インデペンデンス・イブ

 同調がほしい。

 SNSは、同調にあふれた世界だ。

「最悪に病んでてもうダメかも」

 そう呟くだけで、

「大丈夫?」

 と音のない声をかけてくれる人がいる。だけどその世界はどうしてもわたしに踏み込んでは来ず、足湯みたいに限られたごく一部を温めるだけ。

 大学のころから借りっぱなしの部屋。卒業してから、さすがに家賃や光熱費は自分で払うようになった。京都の中心部から地下鉄で数駅、下車してさらに徒歩十分のこの家賃五万円の、地元から出てきたときに思い描いていた京都暮らしとはほど遠い──中心部は信じられないくらい家賃が高く、不動産屋さんでお父さんが昇天しかかったため、ここに決めた──立地のこのわたしに無関心な1Kの小宇宙で息をひそめるようにしてSNSの閲覧に時間を溶かし続けてきた。

 引っ越そうかなと思ったこともあるけれど、なんとなく面倒で、お金もないし、ついここに居ついてしまっている。


 通販で買った小さなソファと同化しかかっている体を無理矢理に起こし、いい加減服を脱いでお風呂に向かう。

 帰宅後の一時間というものは、なぜこうも一瞬で過ぎ去ってしまうのだろうかと思う。シャワーを浴びながら、冷蔵庫の食材が枯渇していることを思い出し、後悔する。不器用を極めた女とユウに呼ばれるわたしは、料理など上手いはずもないが、それでも最低限の自炊は心がけている。

 今さらスーパーに出かけるわけにもいかないので、心がけていることとそれをルーティン化することとは違うのだということを思い知りながら、とりあえず、買い置きのカップ麺で我慢しようと決めた。

 シャワーがわたしにこびりついた不安のにおいを洗い流してくれないのなら、そういう、どうでもいいことが、今はむしろわたしを救うのかもしれないと言い聞かせてみる。


 でも、やっぱり駄目だ。そう思えば思うほど、意識してしまう。よくよく思い返してみれば、あのあと、先生と別れて、どんなふうに地下鉄に乗ってどうやって降りて、このエレベーターのない三階の部屋に戻ったのか分からない。料理のことはいつまでもルーティン化できないけれど、無意識に行うルーティンに対する認識が抜け落ちてしまうほど、動揺している。

 ──この世は原則だけでは成り立たない。かならず、例外もある。

 ──だれかが、裁かねば。正しきものを食らう悪を、食らう者もまたいて然るべきだ。

 先生の言葉が、いくつもの泡のようになってわたしを包んでいる。どれだけ熱いお湯を浴びても、それはやはり流れ落ちない。

 そして、乱暴に擦ったために妙にすっきりとした頭の中に、無表情なまま困った、と言う先生の姿が再現される。

 わたしの個人が特定されている。だから、危険なのだ。引っ越そうが、何をしようが、わたしがあの事務所にいるかぎり、必ずあの人たちはわたしを付け狙ってくると確信できる。

 鏡の向こうには、疲れた顔をしながら狭い風呂場に立つ女。濡れた髪からは美容院でお勧めしてもらったシャンプーの香りの滴が落ち続けている。

 そういえば、少し太ってきたように思う。ユウなどはそんなことないと言うけれど、女子が理想を追うのをやめてしまえば、何をもって地を踏んでいればいいというのだ。

「さよなら」

 自分で、びっくりした。わたしの頭はいつも妄想に忙しく、わたしを知る人はみなそのことを注意するが、滅多に独り言は言わない。それが、今、はっきりと唇をうごかし、そう言ったのだ。まるで、鏡の向こうに立つわたしに、語りかけるように。

 さよなら、とは。

 いったい、何に別れを告げたのか。色白だけが救いの、何の自慢にもならない身体の女はなにも答えてはくれず、ただ困り眉を作ってわたしを見つめるだけであった。

 ふんわり、と仕上げることにキューバ革命軍ほどの抵抗を毎朝見せる硬い髪が濡れて、額に、首筋に、鎖骨にへばりついている。そこから点滴のように流れていた滴が、ふと止まった。


 この時間のテレビは、わたしを退屈させて余りある。さっきわたしが沈み込んだままの形を、お年寄りの皮膚みたいにキープしているソファに戻ったわたしはやっぱり、スマホを握りしめながら、それを目の中に押し込むようにして画面を睨んでいる。

 くだらない批判。それに対する攻撃。思い込みばかりのニュース。その中にちいさく青く光る、やさしい言葉。わたしは、いつも、やさしい人のやさしい気持ちに救われてきた。ほんとうはどんなときも自分で立って、倒れそうな人に手を差し伸べられるようになりたい。税理士を志したのも、そういう理由がある。

 人は、人を助ける生き物。すくなくとも、そう信じていたい。

 スマホの画面を暗転させると、そこにはドライヤーもせぬままの髪を朝顔みたいに開かせたわたしがいた。

 もういちど、こんどは、わざと、口に出してみる。

「さよなら」

 これだけで、ドラマのヒロイン気分。だけど、ドラマのヒロインみたいに助けてくれる人はない。

 誰かが、しないと。

 それをするのは、わたし。

 先生が何を考え、何をしていようが、そんなこと、どうだっていい。わたしは、わたしがしたいと思うことをする。

 ねえ、わたし。わたしを助けて。

 助けを必要とする人を食い物にする毒蛇から、わたしを助けて。

 せっかくいい職場に出会えたと思ったけれど、事務所は辞めようと思う。それが、自分の身を守ることだから。

 先生がもし、法律で裁くことができない悪と何らかの方法で戦っていたとして、わたしには、先生のような力はない。ただ、逃げまどうだけ。

 事務所を辞めれば、わたしは無関係。悪い人たちにつけ狙われる理由なんてどこにもなくなる。それが、わたしを助ける唯一の方法。

 そう決めて、ふと目を上げた。

 点けっぱなしのテレビから、犯罪被害者のインタビューが流れていた。騙された。良かれと信じていた。それなのに、こんな目に合った。どこにでもよくある話だ。

 なぜか、それが、昆虫標本のようにわたしを打ちつけようとしているように思えて腹立たしくなり、無意識のうちにどこかに置いたであろうリモコンをくたびれた一人用ソファの脇で発掘し、消した。

 無音。ひとつ、原付が通り過ぎる音。

 もう、眠ろう。彼氏ができたら真っ先に片付けなければならないけれど今のところその必要は全くないこの部屋の中、わたしは、ひとりだった。


 明日は出勤する。事務所の片付けがあるから。

 そして、わたしはわたしを助ける。

 まぶたの裏に貼り付いたままの先生の後ろ姿に、そう宣言した。まさしくインデペンデンス・デイ。明日を、わたしの独立記念日にしてやる。

「決めた。やってやる」

 ふたたび目を開け、SNSの世界にもそう宣言してやった。どうだ、わたし、これで後戻りはできまい、という気分で爽快だった。

 ふと、なぜブルーライトの世界の中に共感を求めてまで、そうまでして、この行動について自分を奮い立たせなければならないのかと思った。

 なにがわたしの足に巻き付いているのだろう、と。

 正体は分からないけれど、心臓の音が胸を叩いていて、それがもたらす血の脈が耳の中でひくく鳴いているのを、わたしはずっと聴いていた。

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