどれくらいヤバい組織が付いてるかを口にする。興嬰会だな」
「お、お」
餌をねだる鯉のように口を開け閉めする川島を視界の中心におさめながら、興嬰会という名詞を耳にし、わたしの体は少しこわばった。だけど、この前のような絶望的な恐怖はない。
川島と八木さんは逃げ去った。ほうほうのていで、と言うのはこういう様子をあらわすときに用いるのだろう。何度も何度も礼とお詫びを言うおばあさんに対して先生が応えることはなく、ただ、
「私が今日ここにやってきたこと、言ったこと、決して他言はなさいませんように」
とのみ言った。その口調は、いつもの冴えない税理士のものだった。なぜかとおばあさんが理由を訊ねると、先生は汚れた眼鏡をくいと持ち上げてあるべき所に直し、
「税理士が、税以外のことについて助言をすることは、差し控えられるべきことです。下手をすれば、私たちは職を失いかねない。ご協力ください」
と冷たく要請をした。
おばあさんは納得したようで、このご恩は生涯忘れません、とたいへん感謝するのみに留め、わたしたちが店を出て、建築基準法第四十二条二項に定められる西陣の昔ながらの細道をゆく間も、ずっと見送ってくれていた。
たぶん、ほんとうに他言はしないのだろう。おばあさんは、そういう人だ。なんとなく、そう確信できる。
「先生」
事務所の扉に手をかける先生の後ろ頭が、なに、と止まる。
「ありがとうございました。先生が来てくれなかったら、今ごろ、わたし――」
「いいや」
先生が振り返る。
わたしは、またぎょっとした。このところ驚きの感情がインフレ状態で多少の驚きは値打ちを失ってしまっているが、しかし、それでもわたしは驚いた。
先生が、笑っている。相手を見下して嘲るようなものでもなく、口の端を不敵に歪めるわけでもなく、うっすらと、ゆるやかに。
「僕は、ただ録音をしたに過ぎない。君が川島を追い詰め、動揺させ、ボロを出させた。注意深い男だ。よくやったと思う」
わたしは、言葉を失った。
先生が、わたしを認めている?
それを、わたしは、喜んでいる?
どうしてか、わたしがそう思っているのを知られたくなくて、思い切り背伸びをしてやることにした。強がりは悪い癖だが、今さら直しようもない。
「じゃあ、優秀な助手、ってことですね」
ここまで得意げに言ってやれば、さすがに先生も呆れて事務所に入って行くだろう。
しかし、先生の手は、いつまでもドアの取っ手にかかったまま動かない。いつもと同じ、何の表情もない顔が少し傾き、それが西陣の夕陽を受け、色を持った。
「――マングース」
「は?」
「僕が
「どうして?」
「よろず、で
「マン、グース――」
最悪のダジャレ。そして、センスのかけらもないあだ名。これで気の利いたことを言ったつもりになっているのだろう。
わたしの方が呆れてしまって、先生を押しのけるようにしてさっさと事務所に入った。そのとき、先生は、くすくすと喉を鳴らして笑っていた。
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