第二章 裏と表

危険が危ないとエマージェンシーを告げる

 ハブは南の島に棲む蛇で、猛毒がある。それ以上の知識は、わたしにはない。ましてや、あの男が言ったように、先生がそういう風にあだ名されるようなことをしていたということなんて。

 肝試しに来ていた学生みたいに逃げていった男が残した花瓶の残骸と静寂を眺め、先生は言った。

「万さん。悪いけど、片付けるの手伝ってくれるかな。明日でいいから」

 それで、わたしの中の何かが騒いだ。

「冗談じゃないですよ。どういう神経してるんですか」

「どういうって、さあ──」

「信じられない。あんな乱暴されて、どうしてそんなに平然としていられるんですか。死ぬかと思ったじゃないですか」

 先生は、困ったような顔をしている。それがわたしを救うような気がして、なぜか拒んでやりたいような気持ちになった。

「この際、洗いざらい白状してもらいますからね。どうして先生が悪い人に狙われるのか。先生が、なにをしているのか」

「うまく説明できるかな」

 こいつ、と思った。もしかすると、どこかのネジが緩んでいるか足りないのかもしれない。それくらい、先生は落ち着き払っていて、なおかつわたしの要求に困惑しているらしい。

「この世の中にはね」

 話題の分母が大きい。こういうとき、たいてい、中身のない話になりがちである。

「許しちゃいけないことがあるんだ」

 それは、そうである。先生は腕のジャケットをデスクの上に無造作に放り投げ、椅子に腰掛けた。

「法律は、時として、そのために用いられることもある」

 法律が悪を裁くためのものではなく、社会の均衡を維持するためのものであることはなんとなく分かるから、先生のこの物言いは理解できる。

「だけど、それにしても、この世には裁かれざる悪が多すぎる」

「じゃあ、先生は、やっぱり」

 法に代わって悪を裁く。正義の味方だと言ったとき、もなく否定したくせに、と思うと腹が立ったけれど、やっぱり、先生は悪人なんかじゃない。そう思うことが、わたしのこの心うちの騒がしさを落ち着ける糸口にできるかもしれないと期待した。

「僕は」

 わたしの言うことを引き取るように、先生が情の薄そうな唇を開いた。

「なにをしているんだろうね」

「はあ?」

 先生がそれを言うなら、わたしはどうすればよいのか。

「あれは、興嬰会こうえいかいの構成員だろうね。でなくとも、それに雇われた半グレのような」

 興嬰会というのは京都の中でも指折りの規模の反社会的勢力で、半グレというのはその正規構成員ではないにしてもそれに準ずるようなことをする人のことを言うのだと、頭に漂う知識を動員して頭の中に整理した。

「そんな人たちと先生と、いったいどういう関わりが」

 まさか、地元の人なら子供でも知っている興嬰会を相手に立ち向かうわけではないだろう。そうでなければ友達なのかもしれないが、それこそあってほしくないことである。

「ああいう連中の下部組織なんかは、モグリだけあってふつうの税理士なんかは関わりを持ちたがらないからね」

 だから、を取っている。そうなのだとしたら、わたしはこの事務所を辞めたいと思う。べつにそういう人たちがどうこう、と言うつもりはないが、先生がそういう人たちとコソコソと関わりを持っていたというのが我慢ならない。

 そのことを口に出してやろうと、わたしの唇が言葉を発するためのスイッチを慌てて探すが、それに手間取っている間に、先生はデスクの上のジャケットをまた手にして、わたしを促した。

「片付けは明日でいいよ。今日はもう、帰ろう」

 足の甲を釘で打ち付けられたように動かないわたしに、疑問の視線を投げかけてくる。

 その瞬間、わたしの中に封じられし鬼が目醒めた。

「事態を分かってるんですか、ほんと、なに考えてるのか全然分からない。馬鹿!」

 わたしはわたしを支配して意のままに振る舞おうとする鬼を抑えようともせず──なんてお母さんが聞いたらアニメの見過ぎだと怒られるだろうけど──、声を張り上げた。きっとそれはこの事務所の薄っぺらいガラス戸を突き抜けて、陽の落ちた西陣の細道に響き渡ったことだろう。

 わたしは、そのまま、事務所を飛び出した。先生がなにか言おうとしたけれど、構うことはなかった。とにかく、ここにいることが怖かったのだ。


 ユウに連絡しよう。駆けながら、そう思った。連絡して、来てもらおう。わたしは、ここから一歩も動きたくない。じっとしていることはできないけれど、このまま暮れた街に吸い込まれて消えてしまいそうに感じた。こういうときに助けてくれるのは、ユウしかいない。

 意を決して駆け足を止め、近所の子供で賑わう夕方とはうってかわって静かで暗い公園に身を寄せてスマホを手に取り、それが発するブルーライトに照らされると、なぜだか安心した。

 だけど、ユウに電話しても、出ない。メッセージを送っても、既読は付かない。まだ仕事中なのだろうか。それとも、単に気付いていないだけなのだろうか。

 命綱だと思って握りしめたスマホは、ただのプラスチックになった。その中に包容されるべきわたしの全宇宙は、ただの冷たい無機物になり果てた。

「なんでよ──」

 呟いていた。喉がからからになり、わたしの声じゃないみたいだった。

 鼻の奥が、その向こうにあるわたしの何かが、じんと痛む。

 怖くて、心細くて、泣いた。まだこの時間ならちらほらと人通りはあるが、公園の薄明かりに浮かぶわたしの存在を感知できる人は誰もいない。

 もう、だめだ。あんな怖い思いをするなんて。

 さっきの出来事からわたしが遠ざかるほど、わたしの身に降りかかった危険の形がよく見えた。それが、わたしの手を小刻みに震わせた。ぽろぽろと涙を流しても、はなをすすっても、何をどうしたって怖い。

「たすけて」

 呟いた瞬間、背後に気配と声。

「お嬢さん」

 振り向くと、見るからにカタギではなさそうな男。それも、二人。

「なに泣いてんのやさ。あんた、羽布税理士事務所の人やんな」

「かわいそうに。めっちゃ泣いてるやん」

「そらそうや。怖い思いしたんと違うか」

 わたしのことを、言っている。わたしを見下ろして、ふたりで。そして、片方の男が、わたしに手を伸ばしてきた。

「あんたんとこの悪い先生に用があってな。そやし、ちょっと協力してほしいんや」

「嫌!」

 全力で、それを払いのけた。もう、いい加減にしてほしい。わたしが、何をしたと言うのか。どうして、こんなに怖い思いをしないといけないのか。

 手握りしたままのスマホが、息を吹き返した。ユウだ。着信に気付いて、折り返してくれたんだ。

 助けを求めなければ。今さらのように危険が危ないとエマージェンシーを告げるわたしの本能が応答しようとした瞬間、男のがさつな手がわたしの命綱を取り上げた。

「おっと。しょうもないことすんなや」

「どうもないて。ちょっと一緒に来てもらうだけやし」

 よく見ると、公園の脇にハザードを光らせた車。絶対絶命。さっき、先生に見せたわたしの中に棲む鬼はどこへ行ったのか。わたしは、どうなるのか。どこに連れて行かれるのか。わたしは、もう終わりだ。ああ、おかあさん、悪い娘でごめんなさい。さいごに、実家で飼っている犬のクッキーに会いたい。わたしのことなんて、忘れてるかもしれないけれど。

 こんなときでも、わたしの思考は遊んでしまうものらしい。わたしを暮れた西陣に引き戻したのは男の乱暴な腕やアリを弄んで喜ぶような物言いではなく、また別の声だった。

「あんたら、なにしてんの」

 静かな男の声だったから、助けて、と言おうとして振り返った。

 そこには、見慣れた、そして見たくもない人間の姿があった。

「先生──」

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