印紙税。コンビニで収入印紙なんかは売っているし、領収書なんかに使う機会のある人も多いけれど、じっさい、あまり詳しいことは分からないと言う人が多いように思う。

 目の下が腫れぼったく──おそらく、わたしの目の下でクマがシャケを獲っているだろう──なっているのにも構わずに乗る情報の波の中のひとつに、そのことが書かれていた。


 印紙税とは二十種類ほどある課税文書の、その記載された価額に応じた収入印紙を購入することで納付し、課税文書に貼り付けることで納税を示す。たぶん、そんな感じ。

 金額によって税額は変わり、と、なんとなくその一覧を見ているうち、あることに気付いた。


 あの借用証書に貼られた印紙。まじまじと見ていなかったけれど、たしか額面は千円だった。

 わたしの視線はブルーライトの中に示されている、額面と税額の対応表に注がれている。

 川島は、一千万円の債務であると言った。それならば、収入印紙は一万円であるべきだ。先生も、印紙税が足りないというようなことを言っていたから、わたしの記憶に間違いはないはずだ。

 だとすれば、やっぱり、あの借用証書は偽造されたものなのだろうか。


 かならず、暴いてやる。

 かならず、おばあさんを助ける。

 かならず。


 大学に通っているとき、法律の勉強を色々した。法学部だったから当たり前なのだけれど、今となっては、もっと真面目に勉強しておけばよかったと思う。同期で司法試験にストレート合格して弁護士になった奴もいれば、家業の会計士を継いでいる奴もいる。

 わたしは運良く先生の事務所で働くことができたけれど、もっと勉強しなければ税理士なんて夢のまた夢だ。それどころか、今のわたしなんてコンビニの店員をしてもすぐテンパってしまってお客さんに迷惑をかけるだろう。


 それでも、おばあさんを助けたいという気持ちは、誰にも負けない。人のことを食い物にして自分が肥えようとするような奴を、絶対に許さない。


 答えを探すんじゃない。導き出すんだ。

 教えてもらうんじゃない。知るんだ。

 理想ばかりを追いかけていないで、それを実現するための具体的方策を講じることをする。

 わたしたちは、機械やシステムを相手にするんじゃない。あのおばあさんは、自分の意志でたしかにあの花屋を守ってきた。

 あの川島ですら、一個の人格を持った人間なんだ。どれほどの善人であったとしても、どんな悪だくみをしていたとしても、相手はいつも人間なんだ。


 川島。どうやって、騙そうとしている。彼の目的は、おばあさんのご主人が生前に作ったという債権を購入し、それをカタにあの花屋の土地を安く買いたたくことだろう。

 その目的のために、債権を購入した?

 債権を持っていた人は、何者?

 どうして、自分で返済を求めることをせず、それを売却した?


 額面の足りない印紙。売却された債権。そして、それを土地で得ようとする川島。

 それらをつなぎ合わせることができれば、きっと。


 いつの間にか寝てしまっていた。突っ伏した机から頭を勢いよく起こし、よだれを手の甲で拭う。時計は、急げば遅刻はしない時間を示している。

 きのうもよく眠れていない。だけど、行かなくては。つい一昨日まで、恐怖のあまり事務所を辞め、安全なところに隠れることしか考えていなかったわたしの頭には、それしかなかった。いや、そのことを考えないわけではない。むしろ、そうすべきだということは、火を見るより明らかだ。それでも自分のために最良の行動ができないのは、やっぱり、わたしには目指すものがあるからだ。



 ほんとうに京都かというくらいうらぶれた、未耕作の農地や荒れたアスファルト、さびれた商店街ばかりのわたしのマンション周辺から地下鉄に。その暗闇の空白が、わたしとあの街を繋ぐ。


「──おはよう」

 二十分、夏場歩けば汗だくになるであろう道のりだが、この季節ならなんてことはない。

 その一角に、先生は、いつもと変わらない様子で存在していた。

「今日の業務は」

 今、わたしが何か作業をしなければならない仕事はない。確定申告の時期も終わり、細かい仕事ばかりで、それもあらかた片付いた。

 こういうときはデータの整理や不要な資料の選別などをするのだが、いちおう先生に確認した。

「特に、何も」

 先生は興なげに答え、手にしていた分厚い本をデスクに置き、席を立った。

「どちらに」

「ちょっと、コンビニ。来る?」

「いえ、わたしは」

「ああ、そう」

 この細道が張り巡らされた西陣にはコンビニは意外と少なく、丸太町通か、中立売通か知恵光院あたりまで出なければならない。先生が手の空いているときに散歩がてら、最寄りのコンビニまでぶらぶらと歩くのはよくあることだ。

 どうして、平常運転でいられるのか。それが腹立たしくて、忍者か幽霊みたいに足音も気配もなく出てゆく後ろ姿を思い切り変な顔で見送ってやりたい気分だった。


 ふと、先生のデスクに目をやる。

 先生が手にしていたのは、どうやら法律の本であったらしい。

 ──民法解説。

 民法というのは条数も多く、解釈も判例に頼るところが大きく、受験生の敵のように思っている。同時に、その字のごとく、人が社会の中で生きてゆくうえで起きるさまざまなトラブルを防いだり解決したりする性質のものが多いことも理解している。これでも、同志社大学法学部卒なのだ。


 ぱらぱらとページをめくると、学生時代の記憶と共に、浅い知識が呼び起こされる。

 相手は、人間。そうであるならば、この複雑怪奇な、人と人との関わり合いに深く触れた法律のどこかに、ヒントがあるかもしれない。

 なんとなくそう思えて、わたしは細かい文字で埋め尽くされた世界の住人になった。


 十分ほどだろうか。いや、数十分経ったかもしれない。ふと気づくと事務所のドアの開く音がして、先生が戻ってきたところだった。

「すみません、ちょっと、お借りしてました」

 なにかいかがわしいことを見られたような気がして、慌てて本を閉じた。先生はちらりとわたしに眼をやり、

「いいよ、べつに。読みたいなら」

 と、買ってきた蒸しパンを頬張り始めた。いつも、何かにつけてけっこう食べこぼすから、あまり綺麗な食べ様ではない。

 先生なら、きっと、わたしが考えていることくらい、お見通しなんだろう。それを知って放置しているということは、よほどあの借用証書が有効なのか、そもそもうちのお客さんでもない小さな花屋のおばあさんのことに興味がないのか。

 誰にも裁けぬ悪を裁くのが先生なら、先生にすら裁けぬ悪を裁くわたしになってやる。そう思って、さっき、いかがわしいことをしているような動作を取ったことを恥じた。


 分厚い本を短時間でくまなく読み通せるはずはない。わたしのペースなら、家に閉じこもったとしても二週間はかかるだろう。民法とは、それくらいの文量がある。

 しかし、この本は条文とともに判例も備えられており、まだ分かりやすい方だ。税理士はやはり民法とは切っても切れない関係にある職業だから、事務所にはこういう本がけっこうある。


 本に書かれていることを追うのではなく、そうすることで、わたしの頭の片隅にある学生時代の勉強の残滓が、それが仕舞われている場所への扉への道が整理された。

 根拠はない。確証もない。だけど、確信はある。それがわたしの目の前の分厚い本を閉じさせ、両足で立たせ、そして事務所の扉に手をかけさせた。ちゃんと、

「お出かけになるなら、戸締まり、お願いしますね」

 と先生に声をかけるのも忘れなかった。

「どこに?」

 三分の一ほど残っている蒸しパンを口に入れながら、先生が問うた。それに対する答えには、迷いなどあるはずがなかった。

「おばあさんを、助けに」

 笑えたかどうか分からないけれど、できるだけ頼もしそうな笑顔を作ったつもりだ。

 わたしのパンプスは、そのまま、剥がれかけた路側帯をなぞっていった。


 高木生花店の前まで来て、わたしは足をすくめた。店内から、男の声がしている。就活のときに買った当たり障りのない腕時計は、十時五分。時計を見ずともそれと知れるやわらかい日差しが、わたしの片方の頬を温めている。

 ──深呼吸なさい。

 おかあさんの声。すぐに慌てて粗忽なことをするわたしに、よくそう言った。

 深呼吸。そして集中。いちど目を閉じ、また開く。何のためでもない。誰のためでもない。わたしは、正義の使者。


「ちょおっと、待ったあ!」

 しかし、店内にいたのは、近所の酒屋の息子さんだった。わたしはきょとんとする酒屋の息子とおばあさんを見て、ぴったりと指差しポーズを決める自分を俯瞰し、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。

「ああ、あんた、今日も来てくれたんかいな」

 おばあさんは親しげに笑ってわたしを救ってくれた。それから、酒屋の息子の方に眼をやり、

「八木さんや。酒屋の。知ってるやろ」

 と紹介ともつかぬことを言ったが、わずかに表情が翳ったのを見た。

「じつはな、うちのおじいさんがお金借りてたいうんが、この八木さんのとこやってな。ほんで、息子さんやったら何か知らんかと思てな、聞いてたんや」

「こちらは?」

 八木さんは、少し訝しい顔を見せた。歳のころは四十くらいだろう。お父さんが体を悪くする前から店を継いでいて、市内中心部から北部の料理屋にお酒を卸すようになり、なかなか上手くいっているという噂を聞いたことがある。酒屋の息子らしく飲み歩くのが好きで、ほとんどが祇園や木屋町で取ってきた仕事だという。

「あの、ほら、羽布先生のとこの。税理士さんの」

 と、わたしを紹介するおばあさんに、ふうん、と鼻を鳴らして答え、黙ってしまった。


「色々な、心配してくれてるんえ。迷惑やろうに、そやけど、嬉しいわ」

「残念ですけど」

 わたしに向かって語りかけるおばあさんの口を遮り、八木さんが錆のある声を発した。

「おたくの仕事はないと思いますよ」

「いえ、べつに、仕事だなんて」

「うちの父が、高木さんのご主人に金銭を貸借していたのは事実です。それを、僕は継ぐつもりはなかった。そやから、別の人間に売ったんです。債権者が変わったところで、高木さんのご主人が借金していたことに変わりはないんです」

 継ぐつもりはなかった。それなのに、売却した。それを聞いて、わたしの中の粗末な回路に微細な電流が走った。


 わたしは、知っている。こうなると、もう、わたしは止まらない。

「じゃあ、債権放棄をすればよかったんじゃないですか。返済を自ら求めないのであれば、どうして、わざわざ第三者にそれを譲渡するような真似を?」

「なんや、君。そんなん、僕の勝手やろ──」

「返してほしいならおばあさんに話して返済を求めて、そうでないなら、債権自体をあなたが放棄してしまえばいいじゃないですか。それなのに、どうして、第三者にそれを譲渡するような真似を?」

 もう一度同じことを、さらに細かく言った。八木さんはちょっとたじろいだ様子だったが、やがてスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。

「ああ、ごめんな。俺や。例の花屋の件なんやけどな。ちょっと面倒くさそうな横槍が入ってんねや。今から来れるか」

 ──ああ、そうか、ほなな、と八木さんはぶっきら棒に言って通話を切り、わたしを睨み下ろした。

「債権者が今から来る、言うとるし、ちょっと待っとき」

 背筋に、冷たいものが走る。言ってみればこれは脅しのようなものだが、おばあさんは不安げに眉を下げていて、それを見ると、絶対に退けないと思うことができた。

「いいでしょう。ここで、待ちます。できれば、借用証書もお持ちいただくようお伝えください」

 やってやる。どうなるか分からないけれど、わたしには、確信がある。絶対に、やってやる。そう決め、青っぽい匂いの店内の、濡れた土間をすこし踏みしめた。

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