泣くしかない

 あの女の人は、夜の街で悪いことをしている人。たぶん、暴力団関係かなにか。先生は、いったいどういう関わりを持っているんだろう。

 いろいろなことが気になって、仕事が手につかない。

「さっき頼んだの、できた?」

 先生の声がかかって、わたしの思考はぱちりと音を立てた。

「ああ、ええと」

「丸長染工の書類、プリントアウトしてくれた?」

 先生は、ランチのあとわたしに頼んだことを繰り返した。

「ごめんなさい、すぐに」

 先生が節税についての助言をし、法人設立のための段取りをした染工場の件。明日は火曜日だから、約束は十時。先生が持っていく書類に添付する資料のプリントアウトすることを頼まれていた。

 うわの空で聞いていたわたしはすっかりそのことを忘れてしまっていて、大地震の前のようにマウスを駆け回らせる。


 しんとした室内。

 窓の外で、豆腐屋さんの自転車のラッパ。

 機械的な音を眠そうに立てるプリンター。一部、二部、と資料が出力されている。それを離れたデスクから操るわたしの手元を、先生がじっと見ている。

「ごめんなさい。すっかり、忘れてしまっていて」

「万さんには、珍しいことだね」

 また、わたしたちのいる事務所は古い木造家屋の香りを立て始める。わたしが何か頼まれごとを忘れてしまっていたりしたら、こうしてデスクのすぐ脇に立ってそれが終わるのをじっと待つ。いつものことだ。プレッシャーを与えているつもりなのか、単に何も考えず待っているだけなのか。もともと変わった人だから気にしたことはなく、待つなら自分のデスクで待っていればいいのに、くらいにしか思っていなかった。


「すみません、すぐに纏めます」

 わたしはプリントアウトされた資料を取りに、立ったり座ったりする度に南国の鳥みたいな声を上げる椅子から大きさが気になるお尻を上げた。小尻効果があるなんて言われている形の脚長パンツを選んでみても、雑誌のモデルのようにはなれない。

 そういえば、いつも読んでいるファッション雑誌の今月号を、まだ買っていない。もうすぐ給料日だから、新しい服を買おうと思っていたんだった。

 土日の間に買い物に出かけようとしていたのに、なんとなくぼんやりと過ごしてしまって、機を逸している。

 ぜんぶ、先生が悪い。そう思うことにした。そうすると、だんだん腹が立ってきた。

「どうぞ。お待たせしました」

 資料を順番に重ねて綴じ、言葉に棘を生やしながら手渡す。それを受け取り、

「怖いな」

 と先生はぶっきらぼうに言う。怖いのはどっちだ、と言ってやりたい気もするが、鬱陶しい天然パーマの前髪の奥に光る眼鏡のそのまた奥にある目を資料に落とす先生を睨んでいると、喉まで出かかったそれは逆再生されてお腹にまた戻っていった。


「それで。万さんは、どうして税理士事務所に?」

 数ページ分、資料をめくったあたりで、先生は呟くように言った。

「わたし?」

「昼間、僕のことを訊いたじゃないか」

 たしかに、先生はどうして税理士に、と聞いた。自分が答えたから君も、というただのコミュニケーションなのか、別の意味があるのか。

「面接のときに、言いました」

「忘れた」

「──祖父が亡くなったとき、相続のことが大変で。親戚でも揉めたりして。父は相続税を払うために、せっかく祖父がお前に、と言って遺してくれた土地を売ってしまう羽目になって」

「税なんていうのは、自分に関わりがないと思っていた。実家は自営業もしていたから、相続だけじゃなく所得税なんかのことも君のお父さんは何も分からず、大変困り、苦労した。そういう姿を見て、君は自分の人生において困ったり、人と揉めたりせずに済むように、自分で自分の身を守る術を学ぼうとした」

 先生の眼が、資料からわたしの顔に向けて上がった。わたしは、なぜかちょっとたじろぐような気持ちになった。そういえば、先生は、ほとんど人と眼を合わせない。普段は薄ぼんやりしているくせに、こんなに力のある視線を持っているんだ、とやっぱりちょっと怖いように思った。それを、

「ちゃんと、覚えてるじゃないですか」

 と言ってやることで抑えた。

「面接で身の上話を聞いたのは、初めてだったんでね」

 また、先生の眼は資料に落ちた。そうすると、ただの冴えない変人だ。

「何人くらい、面接されたんですか?」

「万さんだけだよ」

 え、とわたしは思わず声を上げた。

「面接で身の上話を聞いたのははじめて、って」

「そう。はじめての面接だったから、はじめて聞いた」

 なんだか、調子が合わない。からかうようなことを言うが、そんな様子でもない。

「じゃあ、わたしは、先生のはじめての面接で即採用だったんですか」

「そうだよ。ピンと来たんだ」

「直感、ってやつですか」

「いいや、ちゃんと理由はある」

「理由?」

「さて、なんでしょう」

 先生は資料を閉じ、お客さんを訪問するときにいつも持ち歩く四角い鞄にそれを入れた。

「万さん、うちに来てどれくらいだっけ」

「去年の秋からですから、もうすぐ半年です」

「そうか。たぶん、これから忙しくなるよ。よろしくね」

 そう言う先生の頬には、見慣れない線が刻まれていた。金曜日の夜に見たものと、同じだった。


 得体の知れないものが、この時間から置き忘れられたような街にいる。先生のこの笑顔は、わたしにそう思わせるには十分なくらさと新しいカッターナイフみたいな凄味があった。

「こんな時間だ。帰ろう」

 いくら直してもなぜか必ず少しだけ傾いてしまう掛け時計。それが、六時四十五分を指している。確定申告の時期は目も当てられないほど忙しかったけれど、先生の計算や申告書作成は素人のわたしが見ても凄まじいスピードだから、きっと他の税理士事務所ならもっと残業させられるんだろうと思い、自分を励ましていた。

 それに比べれば、まだ早く終わる方だ。友人たちは毎日残業、残業で苦しんでいるから、わたしは恵まれている。

「世の中、この時間に終わる仕事の方が少ないのかもな」

 先生が、わたしの心を読んだようなことを言う。驚いた眼を向けると、

「時計に眼をやり、伏せた。何か思うところがあるということだろう。だから、確定申告のときは忙しかったな、でも友達に比べればわたしはまだマシ、なんて思ってるのかな、って」

 わたしは今目の前で淡々とそれを言う生き物にあたらしい名前が必要なんじゃないかと思って、必死でそれを考えた。そうしなければならないくらい、先生のことを怖いと思った。小さい頃からお母さんにも、あなたは切羽詰まるとすぐ現実逃避をしようとする、って言われ続けてきたけれど、こればかりはどうしようもない。

 読心先生?いや、イケてないから独身先生。色白だから白人先生だけど、実は税理士というのは世を忍ぶ仮の姿で、ほんとうは街を救うスーパーヒーロー。それならそのまんまスパイダーマンだけど、髪が蜘蛛の巣みたいだからむしろやっつけられる方かもしれない。

 お母さんが見ていれば、ほら、悪い癖、と二の腕あたりを小突くであろう状態になっている自覚はあるけれど、そうすることで落ち着きを取り戻せるのだから仕方がないとわたしがわたしを弁護する。

 それを、見事に打ち破ったもの。

「お邪魔しまあす」

 妙に間伸びした、太い男の声。それが、頼りなくきしむ重たいガラス張りのドアから吹き込む陽の暮れた西陣の細道を駆けていた風と共に入りこんできた。

「いらっしゃいませ。すみません、今日はもう──」

 男は先生よりもずっと背が高く、ジムのトレーナーみたいな体型をしているのが春物のコートの上からでも分かった。その太い腕が、わたしをいきなり押しのける。

 よろめいてソファに助けられたわたしが驚いて見上げると、男はいきなり大きな声を上げながら乱暴に応接テーブルの上にある灰皿や花瓶などを払い落とした。

 ガラスの割れる音が、わたしの身体を金縛りにする。先生は、と思ってかろうじて首を曲げると、先生もビビってしまって硬直しているのか、ジャケットを腕に引っ掛けたまま微動だにせず、声を上げて暴れる男の思うままにさせている。

「ほら、先生。なんでこんな仕打ち受けるか、分かるか。分かるな。分かるやろ」

 男は空っぽになった応接テーブルの上に尻を下ろした。アンティークの家具屋で七十万円したけれど経費で落としたから問題ないと以前に先生が言っていたテーブルである。それはこの場合問題ではないのだろうけれど、とにかく何が起きているのか分からなくて、怖くて怖くて、叫ぶこともできなかった。

 きっと、あの金曜の夜の女の差し金だ。それ以外に、ない。女は暴力団関係者で、なぜか先生はあの女を脅していて、その恨みを買っているんだ。それ以外に、このマッチョ男がこの西陣の古家で暴れる理由がない。

「お?先生。えらい静かやないか。まさか、ほんまにこんな仕打ち受けるとは思てへんかったんか。甘いで、あんた、甘いわ。ほんまに甘いなあ」

 勢いに乗った男が、スポーツブランドの高そうなスニーカーを鳴らし、先生に詰め寄る。あっと思ったときには、その腕を膨れ上がらせて先生の胸ぐらを掴んでいた。

 その瞬間。

 男の体は一回転し、花瓶の破片やら何やらで散らかった床に吸い込まれるようにして叩き付けられた。

「胸ぐら掴むってのはさ、シロウトがやることなんだよ」

 SNSの武道クラスタのフォロワーが呟いていたことがある。胸ぐらを掴む行為は心得のない者がすることで、自ら間合いに入って相手に腕を預けるというのは愚かなことでしかない、と。

 そのことを、先生は言っているのだろうか。だとしたら、先生は何か武道でもやっていたのだろうか。自分のことはほとんど話さない人だから知らなかったけれど、この男の鮮やかな回転の仕方、それをした先生は一歩も動いていないあたり、合気道か何かを極めているのかもしれない。

 先生はそのまま屈み込み、呟いた。

「刑法二〇八条、暴行。人への有形力の行使。あんたがしたのは、それにあたる。法定刑は二年以下の懲役、もしくは三十万円以下の罰金又は拘留、もしくは科料。まあ、この場合、俺も投げ飛ばしてるから、痛み分けってことにするか」

 素人と先生が言ったのは、武道のことなのか、法律のことなのか、その両方なのか。とにかく、先生は、男のそばに昭和のヤンキーのような姿勢で屈み込み、さらに呟いた。

「ていうか、あんた誰なの」

 わたしを気遣うでもなく、助けるでもなく、先生は割れた花瓶の破片をそっと手に取り、男に見せびらかすようにしてそれをこの事務所には不似合いなLEDの硬い光にかざした。

 わたしは、ソファと結婚したみたいにしてぴったりとくっついたまま動けない。金縛りが解けることはない。むしろ、それでよかった。もしわたしが金縛りに合っていなかったら、間違いなく泣いている。

 泣くしかない。マジで。何が、ということはなく、無事に帰れたらそうSNSで呟こう、と心に決めた。きっとみんな、心配してくれる。そうに違いない。

 よし、お母さん、わたし大丈夫だから。

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