第三章 マングース
フリージアを抱えて
わたしは、先生のアシスタント。事務所業務の手伝いをして、報酬を得ている。だけど、ときに、アシスタントとは、業務外のことをも手伝うことがある。もちろん、無給で。
SNSにはそれを不当だとか言って反対する声なき声が満ち溢れていて、わたしもそれには全く賛成だけど、わたしがしようとしているのは、どうやら、そういうことになりそうだ。
片付けの終わった事務所は、なんだか狭く見えた。もともと三十坪もなく、さらに土地の形状も古い京都の様式のまま鰻の寝床になっていて、狭いのだから驚くことはない。
掃き清められた床。拭き上げられたテーブル。その上には、花瓶はない。西陣の街に嫁いできて五十数年というおばあさんか営む、ちいさな花屋で買ってくるお花を、どこに飾ろうか。
「お花、買ってきます」
一息つこうとしたわたしたち。先生が、なにか言おうとするのを遮り、急にそら寒いように感じる事務所にせめて彩りを、と思い、飛び出すように足をひび割れたアスファルトに預けた。
おばあさんの花屋は、高木生花店という。たしか、去年亡くなったご主人が創業した店で、今は古錆びた街らしく、榊や仏花ばかり売っている。それでも、おばあさんの最後の矜恃──なんて言えば失礼かもしれない──なのか、店の隅には季節の花が置かれている。
「ああ、いらっしゃい」
店の奥の自宅部分から漏れ出るテレビの音の中から染み出すようにして出てきたおばあさんが、わたしが目を落としている黄色い花によく似た笑顔を浮かべた。
「これ、なんていう花ですか」
切り花ではなく小さなポットに植えられた状態で売られている黄色い花は、すっと筋の通った茎に鈴がなるようにして咲いており、とても可愛いと思った。見たことはあるが、花の名前はどうしても覚えられない。だから、この質問にはあまり意味はない。この花の正体を確かめるよりも、おばあさんとなにか言葉を交わすことでわたしの平衡を得ようと考えたのだろう。
「ああ、フリージアやね、これは」
「へえ、これが」
すごく聞き覚えのある語彙に、わたしの記憶神経がはげしい反応を示す。おばあさんは、月に一度くらい店に来るわたしを覚えているらしく、フリージアを一本手に取り、親しげに手渡してくれた。
「花言葉は、無邪気。あんたによう似合うわ。
皺だらけの手がゆっくり引かれると、わたしの汚いけれどまだ若さのある手にフリージアが残った。
「これ、ください」
「そうか、おおきに。あんたが来たら気にいる思て、買うといたんえ」
「わたしのために──?」
「こんな街やろ」
おばあさんの眼が、店の外の細道に映った。それは、外の風景ではない、別のものを見ているようだった。
「仏さんのお花なんか、近所の人がよう買うてくれるんやけどな。せっかくお花売ってるんや。
なにか、とても古く、昔からある、当たり前のものを見るようなおばあさんの眼が、わたしを捉えた。
「切り花でも、鉢植えでもええ。花いうんは、ええもんや。死んだ人に飾ったげるんもええけど、結局、生きた人の手ぇがなかったらすぐ悪なってしまう」
わたしは、なぜか心が透明になってゆくような気がして、思わず微笑んだ。
「飾ったり備えたりするだけやない。世話する楽しみもある。育てる楽しみもある。人間は、もともと、そんなんが好きなんやろな」
「おばあさんは、お花が好きなんですね」
「そら、もう。そやけど、お花だけやない。お花を見たり触ったりしてる人のことを見るんが好きなんかもしれん」
背中が曲がりかけたおばあさんの、まっすぐな視線。わたしの手にあるフリージアと、どうしても似合うとは思えないわたしのぱっとしない顔とを行き来している。
「あんたが来てくれるようになってから、お店も華やぐようになってええわ」
「もしかして──」
この古い、垂木が歪んで下がってしまっている生花店の片隅にいつもある季節の花。それは、わたしが事務所に飾る花を求めてやって来るようになったから、置くようにしてくれているのだろうか。そうならば、もしそうならば、なんだか申し訳ないような、嬉しいような。
「また来てや」
フリージアの代金を支払い、ちゃんと事務所宛の領収書ももらって、店をあとにしようとした。このところ絶えて感じなかった春の陽射しが、わたしを迎えた。
そのとき、それを背負う者が、入れ違いに店に入っていった。
嫌な予感がした。この静かな街には民泊も多く、外国人観光客がいつも散策していて、地元の人でない者がいても何の不思議もないが、それにしても、このあたりでは見ない雰囲気の男。そう、たとえば、夜の木屋町や祇園の裏通りにいるような。
わたしになにごとかを感じさせる、どうやって買ったのか分からない高そうなスーツの男は、店の外でその背を盗み見るわたしにも聞こえるほど無遠慮な声を放った。
「こんにちは、高木さん。僕、川島言いますねん。あの、ほら、ご主人のお友達やった八木さんの知り合いでね」
「何のご用ですか」
おばあさんの警戒の声が漏れてくる。
「いやね、ご主人が八木さんに借りはったお金、返さんまんま死んでしまわはったでしょ。僕、八木さんからその債権を買うた
「お金て──うちの主人が病気なったとき、もう長ないやろ言うてきっちり百万円返したはずです」
「そう、そう。それは八木さんから聞いてます。そやし、残りの九百万円をね、僕に返してほしいんですわ」
わたしを見下ろす春の空とはうらはらに、話の雲行きが怪しい。川島と名乗った男は、四十半ばくらいの歳だろうか。相手の横隔膜に訴えかけるような響きのあるチェストボイスが、なお続く。
「いつ返してもらえるやろか。僕も会社やってましてね、いろいろ困ってますねん」
「主人が借りたんは、百万円やったはず。それは、確かに生前に主人が返しました」
「あー、あかんで、高木さん。ええ加減なこと言わんといてや。ほら、ちゃんとここに借用証書もあるやんか」
そう言って川島はクラッチバッグから紙切れを取り出し、おばあさんに見せた。わたしの位置からその内容まで分かるはずもないが、おばあさんが圧されたように黙ってしまっていることから、だいたいの察しはついた。
「そんなお金──だいいち、借りてたことも知らんかったし」
「あー、そらあかんで、高木さん。ご主人の死後、もう三ヶ月以上経ってますやろ。死なはったんは、去年の末やったはずや。ほしたら、財産も負債も、もうあんた放棄できひんねん。ご主人が借りはったお金は、あんたが返さんと」
そんなん言われても、と、わたしの手の中で咲くフリージアの花弁のひとつよりも小さく、おばあさんが呟く。
威圧的な声ではあるが柔らかであった川島の口調が、その花を全て散らしてしまう暴風のようなものに変わる。
「ほしたら、土地売れや。うちがそっくり九百万で買うたるわ」
わたしは、駆け出していた。もしわたしが正義の味方で、悪いやつをやっつけるだけの力があるなら、今ここで成敗するところだろう。だけど、悲しいかな、わたしは魔法少女みたいに変身もできなければ知識も力も何もない。
それができるのは。わたしにできるのは。
──待ってて。
わたしは駆け出していた。事務所まで、走れば数分の距離だ。
しかし、体力には自信がない。一分も走らないうちに、息が切れた。それでも駆けるのをやめるわけにはいかないと強く思い定め、さらにスピードを上げた。
去年買ってようやくおろした新品のパンプスの踵が減ろうが脚がちぎれようが、構うことはない。一秒でも早く事務所に戻ることと左腕で抱えるようにして持っているフリージアのことだけ気にしていた。
黄色い花がわたしの与える振動に驚き、揺れている。
──もう少しだけ、待ってて。
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