なにになりたいか
「いいから」
詳細な説明を求め、それを飲み込んでから動こうとする先生に付き合っている暇はない。わたしは、相手を土俵から押し出すお相撲さんみたいにして先生を事務所から引き剥がし、頼りない細道を駆けた。
先生は黙ってわたしに手を引かれているが、精一杯走るわたしに合わせているようでもあった。先生はぱっと見は軟弱そうだが、走るのは速そうな体型をしているから、わたしなんて追い越してすぐに駆け去ってしまえるだろう。
先生がわたしに従っているのは、危急の事態が起きているであろうことが分かるから。息を切らせてしまっているわたしにその説明を求めても、答えられるはずがないと察してもいる。
だから、ただ黙ってわたしに歩調をあわせて駆けている。
──高木生花店。
古い看板。店先に張り出したテントは古び、すこし破れている。中からは、まだあの川島という男の底震いのする声が漏れている。
「おばあさんが──お金、借りた覚えがないって──あの男が」
わたしの肺も脳も壊れてしまっていて、先生に状況を説明することができない。先生は眉間にすこし皺を寄せ、わたしと店内とを交互に見た。
「──たすけてあげて」
わたしの役目は、ここまでなのかもしれない。だけど、わたしは、わたしにしかできないことをした。ここで逃げては、眼を背けては、わたしはどこにも行けないし、何にもなれない。
先生に頼らないとどうしようもないのが悔しいけれど、今はそれでいい。そう思い、崩れそうになる上体を、両手を膝につくことでかろうじて支えた。
「──あ、なにすんねん」
川島の声が高くなって顔を上げると、わたしの隣にはすでに先生の姿はなく、店内に後ろ姿を示していた。それが川島が握る書類のようなものを取り上げ、じっと見つめている。
川島が取り返そうと腕を伸ばしても、味噌汁の中のなめこみたいにそれをすり抜けている。
ざまあみろ、とわたしは思った。これで、あの川島とかいう悪党も、終わりだ。
「この借用証書は、有効なものですね」
店内から漏れるしずかな響きに、わたしは凍りついた。
「いつ、誰が、誰に、何を、どうしたのか。それが完全に記されていて落ち度がない。ご丁寧に、収入印紙まで貼付してある。印紙の額が足りないようですが、それさえ貼り増せば、課税文書としても問題ありません」
先生はそう言うと、手にしたものを川島に返した。
「なんや、お前」
当然の疑問である。
「通りすがりの、税理士です」
「──ここの顧問か何かか」
川島が、警戒を示した。先生は一瞬考えて、
「いえ、べつに」
と答えた。いつもの、億劫そうな声色である。ほなったら黙っとけ、と凄む川島に書類を引ったくられたまま、寝起きのような足取りでおばあさんの店から出てきた。
「ちょっと、先生。どうしたんですか」
血相を変えて詰め寄るわたしを通り過ぎ、行くよ、とだけ言葉をアスファルトに置き捨て、そのまま事務所の方へと歩いて行ってしまった。
わたしはその後ろ姿と店内とを交互に見たけれど、おばあさんを放って行くわけにはいかなかった。
「なんや変な合いの手が入ったわ。来週また来るし、どうすんのか考えといてや。九百万そっくり返すか、ここの土地売るか。あ、建物の解体費は引かしてもらうからな」
川島はそう言い捨て、店を出た。わたしにちらりと品定めをするような眼をやったが、ただの若い女と思ったのか、すぐ興味を失って立ち去った。
「おばあさん、だいじょうぶ」
店内に飛び込み、震えているおばあさんの肩に手をやる。きっと、とても怖かっただろう。
おばあさんを心配に思う気持ちと、許せないと思う気持ちが同時に沸点を迎え、わたしの心にはげしい泡を立てた。
わたしは、思わず口にしてしまっていた。
「わたしに、任せて」
と。
おばあさんは驚いたような顔を向けてきたが、口にしてしまった以上、引き下がるわけにはいかない。ぎこちなく笑い、頷いて見せた。
「任せるて──」
何を任せるのか。おばあさんはわたしをただの近所の女の子としか思っていない。だけど、わたしは違う。
おばあさんを、知ってしまった。このおばあさんは、ご主人が始めた花屋さんを、一人になっても守っている。屋根が歪んでも、瓦が緩んでも、店先のテントが破れても、看板のブリキが錆びても。
そして地域の人が求める仏花や榊はもちろん、花が好きで花を愛でる人も好きだからと言って、季節のきれいな花も並べている。誰も買わなくて売り物にならなくなった花は、きっと、鰻の寝床と呼ぶに相応しい細長のお店の奥の庭を埋め尽くしているのだろう。
わたし以外にも季節の花を求める人はいるだろう。でも、少なくとも、あのフリージアは、わたしのためにここにあった花だ。
わたしは、おばあさんを知ってしまった。
そんな人を見捨てておけるはずなんてない。
そんな人が震えているのをそのままにしておけるはずがない。
もう一度、言った。こんどは、強く。
「わたしに、任せて。あんな奴の思い通りになんて、させない」
「いや、ええねや。お金やったら少しはあるし、足りひん分は娘に無心するさかい──」
「駄目。あんなの、ゆすりじゃない。見てて。かならず、何とかしてみせるから」
わたしになにか災難が降りかかるのでは、とおばあさんは心配しているようだが、そんなことは関係ない。
「おばあさんは、わたしが守る」
戸惑うおばあさんの肩にかけた手に、知らずと力が入る。
事務所に戻ったわたしに、先生の眼が向いた。向いたけれどすぐに逸れ、わたしのことなどはじめから認識していないかのようだった。
「どうして、あのおばあさんを見捨てたんですか」
つかつかとパンプスを鳴らして詰め寄るわたしなど見えていないかのようにパソコンの電源を入れる様に腹が立ち、さらに語気を荒げた。
「しかも、あの男の肩を持つようなことを」
片付けが終われば、さっそく仕事。先生にしてみれば、わたしにあのおばあさんのところに引っ張って行かれたこと自体が、迷惑だったのだろう。
「なんとか、言ってください」
机を、つい強く叩いた。そうしてはじめて、先生がわたしを認識した。射るような、冷たい、いや、冷たさすらない瞳があって、やりすぎた、というような気持ちになった。
押し負けるわけにはいかない。つとめて眉間に皺を寄せるようにし、そうすることで先生の返答を待った。
「──あの借用証書は、有効なものだった」
だいぶ待って、ようやく、ぽつりと先生が口を開いた。それが何だ、とまた腹が立った。
「僕をあの場に連れていって、どうにかなると思ったのかもしれない。だけど、僕には、あの借用証書が税務上有効なものであると見立てることしかできないよ」
淡々と置いてゆく言葉。まるで、それをどうにかするのは僕の役目じゃないとでも言いたげな。
「万さん。君がなにを思い、なにを期待するのか知らないけれど、事実に対して、原則と例外、全例に照らし合わせてどうかということを判断し、助言するのが僕の仕事だ」
「そんなの──」
「万さんは、税理士になりたいの? それとも、正義の味方になりたいの?」
馬鹿にしている、と思った。なにか言い返そうとするわたしを無視して、先生はさらに続けた。
「だったら、お門違いだ。言ったはずだよ、僕は悪人だって」
そのあと、わたしは黙々と仕事をして、定時に退社した。お昼休憩のときも、先生と眼を合わせることなく、一言も会話をしなかった。先生は、べつに平気みたいだった。
その間、ずっと考えていた。
先生をあてにしていた。先生なら、どうにかしてくれると思った。しかし、他力本願が過ぎたのかもしれない。親鸞さんも苦笑いだろう。
よそよそしくわたしを包む京都の春の宵を超え、それを穿つようにして開かれた地下鉄への入り口をくぐり、わたしの世界へと繋がる出口へ。
くたびれたマンションを見上げて、また買い物をして帰るのを忘れたとため息をつき、今晩もカップ麺のお世話になることを決めて階段を上る。
道中、なにを考えていたか、思い出そうとした。
思い出せなくて、それでも思い出そうとして、癖のようになっているSNSの閲覧をはじめ、箸を片手に時間を溶かした。
──おばあさんは、わたしが守る。
わたしの声が、この天井の低い部屋の中に浮き出してきた。ちょうど、食べ終わったはいいものの片付けるのが面倒で三十分放置したカップ麺の汁に浮く油のように。
「おばあさんは、わたしが守る」
口に出してみた。
そのまま、あまり使うことのないノートパソコンを開き、キーボードを叩く。
詐欺。どうやって、立証する。その方法はわからない。無いのかもしれない。
通謀虚偽表示。違う。不在者の財産管理。もっと違う。
遺言。べつに、おばあさんの旦那さんが遺言を残したわけではない。
恐喝。危害を加えることを想起されるようなことは、川島は言っていない。
世界に貼り付けられた無数の情報。そのひとつひとつが、何かの答えではある。しかし、おばあさんを助ける手がかりにはならない。
夜がわたしを通り過ぎていく。そうすればするほど、わたしが答えにたどり着くことができるような気がして、それだけを期待して、なおディスプレイの中の世界に没入した。
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