点滅信号
わたしの頭の中で、いや、わたしのすべてが、逃げたいと言っていた。この怪しげな男どもの魔の手からわたしを救い出してくれる強靭な肉体と精神を持ったアメコミヒーローを求めていた。しかし、それ以上に、わたしの背後で棒立ちになっていたかと思えばつかつかと足を鳴らして詰め寄ってくる天然パーマのイケてない眼鏡男から受ける氷のような圧力が、わたしを沈黙させた。
男どもに連れ去られれば、きっとこの前見たようなピンク色のお店で働かされ、先生、いや、天パのサイコ野郎に身を預ければ、秘密を知ってしまった者として花背か大原の山の中に埋められる。前にも後ろにも、わたしに未来はない。
たとえば、蛇に睨まれた蛙というのは、今のわたしのような状態のことを言うのだろう。それくらい、怖くて、どうすることもできず、ただ身を縮めるしかなかった。
わたしの身がさらに小さく、固くなったのは、永遠によく似た一瞬の沈黙のあと、男の一人が先生、じゃなくて汚れ眼鏡ダサスーツ男に向かって手を伸ばしたときだ。
その手にあるなにかが、公園の頼りない光をちらちら跳ね返す。
刃物。わたしは、気を失いそうになった。いや、もともとが、夢。
男の伸ばした腕が、掃除機に吸い込まれるようにして勢いを増す。
わたしを挟んで伸びた腕が、このあざとい闇を血で染める。そんなの見たくないけれど、拒んで拒めるものでもない。
なにかがわたしを通りすぎる風。強く引かれる腕。よろめいたけれど、すぐにぶつかって止まる感覚。刺されたか、斬られたか。しかし、いつまで経っても、その瞬間はやって来なかった。眼を閉じていたことに気付いたわたしは、盗むように世界を窺った。
「──こいつ、やばいで」
なにがどうなったのか、わたしが眼を閉じるその瞬間まで男の手で光っていたものが、いつの間にか先生──もういいや、先生で──の手に移っている。まるで、生まれたときすでに持っていたかのように自然に。そして、わたしの身体をも、左腕の中に。
「どうすんの。怪我じゃ済まないかもな」
あの、放り捨てるような物言い。恐れたのか、男が少し砂を鳴らして後ずさった。
湿気っぽく巻きついている左腕が、わたしを庇っている。男の一人が踏み込んだのに応じ、先生も少し腰を低くする。わたしは一度、社交ダンスのように先生の腕から解き放たれ、しかし確かな力で握られた手首が引かれることによってゴムのように戻る。
はっきりと分かった。先生は、危険からわたしを遠ざけた。わたしが再び先生の左腕の中に戻ったとき、男の一人はすでに喉元を押さえて転がり回っていた。
「刑法第二二五条」
陶器の置物のように静かな声。その振動が、預けるしかないわたしの背を小刻みに揺らす。
「──なに?」
「営利目的等略取および誘拐。営利、わいせつ、結婚又は生命若しくは身体に対する加害の目的で、人を略取し、又は誘拐することをいう。法定刑は、一年以上十年以下の懲役」
「なんやそれ。弁護士か」
京都人といえども関西人だから、こういうときにもツッコミは欠かせないのだろうか、と思うほどにわたしの心は不思議な安心に浸されていて、同時に混乱してもいた。
「いや──」
掴みかかろうとする男。また、わたしの身体を随意にする力。姿勢をどうすることもできず、尻もちをついた。そうすることで、この嘘みたいな、嘘であってほしい情景がスクリーンに映し出されるみたいにして目に入った。
腰を回して繰り出される凄まじい勢いの突き。SNSで繋がっている武道クラスタの人が、同じような動きの動画をアップしていた。その動画では、突きを受けた人は、分厚いミットごと吹き飛ぶようにして倒れていた。
先生の体が、自動ドアのようにゆっくりと開く。左足を下げ、わたしに半身を見せるようにして。パチンコ店の開店を待っていた人のようにその空間に、男の拳が入ってゆく。
瞬間、先生が、気を合わせた。
下げた左足が、反発する。
左足を下げることで前に出た右の肩。それが、石壁をも砕く鉄槌に変わる。
胸に巨大な衝撃を受けた男は地に叩きつけられ、動かなくなった。
「──税理士だ。税にまつわること以外の法についての助言は、控えるべきなんだろうけどな」
ジャケットの襟を整え、聞こえていないのが分かっていながらそう言い放った。そのあとわたしを振り返り、今の動きで不格好にずれた眼鏡を直す。
「ありがとう、ございます」
男らが車へと逃げ去ったあと、助け起こされ、でも眼鏡の奥を覗くことはできず、うつむいたまま言った。これでは、助けられて頬を染めるお姫様みたいだが、そんなんじゃないことはわたしが一番に知っている。
「危ないなあ」
ここで腹を立てることができて、むしろよかった。わたしは、正常だ。
「他人事みたいに言わないでください。無責任な」
ちょうど、地面に投げ捨てられていたわたしのスマホが光を放った。ユウだ。わたしは先生への攻撃をやめ、それを拾い上げた。
「──もしもし、どしたのさ」
砂っぽくなった手触りの向こうに、ユウがいる。そう思えるだけで、また涙があふれてきた。
「え、泣いてるの?」
ユウは、いつだってわたしを心配してくれる。気にかけてくれる。友達だけど、ときどき、おねえちゃんみたいになる。そういうユウが大好きで、とても頼もしくて、わたしはなかなか言葉を発せられずに横隔膜を痙攣させていた。
「落ち着くまで、泣いてなさいよ。あ、ちょっとドライヤーするね。シャワー上がったとこだから」
わたしが泣いていても、ユウはどっしりと構えている。いつだってそうだ。
先生が、わたしを見下ろしている。ユウが待ってくれているのとは、それは違う。つとめて、そう思おうとした。
「もしもし、ユウ──」
「あ、応答あり。どした?」
「わたし、今、変な奴らに襲われて、さっきも、事務所に──」
必死で我が身に起きたことを伝え、助けを求めようとするわたしの手から、それを可能にする唯一の利器が奪い取られた。
先生。無言で、通話を終了させた。わたしは先生が何をしたのか理解できなくて、呆けたように見つめるしかなかった。
「言ったじゃん、危ないって」
危ない。その単語がわたしを支えた。
「──そうです。先生のせいで危ない目に合ったから、こうして友達に」
「何言ってんの」
先生の声は、色も温度もない。ぽっかりと空いた穴を覗くような気持ちになる。
「こいつら、俺のいないときに万さんを狙ってきたろ」
ということは。
「万さん──」
いやだ、聞きたくない。
「──こいつらに、個人を特定されてるよ」
たしかに、そうに違いない。SNSにも自分の写真をアップしたことはないけれど、きっと、こういう人たちなら先生と繋がりを持つ一般人を洗い出すのなんて、わけはないのだろう。
そして、ある意味で、先生に最も近い一般人が、わたし。だから、先生は言ったのだ。
「危ないなあ」
と。
スマホが、何度も何度も震えている。ユウが心配して掛け直してくれているのだ。
「出たら。ただし、気をつけてな」
わたしは頷き、口元にスマホをあてがった。
「ごめん、ユウ。なんでもない。またこんどさ、ご飯行こうよ。そのとき詳しく話すから」
「え、そう。なんかさっき、襲われたとか言ってなかった?」
「ああ、ごめん、違うの、例えて言おうとしただけ」
「何事かと思うじゃない。勘弁してよね。あんた、前からそうよね。下手くそな比喩みたいなの、めっちゃ好きじゃん」
ユウは安心したのか、明るい声に戻った。
「うん、うん──じゃあ、また連絡する」
ユウまで巻き込むわけにはいかない。その意思だけは何よりもはっきりとしている。
スマホをカバンに押し込んで、先生を見た。長身だから、見上げたと言う方が正しい。
「詳しく、話そうか」
先生は、歩きはじめた。
わたしは、そのあとに続いた。
ふしぎと、さっきまでわたしを支配していたこの世の終わりに等しい恐怖と絶望は、今はなかった。
ただ、誰も渡ることのない押しボタン式の信号がもたらす黄色の点滅が、わたしたちを照らしては夜に消してと忙しく働いていた。
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