シーツの上から西陣まで続く夢
わたしに向かって伸びる腕。必死で逃げようとする。しかし、どれだけ走っても、いくつものそれがわたしを執拗に追いかけてきて、逃れる術はない。
掴まれれば、もう戻れない。それだけが分かるという恐怖。こんなにか弱くて可愛い可愛い普通の可愛い女子の可愛いわたしになんか抗いようのない力で引っ張られて、足元の遥か下に口を開ける、深く、暗い世界の住人にされる。
そこには亡者のように多くの者がひしめき合っていて、出してくれ、助けてくれとわたしが来るのを待っている。
助けて、はこっちの台詞だと叫んでも、聞き入れてくれる者はない。
掴まれた。やはり、凄まじい力がわたしの意図を無視してわたしの体を随意にした。
もう、おしまい。ユウは、怒るかな。おかあさんは、泣いてしまうかな。みんな、ごめんなさい。
色んな人の名が、顔が、仕草が、わたしを通り過ぎてゆく。お肉の付きすぎてきたように思うけれどできるだけそこから眼を背けている頬に受ける凄まじい風圧が、わたしを削ぎ落としてゆく。
先生。
わたしからこぼれ落ちてゆく人の中に、先生がいた。それを見つけて、どうして先生が、と腹立たしくなった。先生がユウやおかあさんと同列みたいな扱いだなんて、絶対、絶対、ぜったいにありえない。
その腹立ちが、わたしに視界を与えた。
わたしがそれまでいたところ──たぶん、空──を切り裂く一条の光。その裂け目から中空を駆け下りてくる白馬。それが背負う光が、地底の亡者を照らし出す。
わたしは、あっと息を飲んだ。ひしめき合う群れの中に、川合さんがいた。見たことはないけれど、隣にいる綺麗な女の子が、娘さんなのだろう。ほかにも、たくさんの人が。どれも見たことのある顔で、ありがとう、助かった、と言いながら笑顔で事務所をあとにするお客さんの顔だった。いや、見たことない顔もたくさんあった。
わたしに向かって手を伸ばしていたのは、亡者ではなかった。
わたしを、待っている人がいる。そう思えた。
白馬はなお地を目指して駆け下り、彼らに光を当て続けた。黒いもやのようなものがそれを包むたび、正義の刃で斬り払った。
わたしは、あんなふうになりたかった。
強く、強くなって、世の中の困っている人を助ける人に。少なくとも、自分の知っている人の役に立てる自分に。わたしを知っている人は、いつもわたしを助けてくれる。そういう人たちのように、強く、美しくありたかった。
──待ってて。今行く。
ガクンと体が脈打って、思わず目を開けた。眠れずに明け方まで布団と格闘していたが、気まぐれにわたしを迎えにきた睡眠に引き込まれたものらしい。深く寝入るときに体が痙攣をする、ジャーキングというやつだろう。そういうとき、階段を踏み外したりどこかから落ちる夢を見ることが多い。
ユウにはこの夢のことは言えないな、と色褪せてゆく夢の世界を顧みる。
起きなければ。時計は、六時四十分。ほとんど寝ていないから体は鉛のように重いが、今寝直してしまえば必ず寝坊する。
さいごの出勤日に、遅刻するわけにはいかない。
地下鉄の車内で船を漕ぎ、さすがに足が重いからと乗ったバスをも手漕ぎボートにし、西陣の細道へ。その深くに足を向け、進むほど、体の鉛はさらに質量を増す。
──羽布税理士事務所。
見慣れたはずの看板が、他人の顔でわたしを迎えている。建て付けのよくない扉も、ふだんより重い。
竜巻でも通ったように散らかったままの室内に佇む後ろ姿。先生。わたしを見て、おはよう、というような眼を向けてきた。来ると思っておらず、驚いているようにも見えた。
「先生」
わたしの声は、陶器の茶碗をこすり合わせたときのように掠れていた。
「せんせい」
いつもどおり汚れた眼鏡の奥にある眼が、すこし開いた。ぎょっとした、というような具合に。
「せんせい──」
わたしは入り口で立ちつくしたまま、ぼろぼろと涙をこぼした。どうしてなのかは、分からない。ただ、せんせい、と呟くように唇を動かすだけだった。
視界の中、影だけのようにぼやけた姿が、ゆっくり近づいてくる。一歩ごとに、散らばった何かの破片を踏む硬い音がするのが分かった。
「なんで泣いてるの」
いつもどおりの、抑揚のない声。わたしは弾かれたように声を上げ、さらに泣きじゃくった。先生は、何もせず、何もいわず、ただわたしを見ているらしい。
自分でもなぜなのか分からないから、とりあえず片付けをすることにした。しゃがみ込み、涙をこぼしたまま、散らばったものを拾い上げる。破片で怪我をしようが、そんなこと、どうでもいい。とにかく、なにかをしないと、今ここで消えてしまうような気がしたのだ。
視界を、黒いものが遮る。箒。続いて差し向けられる、ちりとり。条件反射のようにそれを受け取り、また立ち上がり、床を掃く。その間に、先生は応接テーブルの上にあったものを直したり、椅子やソファの位置を整えたりした。
ずっと、無言。ただでさえ、眠っていないのだ。この沈黙は、さっきまでわたしの体のあちこちにまとわりついていた鉛の塊よりも、さらに重かった。
その時間が通り過ぎて、先生がソファに腰掛けた。わたしを見ている。
「で、どうしたの」
いつもどおり腹立たしい物言いだが、何か答えないとと思い、からからになった舌を回転させる。
「ごめんなさい。どうしてか、泣けてきて」
「いや、そうじゃなくてさ」
え、という顔を思わず向けた。先生はいちど鼻をすすり、言い直した。
「どうして来たの」
「わたしが、来ないとでも?」
「思ってた。来ない方がいいとも」
「甘く見ないでください」
つんとしたものが鼻の奥で暴れた。そうすると、わたしの頭の中がむしろ冷たくなって、目が醒めるような気がした。
「このまま逃げるなんて。ぜったい、ありえない。逃げたって何したって、わたしから危険が去る保証なんてどこにもないんです」
自分で、驚いている。何を言うつもりか、とブレーキを引いても、もう遅い。それに、とわたしは継いだ。言葉を継いでしまった。
「それに、助けを待ってる人がいるんです。たくさん。助けたいんです。どんなに大変でも、目を背けず立ち向かって──」
やってしまった。
そんなこと、思ってもいないはずだ。わたしの中のどの部分がそうさせたのか、全く分からない。だけど、口にしてしまった。先生の耳に、入れてしまった。
分かっている。先生のいるところに足を踏み入れれば、もう二度とこちらの世界に戻れはしないということくらい。
急いで取り消さなければ、と焦るわたしをソファから見上げ、先生が口の端をすこし歪めた。どこまでも、笑ったのが分かりにくい。
「万さん」
よろずさん、という聴き慣れた音節に、わたしの脊髄は反射を見せ、寝不足なうえ涙で完璧に破壊されきった化粧の乗っかった顔を先生に向けた。
「やめた方がいいよ。君には、向いてない」
「そんなこと」
やめろ、わたし。それ以上は、いけない。
「やってみなけりゃ、分からないじゃないですか」
先生は、なにも言わない。心底驚いているのだろう。当たり前である。わたしが一番驚いているのだから。
「わたしには、先生のような知識も力もありません。それでも、わたしは、先生の助手なんです」
守りたい。助けを必要としている人を。だれかの力なくして、人は立っていられない。わたしだって、そうだ。世の人の誰にでも降りかかる可能性がありながら、誰もそれから逃れる術を知らない困難。そういうものの手助けをして報酬を得るのが士業だと思っている。
わたしは、税理士になりたいわけじゃない。世の人がわたしにしてくれるのと同じことをしたいだけなんだ。
先生の眼鏡に映る影。わたし。それが、そう低く、ちいさく叫んでいるのを見た。
そして、それがどうか幻想であってくれと願うのがわたし。
「──わかった」
先生が、沈黙を破る。
「手伝ってもらう。だけど、危ないと判断したら、すぐに手を引いてもらう」
「わかりました」
「──契約成立とみなす」
先生が立ち上がった。握手でも求めるのかと思ったが、それはなかった。
どちらにしろ、あとには退けなくなったことは間違いない。
朝に見たわけのわからない夢。それがわたしの皺だらけのシーツの上からずっと、この西陣の街の一角の小さな税理士事務所にまで繋がっている。そうだったら、どれだけいいだろう。
戸外を通り過ぎる豆腐屋のラッパの間抜けな音を耳に入れながら、ぼんやりと、そう思った。
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