睦美、討ち死に
「先生」
と呼びかけても、返事はない。月曜日の午前中というのは何かと慌ただしいから、いつものことだ。そのはずなのに、わたしはなんだか妙に不安になった。
「先生」
何度めかで、先生ははじめてわたしの呼びかけに気付いたような顔をして天然パーマそのままのだらしない頭を上げた。
「どうしたの、
反応を得たはいいけれど、その先の会話というものを想定していなかったわたしは口ごもった。
「お腹すいた?お昼にしようか」
そう言って笑いもせずパソコンを閉じる姿は、いつも通りの冴えない先生である。
わたしは金曜の夜のことを何も言い出せないまま、少し早めのお昼に出かけた。
先生は、わたしの前をいつも歩く。そして、振り返ることはない。何か呼びかけても背中で答えて、まるでわたしのことが見えていないかのように歩く。今までなら気にならなかったけれど、今日はなんだかそれがあの金曜の夜に見たおそろしいものを想起させるようで、ちりちりと不安がくすぶる音を立てる。
京都の街というのは、喫茶店が多い。なんでも、日本で一番喫茶店が多い街なんだそうだ。と言っても今は昔から京都の人が愛したレトロな喫茶店はめっきり少なくなっているそうで、それを模したり町屋を改装したりして作られた新しいものも多いという。
長野生まれのわたしは昔の京都を知らないから、あの頃はどうだった、と二言目には漏らす近所のお年寄りの話題に対しては曖昧に相槌を打つしかない。
そういうお年寄りたちも多く集う、この喫茶店はきっと昔から何も変わらずにここにあるんだろうなということを思わせる喫茶店。事務所からも近いので、先生と一緒のときはよくここでランチを食べる。
わたしは、やっぱりオムライス。卵は固くてケチャップライスの味付けも濃いが、これはこれでお洒落なあたらしいカフェでは食べられない味だと思っている。先生は、ナポリタン。少食なのでサービスで付いてくるパンやスープはいらないといつも言う。
いつもなら、ここで他愛もない話をわたしが向けて、先生が気のない返事をする。ときに事務所のお客さんも来ていることがあるから、そういうときはもっぱらその人たちが先生の周りに集まってくる。
先生は変人だけれど、街の人には慕われている。実際、税理士としての腕は凄腕であるし、昔ながらの職人さんや織物工場や染工場、呉服問屋さんが密集するこの街の救いの神のようになっているところがある。
だけど、今日にかぎってそういう人もなく、店内はがら空き。わたしはなぜか気まずくなり、いつものようなお喋りができずにいる。
ただオムライスとナポリタンが運ばれてくるのを待つだけの時間に、誰の演奏か分からないジャズが色を付けている。
わたしの喉で唾が飲み下される音がしたのと同時に、先生が珍しく口を開いた。
「なにか、含みがあるね」
わたしの背筋は、驚いた猫のように膨らんだ。心の中を読まれたような気がして、怖い、という気持ちが頭の中を塗り潰すのをこらえるので精一杯になった。
「言ってごらん」
いつもと変わらない、静かで、面白みのない話し方。情の薄そうなラインの唇から、かすかなため息。
「金曜日のことかな」
わたしは、また猫になった。冷や汗とはちがう、ねっとりとした汗が使い込まれたスプーンを握った拳の中に満ちてゆく。
「見られてしまったね」
言葉だけを聞けば、今日の夜にはバラバラになったわたしの死体を山に埋めていそうなものだが、不思議とその響きには困ったような揺らぎが混じっていた。
「気付いて、おられたんですか」
わたしは、ケチャップの味の消えた口を、かろうじて開いた。
「そりゃあね。あれほどパタパタして、気付くなと言う方が無理だ」
「あの、女の人は──」
聞いてはいけないことであるように思いながら、先生の様子があまりにも普段どおりだから、滑り落ちるように口にした。
先生は、金曜の夜に見せたように、少し口の端を暗くして歪めた。笑ったのだろう。
「──悪人さ」
言葉というものは不思議なもので、いらないときにいらない言葉がたくさん出てくる。だけど、今、どうにかしてそれを継ぎ足さないといけない必要をどれほど感じても、どうしても出てこない。
「食べないの?」
と、先生がフォークでわたしのオムライスの皿を指した。それが助け舟のようになって、口を開くことができた。
「先生は、どうして税理士に?」
このまま雑談に持ち込めれば、どうにかこの気まずいランチを乗り切れる。わたしは、操縦不能になった会話の舟の舳先を、どうにかそちらに向けるようにと力いっぱい舵を切った。
「司法試験に、受かったから」
ナポリタンを咀嚼しながら感情のこもらない声で答え、また会話が途切れそうになる。
「司法試験に受かれば、その人は法律のエキスパートだから、当然、税理士として必要な知識も備えていると見なすことができる、ってやつですね」
「うん、まあ、そんなところだろうか」
「わたしも、なれるかな」
「さあ。万さん次第なんじゃないか」
「ひどい。こういうときは、君なら大丈夫だよ、とか言うもんですよ」
よし、とわたしは心の中でガッツポーズを決めた。なんでもない雑談に持ち込めている。先生のナポリタンは、残りあと三分の一。すなわち、五分ほどで食べ終わる。先生はいつも食べ終わると水を一気に飲み干して、すぐに席を立つ。どれだけ多く見積もっても、七分後にはこの時間から解放されるということだ。
先生の視線を感じて眼を上げると、それはわたしの皿に向かって落ちていた。
しまった、とわたしは思った。この場をどう乗り切るかということに夢中になりすぎて、オムライスに全然手を付けられていない。わたしの食べるペースは遅く、ユウにもいつも早く、と急かされる。このぶんだと、急いでもあと十分はかかる。
わたしは、ジャンプして崖を飛び越え、着地した先の床が崩れて結局谷底に吸い込まれてゆくわたしを感じた。また、スプーンを汗が曇らせる。
「いいよ。ゆっくりで」
わたしの焦りが、先生に伝わってしまった。だが、いつも通りの調子でそう言われると、やっと息が吸えたような気がして、我ながら変な顔をしていると自覚するほどぎこちなく笑い、食事という作業を続けることができた。
味がついているのかついていないのかすら分からなくなってしまったオムライスをかき込み、それをただじっと待っている先生がそうしたようにコップの水を一息に飲み干し、お待たせしました、と笑顔。レジに立ち、街のお婆ちゃんが開くのに数十秒かかる重たいガラス戸を開き、西陣の春に染まる。
あとは、どうにかして、この妙な時間をわたしが引きずらないように締めくくらなければならない。それには、もう一歩踏み込んでゆく勇気が必要だ。
「あの女の人が悪人なら──」
それは、あの女の人の話題に切り込むこと。討ち死に覚悟でなければ切り抜けられないシーンがあるのだ、とわたしは鉢巻をきつく結ぶサムライになった。
「──先生は、正義の味方ってことですね」
完璧だ。これで、何もかも冗談にできる。
そう思ったわたしに、先生は何色でもない視線と声を向けた。
「いいや──」
サムライになったわたしが、敵の大軍に飲み込まれてゆく。
「──悪人さ」
その締めくくりで、万睦美どの、お討ち死に、と叫ぶ注進がわたしの頭の中を駆け回った。
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