残響

 大通りの丸太町通りまで下がり、左に折れる。先生はわたしが地下鉄の駅まで二十分ほど歩いて通勤しているのを知っていて、駅まで送るつもりらしい。

 大通りまで出ると、背後にする西陣の細道が、異界への出入り口のように思えた。ついさっきまで、わたしがいた場所。いくら車道を急ぐヘッドライトに目を細めても、すぐ隣で革靴を鳴らす先生の存在が、現実の色にわたしを染める。


「さて、どうするかなあ」

 間の合わない声色で、わけもなくマンションを見上げる先生。その一階部分にあるコンビニに無言で足を踏み入れたから、わたしも人類の習性に従ってそれに続いた。

 店員さんは陰気な感じの若い男性で、あまり人相はよくない。それが、値踏みをするようにわたしを見ている。お客さんが入店して店員さんがそれを見るのは当たり前なのだが、とにかくわたしはそう感じた。

 カルガモのように先生のあとについて店内を一周し、レジに立つ先生の背中を見つめた。いつもどおり、おじいちゃんが入院していたときに着ていたパジャマみたいな太いストライプのジャケットに刻まれた皺を数える間、なぜか呼吸が軽くなるような気がした。


 コンビニを出たところでわたしに手渡されるペットボトルのお茶。

「コーヒー、苦手だったね」

「あ──」

 振り返った先生がいつもの先生で、わたしは安堵とともにお茶を受け取った。

「ありがとうございます」

 驚くべきことに、この世の何にも興味を持たずに生きてきたような先生でも、わたしがコーヒーを飲まないということは記憶しているらしい。ユウなどには子供だと言って笑われるが、苦いものは苦い。

「さっきの奴らの狙いは、僕だ」

 そんなこと、分かっている。税金のことをお客さんに説明するのは上手でも、おおよそ会話というものを分かっていない。だから、わたしは、助け舟を出してやることにした。武士の情けとは、このことを言うのだろう。


「興嬰会が先生を狙ってるのは、先生が事務所に来た大男の雇い主と揉めているからで、そもそもそれは──」

 そこまで言って、わたしの唇は止まった。そもそも、なぜ先生はその筋の人に恨まれるようなことを?

「──あの川合商店の社長と、娘さんの」

 たしかに、先生はそのようなことを言っていた。だとすれば、先生は、

「社長と娘さんのために?」

 先生はそれに正面から答えることはせず、自分の分として買った缶コーヒーの蓋を乾いた音とともに開けた。日が暮れたあとはお決まりのように肌寒いが、猫舌だと言っていたから、たぶん冷たいのだろう。


「巻き込むつもりはなかった」

 三口か四口ほどそれを飲んでから、ようやく言葉を発した。

「もう、巻き込まれてます」

「悪かった」

 先生は今日の事務所やさっきの公園、この前の木屋町の夜で見せたようなカッターナイフのような凄味ではなく、しおれかけた矢車草のような残念さを見せながら言った。

「この世には」

 話の分母が大きい。この手の言い草を、わたしはあまり信用しない。

「悪が多すぎる」

 アニメの主人公のようなことを言う、と思いながら冷ややかな眼をくれてやったが、先生は気づかない。

「正しいことをしようとする者が、それを食い物にしようとする者の餌食になるのは、なぜなんだろう」

「またまた──」

 なにか混ぜ返すようなことを言ってやろうと思ったが、わたしの荒れた唇は凍ったように動かなくなった。


 先生の眼鏡の向こうには、いままで見せたどの表情よりも悲しげで、寂しそうな色があった。

「警察か、司法か。だれかが取り締まり、だれかが裁く。それは、原則だ」

 そのかなしい色が、やってくるヘッドライトに照らされ、通り過ぎ、揺れる。

「しかし、この世は原則だけでは成り立たない。かならず、例外もある」

 赤信号。停止した車の列が奏でるテールランプの赤。それに、先生の顔がまた浮かび上がる。

 それはかなしみの色ではなく、怒りの、憎しみの、呪詛の赤。先生の汚れた眼鏡には、その赤が規則正しく、まるで葬列のようにして居並んでいる。


「だれかが、裁かねば。正しきものを食らう悪を、食らう者もまたいて然るべきだ」

 僕は、そう思っている。先生は残ったコーヒーを飲み干し、コンビニの前のゴミ箱に放り込んだ。捨てるとき、空き缶用の入れ口を探して一瞬手が迷って、それを見て、わたしは、ああ、と心の中で声を漏らした。


 あの川合商店の一件のとき、わたしは正直、落ち込んだ。ユウにも相談に乗ってもらった。ユウは、誰かに何かができたようなことじゃない、とわたしを慰めてくれて、それはすごく嬉しかったけれど、わたしが求めていたのはその言葉じゃなかった。

 あの川合商店の社長や娘さんを助けたかった。それが、わたしの本心だった。税理士事務所のアシスタントはそれ以上には決してなれず、そんなことすべきでもなければできるはずもないと思い、それが歯痒くて、悔しくて、だから落ち込んだのだ。


 いや、言い換えれば、川合商店の娘さんが良からぬバイトをしたのも、会社が廃業する羽目になったのも、自己責任なのかもしれない。そもそも商売に成功してお金に余裕のある家庭を社長が作っていれば、娘さんは進学費用に困ってそんなバイトをすることもなかったのかもしれない。

 しかし、実際、川合家には娘を私立の大学に通わせる余裕はなかった。それは前提であり、動かしようのない事実。それを、そういう人を、食い物にするような人がいるのもまた事実。


 どちらかが責めを負うべきなのだとしたら。だとしたら、わたしは川合さんが何かしらの形で救われて、それを食い物にする人が裁かれればいいと思う。そうあるべきだと思う。

 たとえば興嬰会を潰すことができたとして、川合さんは救われるのだろうか。それは分からないし、だとしてもすでに起きた出来事が無かったことになるわけでもない。


 だけど、それでも。それでも、助けたい。助けたかった。

 わたしには、できない。

 先生には。

 先生には、それができるのかもしれない。先生は、それをしているのかもしれない。


 青信号。丸太町通りを東に向かって歩けば歩くほど、人は多くなる。バスに乗ればいいのだが、この時間は道が混むから時刻表通りには来ない。なにより、京都の道を歩くのが学生の頃から好きだから、地下鉄までは苦にならない。

 だけど、今夜は、わたしの足は思うように進まなかった。まるで、歩き方を忘れてしまったかのように。


 先生は、わたしが何も言わないから、ずっと黙ったまま。なにかを考えているらしいけれど、なにを考えているのかは、言わないから分からない。わたしも、聞かない。

 とても怖い。それと同時に、べつの気持ちがたしかにある。それを何と呼ぼうか考えるうち、地下鉄の駅にたどり着いてしまった。

「明日は、片付けだ。もし無理なら、休んでもいいよ。いや、その方がいいか。家に鍵をかけて、誰にも会わず。そうするといい」

 地下へと続く階段を降りようとするわたしを見下ろし、先生が呟く。わたしは是とも非とも答えず、足音の残響を階段に充満させた。

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