花屋のハブ

 川島は、わりあいすぐに来た。

「コインパが見つからんくてな。往生したわ」

 と笑いながら、オシャレではないけれど高そうな服に身を包んでいる。

「なんや、川ちゃん。早かったやんか」

「そやねん。別件で、円町の方におったからな」

 二人は談笑もそこそこに、わたしとおばあさんをそれぞれ見た――睨んだ、と言うべきか――。


「ほんで、なんやねんな。この子、昨日も見たで」

「そやねん。なんや、ややこしいこと言うて絡んで来よんねん。プロの川ちゃんからしっかり言うたってえな」

「そうか――」

 川島の視線が、わたしの頭頂から顔に。ぜったいに退かないと決めているから、眼を逸らしてしまいそうになるのをこらえた。

 胸のあたりで視線を止め、

「肉づきは、ちょうどの感じやな。胸はそんな無いけど」

 と下品なことを口走る。ここが幕末なら斬っているところだ。


「なにがおもろいんか知らんけどな」

 川島は、小動物の機嫌を取るような声色を用いた。

「人様のことに、あんまり首突っ込むもんちゃうで。自分を大事にしいや。まだ若いんやし」

「どの口が」

 自覚がある。わたしの眉間には、怒りと嫌悪が浮かんでいる。それがちょっと意外だったらしく、川島は言葉を切った。


「借用証書、見せていただけますか」

「なんで、そんなもん見せなあかんねん」

「見るだけです。内容を改竄したり、紙を破ったりはしません」

 妙に突っ張ると具合の悪いことでもあるのか、まあええやんか、とやわらかく言う八木さんに袖を引かれ、川島はしぶしぶクラッチバッグから二つ折りにした借用証書を取り出した。


「ふうん――」

 ことさらに溜めを作り、毎週欠かさず見ているアニメの高校生探偵のように一人で頓首して見せる。相手が焦れたところで、一気に畳みかけるのだ。

「もう、ええやろ。返せや」

 川島の手が借用証書に伸びてきた。来た、と思った。

「結論から言います。この債務は、無効です」

「はあ?お前、手ぇに持ってんの何やねん」

「正確には、無効ではなく、現行民法においては、取り消すことができます」

 わたしの中の高校生探偵が、きらりと眼鏡を光らせた。


 おばあさんのご主人が借りたのが一千万円であっても百万円であっても、どちらでもいい。要は、この契約に錯誤があったことを証明できればいいのだ。錯誤とは、難しく言えばきりがないが、表示される内容とその表示をした人の認識の間に食い違いがあることを言う。

 そして、錯誤とは、原則として取り消しとなる。

 おばあさんのケースにおいては、おばあさんは、ご主人から、八木さんに借りた額は百万円だと説明されており、そのとおり認識していて、それを疑う余地がなかった。つまり、実際は一千万円であったとしても、それを知らないことについての過失がない。

 その場合、ご主人は百万円についてのみ返済義務を負い、それが生前に完済しているのであれば、現時点ではおばあさんには関わりのない話である。

 また、もしご主人も百万円だけを借りたつもりで、借用証書に記載されている金額の一千万円というのが誤りであった場合も同様だ。ご主人は百万円にのみ返済義務を負い、残りの金額については支払う必要がない。


「な、なんや、こいつ――」

 見たか、と言ってやりたい気分だ。わたしの凄まじい舌鋒に、八木さんなどは冷や汗をかき始めている。川島も旗色が悪いと見ているのか、目を暗くしたまま動かない。

「そういえば、額面と収入印紙の金額が一致しないようですねえ。これが百万円の借用証書だったら、ぴったりの金額なんですけど。あれ、もしかして、金額が改竄されてるとか?」

 揺さぶってやるのも忘れない。痛いところを突かれて、内心泡を吹いているに違いない。得意になり、ちらりと川島の表情を盗み見る。

 瞬間、川島の方から、ばっちりわたしに視線を合わせてきた。


「そやけどな、お姉ちゃん」

 意外な底力をその声から感じて、お腹の中心が落下するジェットコースターに乗っているときのような具合になった。

「高木さんの婆さんは、借りたんは百万やて言う。こっちの八木ちゃんは、一千万や言う。ほんで、貸し借りしたもん同士は死んでしもてる。ほな、どないしてお姉ちゃんの言う錯誤を証明すんのや。ええか、熟慮期間を超えてる、婆さんは死んだ爺さんの金を相続して使てる、やったら、もう債務も何もかも単純承認したと見なされんねやで」

 高木の言うとおりだ。

 相続があったとき、相続人は、そのすべてを放棄することもできるし、その一部を限定承認することもできる。しかし、一定期間何もしなかったり、相続した財産の一部または全部を処分したときは、債務も含めて単純承認したと見なされる。

 かつ、錯誤の証明はきわめて難しいかもしれない。故人の意志に錯誤があったことを証明するにはどうすればよいかなど、わたしが知るはずもない。


 アニメなら百発百中で悪を暴き出す高校生探偵も、わたしに憑依したのでは依り代の力不足といったところだろう。お気に入りのベージュの春物のカーディガンが脇汗で黒っぽく浸食されてゆくのをひんやりと感じながら、自説の矛盾を的確に突かれた動揺を隠そうと踏ん張るので精一杯になってしまった。

「そやし、こっちは温情的措置として、現金で返せへんのやったら土地で弁済してくれたらええて言うてるねん。ほれ、もう返済期日も近いんやで。婆さんも、ええ加減にしときや。この姉ちゃんともども、生駒の埋立地かどっか行ってもらうで」


 凄む川島を前にして、言葉が出てこない。押し負ける。その感覚だけが体に巻き付いてくる。所詮、付け焼刃なのだ。わたしが逆立ちしたって、こいつらには敵わない。

 パンプスが鳴った。後ずさりをしようとしていた。それだけは駄目だと思い、踏みとどまった。

 おばあさん。眼が合った。わたしを、心配そうに見ている。

「もうええ」

 わたしを見たまま、乾いてひび割れたままの唇がそっと動いた。

「八木さん、川島さん、もうええ。九百万、しっかり払います。そやし、この子はもう堪忍したって」

 二人の男が、おばあさんに興味を向ける。わたしに向けられた背中に満ちる気が急にやわらかくなり、ほどけてゆくのを感じた。

「ああ、そうか。べつに、俺らはしっかり約束どおり返済してくれたらそれでええねや。それを、このお姉ちゃんが突っかかってくるから。ほんま、かなんなあ」

 このままでいいのか。

 いいわけがない。

 しかし、どうにもできない。


「ほな、期日に来るわ。来週の水曜やな。それまでに残りの九百万、用意しといてや。証書には利息は定めないものとすると書かれてるし、それだけで十分やから」

 川島が立ち去ろうとし、八木さんもそれに続く。

 その四つの足が、何かにぶつかったようにして止まった。

「なんや、またお前か」

 履き古した革靴が、歪んだドアレールを踏んでいる。二人の男など見えていないかのように、店内を見回す汚れた眼鏡。

 それを見たわたしは、思わず声を発していた。

「――せんせい」

 先生が、どうして。わたしがここに何をしに来たのかは察していたはずだけれど、まさか来るなんて。

 先生がここに来る理由なんて、ひとつしかない。

 わたしは、悔しくて、だけど、うれしくて、ひとつ下唇を噛んだ。


「民法第九十五条、錯誤」

 店内でひっそりと息をしている花の名を呼ぶように、先生の抑揚のない物言いが放り投げられた。

「意思表示に対応する意思を欠く、もしくは、表意者が法律行為の基礎とした事情についてのその認識が真実に反する場合、原則として取り消しとなる。しかし、本件の場合、故高木氏と故八木氏との間に錯誤があったことを知らない長男が相続をし、かつ、その債権が第三者に譲渡されている。錯誤取り消しは、認められないんじゃないの」

 わたしは、絶句した。先生が、わたしにとどめを刺した。川島も八木さんも、先生がまさか自分たちに有利な見解を述べるとは思ってもいなかったらしく、顔を見合わせている。


「けどな」

 先生が、はじめて二人を見た。そうすると、二人がなぜかわたしの方に向かって後ずさりをした。

「お前ら、やってるな」

「やってるて、何をや」

「民法第九十六条」

「は?」

 きょとんとする二人に向かって、先生は例のカッターナイフのような凄みを放って言った。

「――詐欺だよ」

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