ハブ、西陣にあらわる
「さて――」
先生は、呻き声を上げる男の喉元に割れた花瓶の破片を突きつけながら、静かに口を開いた。
「――しっかりと吐いてもらう。ミヤコの差し金だな」
ミヤコ、という名を耳にして、まっ先にあの金曜の夜の女のことを思い浮かべた。あの女は、先生を潰すと言っていたけれど、まさかこんな具体的手段に出てくるなんて。というより、そんなことをほんとうにする人がこの世にいるなんて。わたしはそう思って、まだ解けない金縛りの中で戦慄した。
「お前、こんなことして、ただで済むと思てるんか」
生まれも育ちも京都なんだろう、この男は背中を打って息をうまく吸えないでいるらしい。ふつうに道に倒れていれば間違いなく救急車を呼ぶレベルで、とても苦しそうにゆったりとした京訛りで喘いでいる。そのミスマッチがなぜかおかしくて、笑ってしまいそうになる。あまりに急にこんなことが起きたから、わたしはどうかしてしまったのかもしれない。
「ただで?いいや、多額の追徴を払うのは、お前の雇い主の方だ」
先生の声は、やっぱり冷たい。いつも感情を持たないアンドロイドみたいなところがあるけれど、今の先生は、金曜の夜と同じで、自ら進んで冷たい声を発しているようだ。言葉遣いも、まるで違う。
「何の恨みがあって、そんな。うちが追徴食らっても、それを逃れてあんたが風営法でチクっても、どっちみちあんたには一円の得も――」
「川合商店という、呉服の卸売業者があってな」
屈強な男の顔には、クエスチョンマークが浮かんでいる。先生は花瓶の破片を喉元に突きつけたまま、男とは眼を合わせず、呟くように言った。
「俺のところに、助けてくれと駆け込んできた。商売が廃業寸前なんだそうだ。いや、こんな古い街だ。順風満帆に経営しているところなんて、少ないさ」
「いったい、何の話や」
最後まで聴けよ、と先生の握る破片が言った。男は床に背を預けたまま両手を小さく挙げ、無抵抗の意思を示した。
「それでよかった。儲からなくても。だから、ずっと川合商店はそんな経営状況だった。それが、ある日、店を救ってくれ、と俺のところに駆け込んできた。五十を越えた親父が、血相を変えて、だ。なぜだか分かるか」
男は、分からない、と眼だけで答えた。首を横に振れば、頚動脈が切れてしまうと思ったのだろう。
「一人娘がいるんだとよ。高校二年生だ。家の仕事がヤバいから、って最近バイトを始めたそうだ。よくある話さ。なんてことない。親父は、はじめ、娘の健気さを喜び、同時に申し訳ないと思い、娘の進学に障りが出ないよう、仕事をもっと頑張ろうとする程度だった」
男の目の色が、沈んだ。川合商店の話がどう繋がってゆくのか、察したらしい。
わたしにも、分かる。川合商店といえば、わたしがまだここに入って間もない頃、血相を変えて事務所に飛び込んできたお客さんだ。
会社を、救ってくれ。社長は、涙を浮かべてそう言った。
まあ、どうぞ、と静かにソファを勧める先生に向かって社長が語った身の上話を、よく覚えている。
奥さんは五年ほど前に若くして亡くなってしまい、年老いて施設に入っている両親と一人娘の面倒は社長が一人で見ていた。会社の経営はずっと危ないままだけど、今に始まったことではないから、特に手を入れることはなかった。
ある日、娘が私立大学への進学を希望した。もちろん、川合家にそんな金はなかった。娘は、少しでも家計の足しに、とアルバイトを始めた。
しばらく過ごすうち、娘の帰宅時間があまりに遅いことがあるので、社長は不審がった。問い詰めると、木屋町のJK喫茶で働いていることを白状した。
大学時代、そういうバイトの経験のある同級生がいて、話を聞いたことがある。
女子高生が客と店内で話をし、そこで客と女子高生の間で何かしらの交渉が行われ、店外に連れ立って出てゆく。散歩だけなら幾ら、食事なら幾ら、カラオケなら幾ら、というように相場があって、その報酬のうちのいくらか、もしくは全額が女子高生の手元に入る。
店の言い分としては、店は単に飲食店として営業しているだけで、そこで客同士が偶然出会い、意気投合して行動を共にするのだから店は関係ない、というものだ。
店が何を言おうと、ただ歩いたり食事をするだけでは終わらないこともある。援助交際の温床にもなっている。川合さんの娘さんがどこまでのことをしていたのかは分からないけれど、社長は、娘にバイトをやめさせたい、それには会社の経営の改善が必要だ、と言った。
「川合さん」
そのとき、先生は突き放すように言った。
「ここは、税理士事務所です。ご相談は、承りました。正式にご依頼なさるのであれば、全力でお応えするよう善処します。しかし、お嬢さんとのことは、私には分かりかねます。それは、あなたとお嬢さんとの間で、よく話し合うべきだ」
「羽布先生、それはもう、よう分かってます。そやけど、里奈の奴、うちの稼ぎでは、大学なんか行けたもんやない、わたしにバイト辞めろ言うんやったら、まず会社をどうにかせえ言いよるんです」
先生の冷たさなどまるで感じぬように、川合さんはむしろ身を乗り出して返す。
先生は、会社の収支管理の依頼を請け負った。経営状況を判断する資料などを色々受け取り、検討し、改善すべき点を挙げ、税の軽減などの方法について助言をすることになった。
しかし、それを実行する前に、川合さんは過労で倒れてしまった。ちょうど、寒くなり始めた頃だ。川合商店は商売を続けることなどできず、廃業してしまった。
「娘さんは、どうなるんでしょう。施設にいるという、お爺さんやお婆さんは」
その報せを近所の人から聞いたとき、わたしは先生に言った。
「さあ。どのみち、この世には、あちこちに蟻地獄がある」
今思えば、そのときの先生の横顔は、男の喉元に紛れもない殺意を向けているわたしの目の前の先生と同質のものであったかもしれない。
「お前を飼っている奴の店が、川合商店を潰した。あの親父を苦しめた。あの娘を、食い物にした。なんの謂れがあって、というような顔を、お前らのような輩はよくする。俺がお前らを潰すのは、お前らが、この世にあってはならない悪だからだ」
そこまで言って、先生は花瓶の破片をどけた。男はやっと息が吸えたらしく、よろめきながら立ち上がり、美味そうに古びた木造建築の匂いを吸い込んで言った。
「よう言うわ。知ってるで。あんたも、ワルのくせに」
「――が、違う」
先生が何か言ったが、声が小さくてわたしの耳にも、おそらく男の耳にも入らない。
「なんやったか。牙で噛み付いて、ゆっくり毒を獲物に流し込んで料理する。そや、あんたの苗字と一緒や。ハブ、言われてたんやってな。おお、怖。あんたみたいな悪人が、どの口で言うねんな、ほんま」
先生が、握った花瓶の破片を捨てた。男が一瞬身構えたが、先生は手に引っ掛けたままの皺だらけのジャケットを羽織っただけだった。
もじゃもじゃになった前髪の奥。汚れた眼鏡。くい、とそれを直すと、そのまたさらに奥にある目が、獲物を狙う毒蛇のように光った。
「土俵が違う」
不敵、としか言いようのない笑み。それを浮かべながら、後ずさりしながら入り口に手をかける男に向かって言い放った。
「応接机。調度品。その他もろもろの被害に関する弁済請求は、させてもらう」
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